小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

明日から三月

2018-02-28 | ちょっと寄り道

何とか無事に帰宅しました。
最後は大学時代の友人と三人で熱海で合流。
熱海の泉質は好評でとても暖まります。

翌日は満開の梅園へ行きました。
おかげで宿は満室。

「小梅さん」はどんな梅だったのだろうかとじっくりと散策。
中山晋平記念館や瀧もありました。
そうそう足湯もあって梅を眺めながら体の芯まで温まります。













帰りの新幹線では久々に富士山が見られました。
春から何か良いことがあるといいな。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一月三十一日

2018-01-31 | ちょっと寄り道
今年の一月はとても長かった感じがします。
来る日も来る日も寒くて、睡蓮鉢の水も氷り珈琲の木も枯れてしまいました。
四月に越してきた大阪の環境に慣れつつありますがやはり和歌山より大阪の方が寒いのかも。
それでも春は近づいてきているのでしょう。
ダダの散歩で立ち寄った氏神さまの神社では梅が咲き始めていました。
小さな花びらの梅です。


今夜は三年ぶりの皆既月食だそうです。雲が意地悪しなければどこからでも見られるそうです。
頑張って寒いけれど眺めたいです。


このつたない日記は嘉永四年から嘉永六年と進みます。
あいかわらずカメの歩みですがなんとか続けていきたいと思ってます。
今後ともよろしくお願いします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「紀州徳川家歴代墓所」

2016-09-05 | ちょっと寄り道

長保寺境内の本堂と多宝塔の間の小道を登っていくと廟門がありました。
意外に簡素です。でも、ここをくぐって多くの方々がお墓参りに行ったのだと想像すると懐かしいような気もします。



紀州藩初代の藩主は徳川家康の十男で吉宗の祖父にあたる頼宣です。
ここの墓所にはその初代から十五代までの十三基と奥方たちのお墓があります。
えっと!五代藩主の吉宗(八代将軍)と十三代藩主の慶福(十四代将軍家茂)の二人は将軍になったので江戸に廟所があってここにはないわけです。
もはや森の中の山道を歩いて行くと、ところどころに石段があってその上に各藩主の墓所がありました。







まずは初代藩主の頼宣公の墓所です。
この長保寺がある山中に墓所を決めたのがこの方でした。
どこか天皇陵に似ています。
石段の昇降があるので全部は廻りきれません。
二人の藩主が並んでいるお墓もあれば奥方と並んでおられるお墓もあります。
側室方のお墓は廟門より下にある霊園にあるようです。



少々足が疲れてもお参りしたかったのは十代藩主の治宝公の墓所です。
小梅さんが生まれたとき(文化元年。1804)治宝公が藩主となりました。三十三才でした。
小梅さんは明治22年(1889)に八十六才で没しました。
治宝公は嘉永5年(1853年)に八十三才で永眠しました。
小梅さんの夫君は漢学者として十代藩主から十五代藩主に仕えたわけです。
従って、小梅日記には藩主がらみのことも度々書かれています。ただ、成長につれて名前が次々にかわっていくのでなかなか理解が追いつきません。
治宝公は五十三才で藩主の座を婿養子の(実子は姫ばかりだった)斉順公に譲って隠居します。が、藩政の実権は没するまで手中にしていました。
学問好きで知られた治宝は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。絵画、茶道、財政、建築などの造詣が深く歴代の紀州藩主の中では一
番の名君と言われています。
さすがに名君の墓所だけに初代と同じ大きさの規模です。







それにしてもどの方の墓所もというより全体に荒れ放題でした。
蜘蛛の巣は張っていますし枯葉も積もっています。一万坪という広大な土地管理するには多大な人手と費用がかかるのでしょうが、国宝をこれだけ保存するのであればそれなりの政策が必要ですが、赤字県では致し方ないのでしょうか。
高野山ばかりに頼らないでここも整備して花の散策ロードなどして観光客を呼べるのにほんとに惜しい素材だと思いました。





下っていって右手の細道に入ると鎮守堂がありました。
鎌倉時代に建立された重要文化財です。



山門まで戻ると工事の人がいたので教えて貰ってマルタ水産に寄りました。
海に面した丘の上一面に今朝採れたシラスが干されていました。
釜ゆでシラスとチリメンシラスを買いました。
速攻に帰宅してご飯に釜ゆでシラスを山盛りにしてスダチを絞りかけて遅めの昼食です。おいしかったです。また買いに行きたいです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「長保寺」 紀州徳川家菩提寺

2016-09-03 | ちょっと寄り道
「長保寺」
長保寺は「小梅日記」にも時折出てくる紀州藩の菩提寺のある天台宗の名刹です。
長保二年(1000)に一条天皇の勅願によって建立されました。
大門、本堂、多宝塔と三つ揃って国宝のお寺は法隆寺とこの長保寺だけだそうです。
また大名墓所としては全国一の規模だとか。
花の寺とも言われ桜の時期はとても賑わいます。
高速の海南インターを降りて道なりに走ると「長保寺」の看板があるのでそこを右折します。
JRぼ下津駅から2キロ。ウオーキングにはいいかも。

このお寺の多くは鎌倉時代に再建されたものですが大門の仁王像は大門より古く室町時代に造られたもので、左右の仁王像の時代を経てきた威厳と疲労が感じられました。










大門をくぐると長い石段の参道が続きます。
両側にはかってあっただろう宿坊風建物があり桜木、花々が植えられています。
その手前に受付がり入山料が三百円。無人なので箱に投入してパンフレットを入手しました。
箱の横に「ポケモンGOで来られた方もお支払いください」とありました。(でもポケモンはいなかったです)



石段を登り切った正面に本堂があります。
本尊 釈迦如来、右脇侍 普賢菩薩 像座、左脇侍 文殊菩薩 獅子座。
お賽銭を入れて合掌。
中からは大勢のお坊さんの読経が聞こえてきます。
本堂を覗いてみると内部の周囲には燭台が並びローソクの火が瞬いていました。
そして、お坊さんは一人もいらっしゃらない。
ハイテクです。





右手に美しい多宝塔があります。
中のご本尊は寺の創建当時に造られた金剛界大日如来坐像です。これは見られませんでした。





境内の左側には手前から鐘楼、阿弥陀堂、護摩堂が建ってます。
鐘楼も年代を感じさせられる枯れ色に魅かれます。





右手奥の一段高い位置には鎮守堂がありますが、こちらは帰りのお楽しみにします。
東の山手の山中には紀州徳川家歴代藩主の広大な墓所があります。
少し登って廟門に向かいました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崇徳上皇3 西行と清盛と後白河 

2016-07-21 | ちょっと寄り道
 
 西行は俗名を佐藤 義清(さとう のりきよ)という北面の武士で清盛の朋輩として共に御所の護衛をしていましが、その一方で和歌に優れた才能があり朝廷へも自由に出入りができました。
 源氏物語に書かれているように官位の高い宮廷人にはサロンがあり、囲碁や貝あわせ、蹴鞠、歌会、演奏会など優雅な集まりがありました。中でも歌会は盛んで身分の上下に関係なく強い絆が結ばれていたりしたようです。
待賢門院璋子のサロンはとりわけ華やかで西行の歌才が愛されていました。
 崇徳天皇もここの常連で西行との歌論などで賑わって歌会も盛んでした。璋子が落飾した折に一緒に尼になった堀河の歌も百人一首に選ばれています。一説には西行が生涯璋子を思い続けていたとありますが、崇徳とも固い友情で結ばれていました。清盛から天下の情勢を聞くにつけて心を痛めていた西行ですが宮廷内の権力争いの渦を見て嫌気がさして出家したそうです。璋子と崇徳が凋落していく有様に対してなんと無力な自分を呪ったのかもしれません。漂白の歌人西行はひたすら亡くなった方への菩提を弔い、権力を掌中にした清盛へは各地の情報を知らせ、寺の建立や改修を請うたのです。
 西行は讃岐院の没した三年後に崇徳が荼毘にふされた地へ赴き近くに庵をむすんでしばらく滞在して冥福を祈ったといいます。

歌人 崇徳上皇
「久安百首」「詞花和歌集」などの歌集があります。
    
   瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
   ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて
   浜千鳥跡は都に通へども身は松山に音をのみぞ啼く
   命あれば茅か軒端の月もあり知らぬは人の行末の空
   啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす
   (上皇の遺跡の多い付近ではホトトギスが全く居なくなった)

西行
勅撰集『詞花集』『千載集』『新古今集。家集『山家集』『山家心中集』『聞書集』、

   今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり
   世の中を背く便りやなからまし 憂き折節に君逢はずして
   松山の波の景色は変らじを かたなく君はなりましにけり
   身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
   よしや君昔の玉のゆかとても かからん後は何にかはせん

 このように崇徳院と西行の心のつながりは強く固い物でした。
 一方、清盛は全くの硬派です。
 祇園女御という女性が居ました。白河法皇の色好みは見境がありませんでした。男子が生まれれば僧にし、ときには「おぼえがないのう」ととぼけられるのです。中には愛着を感じていつまでも傍に置いておく女性も何人もいました。祇園女御もその中の一人で待賢門院璋子を最初に養女にした人です。白河法皇はこの女御の妹にも手をつけました。そして、海賊退治などで名をあげてきていた平忠盛に下賜したのです。当時、忠盛は女御の屋敷の警護もしていました。その頃は高い位の人から女人を下げられるのは名誉なことでした。その妹は男の子を産むと亡くなりました。その子が清盛で法皇の命名だという説もあります。しばらくは祇園女御の元で育てられましたが、忠盛が藤原宗子(出家してからは池禅尼)を正妻として迎えたので忠盛の元に引き取られました。
 宗子は崇徳の皇子の重仁の乳母になります。天皇の乳母ともなると大変な出世です。また宮廷で大きな力をもつことになりました。本来なら保元の乱では崇徳側につくべき清盛がなぜ後白河の方へ味方したのか。
この点については多くの学者さんたちが史書や古書を読み解きつなぎ合わせて各自の説をたてられておられますが、そうした本でさえ理解できない複雑な世界で簡潔に説明できません。
 無数の貴族とその縁戚関係、寺社仏閣。さらにフリーセックスによる子沢山などが複雑に絡んで、出世競争に権力争い…天皇家だけでなくどの貴族の家にでもある跡目争い…本に出てくる人名整理も大変!おまけに名前も位階もころころ変わりますし。ですから個人的情緒的になんとなく好きになった清盛の思いを想像するだけです。そして、その清盛はわたしがそうだったのではないかという清盛像でしかありません。

 一方、後白河法皇は「うつけ」と周囲から無視されて育ってきたので誠に自由人でした。庶民が歌う今様=遊女(あそびめ)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌)が大好きで女芸人に弟子入りして、今様を伝授され、ついには自らも歌い作るまでになってしまいました。そし崇徳が和歌を遺したように後の世にも残しておきたいと後白河が遺したのが「梁塵秘抄」です。

   遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声きけば
   わが身さへこそゆるがるれ

 こうした今様を通して後白河は人の心の複雑怪奇さを学んだのでしょうか。それに「うつけ」と馬鹿にされていた不遇時代との相乗によって頼朝に「日本国第一の大天狗」と唸らせるほどの不可解な独裁者へと育っていったのかもしれません。清盛の力を利用しつつ二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、清盛を天皇の外祖父まで引き上げた段階で頼朝に平家討伐を命じました。また義経に頼朝追討の令をも出します。武家勢力から朝廷を守り抜くために奮迅努力し続けたのが後白河法皇だったのでしょう。
 崇徳上皇はどこか源実朝を彷彿させられます。
 世界に向けて(子供の頃から地球儀を持っていたらしい)飛び立つために権力を掌握しようとした清盛は武士でも貴族でもなかったような気がしています。

清盛  1118年生~1181年没
西行  1118年生~1190年没
崇徳  1119年生~1164年没
後白河 1127年生~1192年没


 過日、京都の花園にある法金剛院に行った写真がでてきたのでアップします。
 花の寺としても有名です。

            


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする