小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

ふっかつ?

2013-10-30 | 環境
 八月以来のごぶさたでした。
 来春公演の芝居の脚本に手こずっていました。
 高齢者ばかりの船旅ツアーの物語です。
 役者の数や場面転換など芝居には制約が多いので苦労です。
 オリジナルなのに(先回はもう一つの林芙美子で資料あさりが大変でしたが)オリジナルだからこその悲壮さも相まって「書けません~!」と断ろうかと思った程でした。
 同居人に訴えても「毎度のことじゃないか」と相手にもしてくれず、夜中に起きだしてはシコシコ紡いでおりました。

 おまけに白内障の手術も決まって検査とかいろいろ。
 コレが終わればもっとキーボードもうちやすくなるのでしょうか。
 眼球にメス!!もう、怖くて怖くて…先輩方はたいしたことないと皆さん言われますがこわがりなんです。

 さらにふと見たサイトで衝動的にiphone5のゴールドを申し込んでいましたら、忘れた頃に入荷のお知らせがあり。
こちらも奮闘努力中。なにしろ、auのお姉さんの不手際でアドレス帳の移行ができなかったのです(号泣)

 それでもなんとか脚本は脱稿しまして、先方も気に入って下さり二度の打ち合わせでやっと晴れて手が離れました。
この爽やかな気分は苦労しないと手に入らないものです。

 そこで、ようやく『小梅日記』をひらけました。
 相変わらず遅々とした歩みですが、気が向かれましたら覗いてやってください。
 ただいま、小梅さんは師走に突入していますので同じ頃に新年を迎えられればいいのですが。




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小梅筆塚

2011-05-19 | 環境

大昔から紀州にある東の宮神社。
先の戦火からも免れ、十日恵比寿で賑わう神社です。
なぜか、法輪寺というお寺も同居していて十七番の札所でもあります。
ここに小梅さんの筆塚があるということで行ってきました。



建立したのは小梅さんの曾孫にあたる方。
この神社へは小梅さんも数え切れないほどお詣りに来たに違いありません。
今後は日記の中で参詣の跡に気を付けてみましょう。
小梅さんの家からこの神社までは同じ市内だけどかなりの距離があります。
でも、昔の人は健脚だったから何ほどのこともなかったのかもしれませんね。



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『母上の金比羅参り』

2010-11-03 | 環境

小梅の母の辰子は家付き娘で婿を取って川合家を継いだ。
生年は不明だが慶応二年(1866年)に没している。
嘉永二年(1894年)時点で小梅は四十六才で辰子没年の時は六十三才になっているからかなりの長命であったといえよう。
安政五年(1859年)はコレラが流行し初孫を失う。さらに諸物価が高騰と大変な年だったが、その大晦日の日記には「いまだとし老いたる母君のいますをよろこびて、かつまた心を励ましつ…」とある。
幾つになっても辰子は小梅にとって心のよりどころだったのだろう。
辰子は本居大平に師事して和歌を学んでいて、それを小梅に伝授した。

はじめ、この日記に時々でてくる「母上、金比羅詣で」の金比羅さんを四国の金比羅詣でだと思ったのだが、それにしては旅支度の記述もなくあっさりしている上に何度も出てくるので、近くにもあるのだろうと調べてみた。金比羅さんが日本中にあることを忘れていたのだ。

どうやら当地の「観音寺」らしいと辿りついた。
和歌山市の市街地に今もあるが江戸時代から見るとかなり縮小されているようだ。

第23番 補陀落山 観音寺
(西山浄土宗)
如意輪観世音菩薩

「こんぴらはん」と親しまれる寺

 第23番観音寺は真空上人による開山と伝えられているが、戦災により資料が焼失しており年代の特定は出来ない。昭和20年の 空襲の際、寺は全焼し寺歴を語る過去帳も消失してしまったのである。過去帳は万一の場合に備えて写本を2部作ってあったようだが、不運が重なり過去帳の一 切が失われた。
 被災前までは、境内に鐘楼、本堂、鎮守祠金毘羅堂、稲荷社らが立ち並び、中でも金毘羅堂は「こんぴらはん」の呼び名で近隣の人から親しまれ、7月10日 の縁日には、多数の参詣者で賑わっていたようである。金毘羅堂なき現在では、2ヶ月に一度10日の夜に金毘羅画像の大掛軸を前に信徒さんたちによる法要が 行われている。また現在の本尊は、昭和37年に安置されたものであるが、かつては楠見寺(なんけんじ 和歌山市楠見)にあったもので、秀吉による紀州攻め と戦争の兵火を逃れた仏様である。
 江戸時代には紀州徳川家の庇護と奥女中の信仰を集めた寺であったが、戦後の区画整理により寺域も縮小され道路整備のため、境内と墓地も分断されてしまう。
 境内には、大名家の産婆さんの墓や戦前からあるソテツの木が残っており、寺の歴史を感じさせてくれる。
http://www.mason-kitani.co.jp/jiin/no23.htm  (和歌山西国三十三カ所より)

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紀州藩の学習館

2010-09-29 | 環境

学習館の全図



藩士の子弟に儒学の教養を授ける目的で藩校が設けられました。紀州和歌山藩藩校の名が「学習館」です。またつづいて江戸藩邸に「明教館」、伊勢松阪城に「松阪学校」が作られました。
江戸時代初期100年間ほどは藩立学校はなく家塾で学んでいました。
写真は学習館の全図
五代藩主(後に八代将軍)徳川吉宗は1713(正徳3)年、和歌山の湊昌平河岸に、初めて藩立学校「講釈所」を開きました(後に「講堂」と改称)。当時これに類する藩校を開設していたのは岡山藩・会津藩・佐賀藩などわずかでした。
十代藩主治宝(はるとみ)は1791(寛政3)年、湊の「講堂」を改修増築して「学習館」と改称し、規則や職員制度を整備しました。1836(天保7)年さらに拡張されています。
幕末の多事にあたって十三代慶福(よしとみ)は、江戸国学所(1855安政2年)・紀伊国学所(1856安政3年)を開設して国学教育を始めるとともに、江戸文武場(1856安政3年)・若山文武場(安政3年から万延年間)を開設して武術とともに和漢洋の学問所を併置して蘭学を授けました。さらに十四代茂承(もちつぐ)は1866(慶応2)年、若山文武場を拡張してそこに「学習館」を移しました。
1869(明治2)年制度変革して四民の入学を許可。1871(明治4)年廃藩置県で藩校は廃止され「県学」になりました。



現在この地にある株式会社世界一統は、学習館の跡地を南方熊楠の父である南方弥右衛門(初代)が紀州候から譲り受け、酒造業として創業したものです。
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「嘉永という時代」

2010-02-16 | 環境

嘉永というのは1848年から1854年までの期間の元号です。この時代の天皇は孝明天皇。
黒船の来航以来、伝統の存続を願いながら開国という状況に直面して困難な選択を強いられ続けた天皇です。
倒幕、攘夷、桜田門の変などの嵐の中で三十八才の若さで急逝。嘉永は七年で終わりました。
一方、江戸幕府将軍は十二代目の徳川家慶。天保八年に将軍職に就任したものの、先代で父である家斉が政治の実権を放さなかったので失意にの日々を過ごしていましたが、家斉の死後は天保の改革を行ったり、内憂外患の危機打開を図る努力をしたのです。
が、ペリー来航の慌ただしさの中で六十才で亡くなりました。政治の混乱を避ける為にその死は長く隠されていたのですが、やがて五ヶ月後に息子の家定が十三代将軍となりました。家定は病弱、癇癪持ちとされていて政治には殆ど関わらなかったらしいです。

佐久間象山、高野長英、水野忠邦、ジョン万次郎、島津斉彬、徳川斉昭らの名前が日本史の教科書にでてくる頃です。
「嘉永時代」は日本が大きく変わる先鞭の時代だったといえましょう。
江戸からは遠いとはいえ、紀州藩は御三家の一つですし、海に面しております。そんなことから情報が入ることも多く、海の警固問題もあり城内にはいつも緊張感が漂っていました。

どんな世の中であっても女は衣食住の采配をしなければなりません。
親戚、近所つきあいも女の仕事。
国というのは一人一人の人間があってのことですし。

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