
参道
十数余の古塚が散在し、いずれも小円墳で、今はどの塚が誰なのか見分けがつかない。この地は鳥部山(阿弥陀ケ峰)の南にあり、藤原氏出身の后妃を火葬した南鳥部野とよばれたところである。天暦8年(854)正月、醍醐天皇中宮穏子(藤原基経四女)をここで火葬したのがもっとも早く、次いで一条天皇皇后定子(藤原道隆女)を埋葬し奉った。『栄花物語』巻7(とりべ野の巻)によれば、皇后定子は長保2年(1000)12月16日、お産のために急逝され、27日鳥部野の南、二町ばかりのところに霊屋をつくり、遺骸を埋葬した旨をしるしている。
折柄、雪のしきりに降り出すのをみて、隆円僧都は
白雪の降りつむ野辺は跡絶えていづくを墓と君を尋ねむ
と詠っている。その翌長保3年(1001)円融天皇女御藤原詮子(東三条院)をこの地に於いて火葬し、また後朱雀天皇皇后禎子内親王、白河天皇皇后賢子、後冷泉天皇皇后歡子火葬塚(小野皇太后)、堀河天皇女御贈皇太后苡子も火葬に付され、拾骨の上、それぞれの山陵に葬られた。万寿4年(1027)12月7日、藤原道長もやはりこの地に於いて火葬に付された。『栄花物語』巻30によれば、葬送の日は朝からひどい雪になり、夜になっても降りやまなかった。
法橋忠命は
煙り絶え雪降りしげる鳥部野は鶴の林の心地こそすれ
とそのときの情景を哀れに詠っている。
この地は古典文学史上、貴重な遺跡地である。
一條天皇皇后定子 鳥戸野陵
醍醐天皇皇后穏子火葬塚
円融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚
後朱雀天皇皇后禎子内親王火葬塚
後冷泉天皇皇后歡子火葬塚
白河天皇皇后賢子火葬塚
堀河天皇女御贈皇太后苡子火葬塚
陵から京都タワーが正面に見えます
関連記事 ⇒ まとめ042 陵墓
陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓東018 守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓
五七五
子育てのヒントをもらう動物園 /山本
ことわざ
後ろ指を指される
下のユーザー地図で京都の記事探索が出来ます。試してみてください