「和泉 高師のはま」
大阪西南部を占める和泉の国。もともとは「泉」という国名であったものを和銅6年(713年)の詔(みことのり)によって2文字にしたので「和泉」となり「和」は読まず、「いずみ」と読む。図では、手前の松林に鳥居と社が見える。高石神社であろうか、紀州街道に面していたため高野山詣での旅人も多く立ち寄ったようだ。
「千住の大はし」(北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住)
中央に配された大橋は、奥州・日光道中、木曾・水戸街道など、北に向かう人々の重要な行路として活用されていた。馬上の男性や駕籠に乗る人物をはじめ、多くの旅人たちが途切れることなく往来している。渡し船では対応しきれないほどの通行者かあったため、文禄三年(1594)架橋の奉行に伊奈忠次(のちの代官頭)が任じられたという。当時の荒川は流れか速く、川底も固く杭が打ち込めず、架僑には一年を費やした。両国僑が架かるまでは、隅田川唯一の僑として利用された。初めは二町ほど上流にあったが、天明四年(1784)に現在の地に架け替えられた。
「房州保田ノ海岸」 (千葉県安房郡鋸南町保田)
『富士三十六景』シリーズの最後を飾るのは、海岸沿いから眺める富士山の図である。保田海岸は現在の千葉県鋸南町にあり、今では夏に海水浴を楽しむ人々でにぎわいをみせている。本図は荒波の迫る海岸線沿いの道と明鐘岬を前景に、浦賀水道の向こう側に三浦半島と紫雲に包まれた富士を描いたものである。崖沿いの道には旅人の姿が見え、皆後ろを向いているので表情をうかがうことができないが、その顔のうごきから富士山を眺めていることがわかる。