小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

「紀州徳川家歴代墓所」

2016-09-05 | ちょっと寄り道

長保寺境内の本堂と多宝塔の間の小道を登っていくと廟門がありました。
意外に簡素です。でも、ここをくぐって多くの方々がお墓参りに行ったのだと想像すると懐かしいような気もします。



紀州藩初代の藩主は徳川家康の十男で吉宗の祖父にあたる頼宣です。
ここの墓所にはその初代から十五代までの十三基と奥方たちのお墓があります。
えっと!五代藩主の吉宗(八代将軍)と十三代藩主の慶福(十四代将軍家茂)の二人は将軍になったので江戸に廟所があってここにはないわけです。
もはや森の中の山道を歩いて行くと、ところどころに石段があってその上に各藩主の墓所がありました。







まずは初代藩主の頼宣公の墓所です。
この長保寺がある山中に墓所を決めたのがこの方でした。
どこか天皇陵に似ています。
石段の昇降があるので全部は廻りきれません。
二人の藩主が並んでいるお墓もあれば奥方と並んでおられるお墓もあります。
側室方のお墓は廟門より下にある霊園にあるようです。



少々足が疲れてもお参りしたかったのは十代藩主の治宝公の墓所です。
小梅さんが生まれたとき(文化元年。1804)治宝公が藩主となりました。三十三才でした。
小梅さんは明治22年(1889)に八十六才で没しました。
治宝公は嘉永5年(1853年)に八十三才で永眠しました。
小梅さんの夫君は漢学者として十代藩主から十五代藩主に仕えたわけです。
従って、小梅日記には藩主がらみのことも度々書かれています。ただ、成長につれて名前が次々にかわっていくのでなかなか理解が追いつきません。
治宝公は五十三才で藩主の座を婿養子の(実子は姫ばかりだった)斉順公に譲って隠居します。が、藩政の実権は没するまで手中にしていました。
学問好きで知られた治宝は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。絵画、茶道、財政、建築などの造詣が深く歴代の紀州藩主の中では一
番の名君と言われています。
さすがに名君の墓所だけに初代と同じ大きさの規模です。







それにしてもどの方の墓所もというより全体に荒れ放題でした。
蜘蛛の巣は張っていますし枯葉も積もっています。一万坪という広大な土地管理するには多大な人手と費用がかかるのでしょうが、国宝をこれだけ保存するのであればそれなりの政策が必要ですが、赤字県では致し方ないのでしょうか。
高野山ばかりに頼らないでここも整備して花の散策ロードなどして観光客を呼べるのにほんとに惜しい素材だと思いました。





下っていって右手の細道に入ると鎮守堂がありました。
鎌倉時代に建立された重要文化財です。



山門まで戻ると工事の人がいたので教えて貰ってマルタ水産に寄りました。
海に面した丘の上一面に今朝採れたシラスが干されていました。
釜ゆでシラスとチリメンシラスを買いました。
速攻に帰宅してご飯に釜ゆでシラスを山盛りにしてスダチを絞りかけて遅めの昼食です。おいしかったです。また買いに行きたいです。


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