「浅草川首尾の松御厩河岸」 (東京都台東区蔵前)
江戸時代の隅田川は場所により呼び名がちがい、下流一帯、吾妻橋から両国橋の間がこの浅草川である。この川の西岸に、諸国からの年貢米を納める幕府の倉庫「御蔵」があり、舟運によるものを川から引き込む溝を八本設けた。その四番と五番の溝の間の川岸に、竹塀越しに枝を水上に差し伸ばして、首尾の松があった。名称は吉原へ通う猪牙舟の客が、この辺りで夜の好首尾を願うところから出たという。当図はその松下の屋根舟越しに、暮れなずむ夏の夕空星の見えだした浅草川を上流へ見通して広闊な図取りとした。中景に御厩河岸の渡し舟が行きあい、遠く吾妻橋が見る。
「相模江之鳥入口」 (神奈川県藤沢市)
江の島は砂嘴で本土とつながった陸繋島で、弁財天をまつる江島神社が鎮座されている。江戸から近く、風光明媚な景勝地だったこともあって、江の島は金運や芸事の上達を祈る参詣人でにぎわい、浮世絵の格好の題材となっていた。本図は江の島側から北に向かって富士山を望んでいる。ここに描かれる鳥居は文政四年(1821)に参道入口に建立されたもので、「青銅の鳥居」として今も親しまれている。揃いの着物の女性三人連れは、音曲を習う人々の一行と見える。鳥居の右側の脚は画面外にはみ出し、左手の茶屋も軒先が見えるのみです。晩年の広重は画面構成に制限のある縦構図を用いるにあたり、モティーフの一部をトリミングすることで、かえって画面の外側への広がりを暗示する手法を好んでいた。配色では、紫の効果的な使用が目を引き、女性たちの着物の柄と茶屋の暖簾、そして富士山の左右に施されたぼかしが呼応しあい、近景と遠景を緊密に結びつけている。広重が描きたかったのは、鳥居越しに富士山をのぞき見る視角の面白さだったであろう。この方向から見ると、弁財天のための鳥居があたかも富士山を崇めているかのようだ。