みちつなのはは(936~995)
なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る
いうまでもなく『蜻蛉日記』の作者です。父は藤原北家長良流、伊勢守正四位下藤原倫寧(ともやす)で母は源認女と推測されています。本名は例によって不明。兄に理能(母は藤原春道女)、弟に長能(母は源認女) がいて、菅原孝標女は姪にあたります。
天暦八年(954)に右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚して、翌年に道綱を生みました。
天禄三年(972)には夫の兼家の旧妻である源兼忠女の娘を養女として引き取りました。
日記の記述は翌年の天延二年(974)までなので、以後の生涯は不明です。
この日記が『蜻蛉日記』で歌人としての評価も高く、藤原師尹五十賀屏風歌、正暦四年(993)の東宮居貞親王帯刀陣歌合などに詠進しています。また、『傅大納言殿母上集』という家集も残されており中古三十六歌仙の一人でもありました。『尊卑分脉』には「本朝第一美人三人内也」とありますので美しい人だったのでしょうね。
『小右記』によりますと長徳元年(995)に死去とあります。享年五十九歳。
例によって名前がわからないので蜻蛉と呼びますが、この蜻蛉の父の倫寧は藤原氏でも政権の中枢から離れた不遇にちかい中級貴族ででした。蜻蛉は文章生出身であった父の教育を受けて和漢の学も和歌の素養もある、美しい少女だったのでしょう。
蜻蛉は十九歳の折に摂関家の御曹子の兼家(のち摂政関白となり子の道長、孫の頼通とつづく藤原氏全盛期の基礎を築いた)に熱心な求婚されました。まさに玉の輿ですが、既に兼家には時姫とう妻が居て長男も生まれていました。だからといって蜻蛉は側室ではなく大勢いる妻の一人です。兼家は生涯正室を持たないで何人もの妻たちの家を廻っていたのです。
百人一首に採られたこの歌は道綱が生まれた直後の若い頃のものだとされています。
…あなたがおいでにならなくて一人で寝る夜というのは空が明るんでくるまでがどんなに長いかということを知っておいででしょうか…悶々とよその女の元にいるだろう夫を思い眠れずにいる姿が目に浮かぶようです。
用があると言って夕刻に出て行った兼家が町の女の家に行ったことを知って蜻蛉は夜明けに門を叩いた兼家を家に入れずにこの歌に萎れかけた菊の花を添えて贈ったのです。
兼家はたいして怒らず
の歌を返しました。蜻蛉は夫が悪びれもしないでしれっとしているのでと、また腹が立つのでした。
「かげろふの日記」は、蜻蛉が四十歳近くなってからの、成人した道綱や養女と共に落ち着いた暮らしの中で心の余裕ができたのか過去を振り返って書き始めたものです。兼家の求婚を受けた日から二十年間の生活と心情の回想録だといえましょう。
冒頭で作者はいいます。
「世間ではやっているたくさんの物語を読むとつまらない作り話が多いようです。平凡でつまらない私ですけど、いっそ私のありのままの身の上を書いてみようかと思います。玉の輿だと言われるような結婚の実態がどんなものだったか…私がこんなに不幸せなのが女として思い上っていたからなのか…そんな批判の材料にでもしていただければいいのです」
日記の中で蜻蛉は夫のほかの妻や愛人を呪い雑言を吐いています。また、実際に出家して尼になろうとして兼家に連れ戻されたりもしています。夫を独占したかった蜻蛉に遊び人の兼家の取り合わせは不幸な巡り会いだったかもしれませんが、それだけ一途に夫を愛せたのは幸せなのではないでしょうか。兼家も尼寺から急いで取り戻していますし、とぎれとぎれとはいえ最後まで通ってきています。やはり蜻蛉を愛していたのです。ただ、彼女だけを愛していたのでなかったところに蜻蛉や多くの女たちの悲劇があったのでしょう。