「御油 旅人留女」
御油は、浜名湖の北岸を迂回する姫街道の分岐点にも当たる交通の要地だった。次の宿場である赤阪の間が東海道中で最も距離が近く(1.7km)宿屋の客引が非常に強引であった。旅篭屋の店先に掛けられている定連の講中札を順番に読んでいくと、「竹之内板」「一立斎圖」「摺師平兵衛」「彫工治郎兵ヱ」「東海道贖畫」「三拾五番」となっている。35番は、御油が日本橋を除くと35番目の宿場という意味である。
春日井市在住、1935年私的な挿絵等に全て自由にご使用ください。
「吉田」
吉田宿はかつて「今橋」と呼ばれた。画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの間にある四橋の1つである。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、いつも満船だったと云われていた。戦国時代に、この地に城が築城されて城下町になり、後に譜代大名の努力もあって栄えた。修繕中の吉田城を描き、足場から職人が小手をかざして、その橋の方を眺めている。遠くに見えるのは鳳来寺山の様だ。
広重 東海道五十三次 日本橋 「日本橋」江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。此処より京都までは124里半(492km)ある。明六ツに参勤交代の大名行列が橋を渡って来る。一方で魚を天秤棒で担いだ一団...... >続きを読む
「二川」 猿ケ馬場
二川宿は東海道五十三次三十三番目の宿場町で此れより三河に至る、江戸日本橋より72里余、宿場としては小規模で、町並の長さ東西12町26間、天保14年に家数328軒だった。副題の猿ケ馬場は次の白川宿に近いところにあったそうだが見当たらず広重の勘違いの様だ。三味線などを弾き、歌を唄いながら物乞いをする瞽女(ごぜ)三人と「名物かしわ餅」の看板をさげる茶店を描き、遠景に姫小松の野が描かれている。
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