いせ (生没年不詳)
難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をすぐしてよとや
九世紀末から十世紀はじめの伊勢守だった藤原継蔭の娘だったことから「伊勢」と呼ばれてます。 悲しいことにこの当時の女性たちの殆どは誰それの娘とか妻、あるいは役職名しか残っていません。 ですからこの人も「伊勢ちゃん」と呼ばれていたわけではないのです。
伊勢は美しく気だても良く賢い娘でした。そこで、宇多天皇の中宮温子にお仕えすることになりました。内裏には大勢の公達が出入りをしていて多くの男性から求愛されましたが、伊勢の心を捕らえたのは藤原仲平でした。
仲平は関白太政大臣藤原基経の次男坊でしたから受領の娘の伊勢とは身分に大きな差がありました。父の継蔭は身分違いの恋をたいそう心配しましたが、果たして、仲平は出世してゆき大臣の姫と結婚して伊勢は捨てられてしまいました。
深く傷ついた伊勢は当時の父の任地だった大和に戻っていきます。人々の口さがない噂からも逃れたかったのかもしれません。大和の伊勢の元には仲平の兄の時平から頻繁に文が届けられましたが、伊勢の心は仲平にあったようです。難波潟の歌は短い逢瀬の時も作ってくれない、これっきりだというの?と切ない思いを詠ったものなのです。
一年ほど経った頃、温子中宮から出仕のお誘いがあり、泣き暮らしていた伊勢でしたが父の勧めもあって再度内裏へとあがりました。仲平がまたも文を送ってきましたが、伊勢はきっぱりと拒絶します。生まれ変わろうと再度の出仕に踏み切ったのですから同じ事は繰り返せません。
この頃から伊勢の歌は高く評されるようになっていき、公的な屏風歌で広く名前が知られるようになりました。そして、そんな伊勢に求愛したのが宇多天皇でした。お仕えしている中宮の温子には申し訳ないことでしたがこれは断れません。宇多天皇には大勢の后がいましたが、伊勢は寵愛を受けて行明親王を生みました。「伊勢の御息所」と呼ばれるようになった伊勢に中宮温子は以前と変わらずやさしく接してくださいますし、伊勢も慕って心から仕えていました。
幸せは長く続きませんでした。幼い行明親王が亡くなり、宇多天皇は譲位して出家され、間もなく温子も薨じたのです。悲しみに沈む伊勢を慰めたのは若き貴公子、宇多天皇の第四皇子の敦慶親王。すでに伊勢は三十歳をこえていましたが二十五歳の親王のプロポーズを受けました。う~ん、よほど魅力ある女性だったのでしょうね。
伊勢は敦慶親王の子供を産みます。今度は皇女で後には有名な歌人となった中務(なかつかさ)です。
晩年は現在の大阪府の高槻市で過ごしたとの伝えがあり、伊勢寺では毎年十二月には「伊勢姫忌」が開催されています。
伊勢の歌の評価は高く古今集・後撰集・拾遺集の三代集のいずれにも女性歌人としては最多の入集数を誇こっています。また、藤原公任の撰になる『三十六人撰』では貫之・躬恒に並ぶ十首を採られ、古今集時代最高の歌人の一人としての扱いを受けています。定家の評価も高く『八代抄』に採られた二十三首は、和泉式部・式子内親王に次ぎ女流では第三位にあたります。