波佐見の狆

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重盛の忠孝美談は、史実にあらず?!(43回)

2012-11-06 13:50:53 | 平清盛ほか歴史関連

清盛は、鹿ケ谷の関係者をことごとく厳しく断罪し、死罪または流罪にしたわけですが、肝心の後白河だけは処分をしなかったのが気になり、「また誰かがいらぬことを法皇様に吹き込むといけないから」という理由(名目?)で、後白河を武力で六波羅に幽閉しようと考えます。ところが・・・修羅の道を突き進む父の暴走に付いていけなくなっている重盛が、涙ながらにこれを諌めます。

「法皇様に忠義を尽くそうとすれば、須弥山の頂よりもなお高き父上の恩をたちまち忘れることになります。痛ましきかな。父上への不孝から逃れんとすれば、海よりも深き慈悲をくだされた法皇様への不忠となります。ああ。忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。進退これきわまれり。」「かくなるうえはーーーこの重盛が首を召され候え・・・!さすれば御所を攻め奉る父上のお供もできず、法皇様をお守りする事もできますまい。」(ノベライズ本より転載)

(はぁ・・・格調高い文語日本語のお手本ですね・・・・)

重盛さん、おおーん、おおーーんと大泣きで、もうボロボロ。。。

あちこちのブログや「みんなの感想」でも、あっぱれ重盛(そして窪田さんの歴史的名演)とやんやの拍手喝采のようです。

私も、もちろん、涙、涙。。。そして「この重盛の一途な忠義・こそが、後白河のつけいる隙であった」とのナレーション。来週の予告では、今度は後白河が清盛を抑えるために重盛を追い詰め、遂に重盛が潰れてしまうようです・・・哀れ重盛!!!そして、一門は滅亡へ真っ逆さま!!!

・・・・とまあ、このドラマとしてはそれでいいのですが・・・・私は、涙ながらに43回の録画を見たのは、最初だけで、今はもうすっかり醒めてしまい、大泣き重盛さんの向こうに映る皆の表情を観察したりしてしまうのです。宗盛なんて、もろに「うへーーー!!」という顔をしています。盛国さんはいつもながら感情を押し殺しまっすぐに見つめていますが、おおっ、彼の鎧着姿を初めて見たっ!カッコいいーー。保元平治の乱でも出陣せず留守番組だったし、これからもずっと彼は事務方専門?なのかなと思っていたので、武士盛国が見られてなんだかうれしい。。

で・・・私がすぐ醒めたというのはですね、、、ちょうど吉川英治『新・平家物語』の鹿ケ谷のあたりを読んでいまして、こちらにおける重盛の人物像が、本作『平清盛』のそれとはかなり異なっているのを知ったからなのですが・・・そして、大変興味深いことに、この、清盛が鹿ケ谷の直後に後白河を幽閉しようと企てた、ということも、それからそのように暴走する父を重盛が諌めた、という事も、『平家物語』における単なる創作であり、史実ではなかったと、吉川氏は力説しています。

もちろん、『(古典)平家物語』、『新・平家物語』、『平清盛』のそれぞれで解釈が異なっているのは当然ですし(異なっているからこそ、面白いのだし)、ましてや、このブログの記事は、史実との違いを指摘することが目的ではないのですが・・・吉川氏の考えに、へーーそうなんだーーと驚いてしまったもので、ちょっと書きたくなりました。

つまりですね、『(古典)平家物語』こそ、われわれが従来持ってきた、驕る暴君としての清盛のイメージを定着させた作品であると。その中でも、鹿ケ谷直後の後白河幽閉計画と、それを諌める重盛の部分(「教訓」という章段です)は、そういうイメージが強く表れている話のうちのひとつであり、重盛の忠孝二道の苦衷は美談として語り継がれているが、それはそれで佳いお話ではあっても、真の清盛・重盛親子ではない・・・・と。

以下吉川氏の文章を少しだけそのまま転載させていただきます。(『新・平家物語』(五)「教訓」の事より) 

「教訓」のくだりは、以前から学会に否定説があるにはあった。しかし、国民教育の視点から、「そのままにしておいたほうが」という倫理観に支持されてきたのである。だが、今日ではもう教育の資料にもならない。まして、史実でないものをである。可能な限り、真実をさぐり、正しく書き、正しい清盛と重盛の対比を見、父は父なりに、子は子なりに見直すべきでないか。」

「常識からいっても、一族列座の中で、自分ひとりが古今の学や道徳を能弁にほこり立て、父親の清盛があぶら汗を流すまでぎゅうぎゅう締めつけたりしたなどとは考えられない。そんな高慢くさい親不孝者が、どうして、忠臣孝子の代表みたいに讃えられてきたのか、ふしぎである。これでは、重盛がかわいそうだ。清盛にはなお気のどくである。」

そして、幽閉計画自体が、なかった、という根拠として、九条兼実「玉葉」などの公卿日記に、そういうことが書かれておらず、むしろ、「事件(鹿ケ谷のこと)以来、院中の奉仕者がみな難を恐れ、たれも御所へ出仕しない。清盛はそれを聞いて大いに怒った。」という趣旨のことが記されているそうです!実際清盛は、鎧着で後白河に一人で会いに行ったのですが、それは2人の腹を割った話し合いで、後白河はそれでむしろほっとしたのではないか、と吉川氏は言っています。

まあ、吉川氏がここまで、『(古典)平家物語』のスタンスを非難するには、それなりの理由があります。『(古典)平家物語』では、重盛の諫言の態度と内容がもっと、長くしつこくて、諌めたというより、さんざん説教をして叱りつけたのです。だいたい太政大臣にまでなり、出家した身でありながら、鎧甲冑を着るとはなにごとですか、恥知らずな・・仏教においてだけでなく儒教においても法に背くことで、、、聖徳太子の17条の憲法には、自分の過失を顧みて慎め、、、と書いてあるではないですか・・・・とえんえんと父をやりこめたようです。(詳細はこちらのサイトなどで読めます。)重盛がやってきた時点で、清盛は、またこの出来すぎた長男に小言を言われそうだとびくびくして?鎧をあわてて隠そうと上から法衣をまとったものの、下から鎧がチラ見えしているのであわてた、という描写も有名らしいですね。

『平清盛』44回の予告編を見る限り、今回の大河では、重盛があまりに一途で、父への孝行と同じくらい強く後白河に純粋な忠義心をいだいていたことが、裏目に出た、ということを強調するために、この43回で幽閉計画と涙の諫言シーンが必要だったと思われます。ですから、こちらでは、上記の『(古典)平家物語』のような、上から目線のお説教ではなくて、あくまで命がけの懇願として描いたのでしょう。

もしかして・・・後白河が乙前を見舞った際、ふともらした「わしにはまだ手駒がある」というのは・・・・重盛のことではないでしょうね??!!

 追記) 私がにわか勉強による無知のため、混乱していたのですが・・・今回のドラマ中における重盛の言葉「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」うんぬんは、『(古典)平家物語』にある言葉ではなく、瀬山陽『日本外史』中のもの(もちろん創作)だそうですね。ともかく、『(古典)平家物語』には彼がそのように父孝行の気持ちと法皇への忠義のはざまで自分を責める、という表現はなく、ともかく徹底的に清盛を批判して説教する場面なのです。だから、吉川氏が上記のような指摘をしたのですね。