小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

二月二十六日、二十七日、

2016-05-01 | 嘉永四年 辛亥日記

二月二十六日  
快晴。
昼頃、岩橋藤助との、富永章蔵の両人がくる。
肴を老松の切手があったのでそれで取る。
大魚の切り身160匁、めばる一尾なり。
鈴木忠太夫殿もくる。
ボケ、コブシの花二、三枝先にあがる。
小浜の子は今日読み始めなり。
夜。遠藤兵右衛門死去されて葬礼がある。
権七を雇っておいたのだけど、岡野へ断りにやるので提灯出さず。
家から明かりを出して岩一郎だけが行った。
主人は気分が悪く歯も痛むので岡野へ行けず権七を断りにやったのだ。


二月二十七日  
快晴。
昼前に酒井省安がきた。
酒を出しあり合わせの肴を出す。
先日の麦一俵の代に金三歩渡してあったが九分不足のこと。
駄賃と共に三匁渡す。百二十目なり。
金は六十二匁七分が相場。
搗き減り五升、駄賃二匁となる。
二時頃に省安が帰るところに浅之助が来て主人は連れだって三浦殿へ行く。
その後へ清吉が来たが直ぐに帰った。
また、安兵衞へ染め物を持って行き、布を少々買った。代は盆払いだ。
省太郎はまたこの頃悪いらしいとのこと。
夕方、芳太郎がきて、明日高野御前に参らぬかという。
直ちに約束した。
梅本で米を一臼借りて岩一郎が搗いた。
この節は米百二十目で、麦はしらけで一升が百十文という。
よそかたたくさん米が来るので直ぐに下がる。




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