波佐見の狆

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福岡・下関・宮島の旅(その4)

2013-07-05 17:39:58 | 平清盛ほか歴史関連

5/21日(火)朝です。もう4時半頃目が覚めてしまい、またバルコニーから海峡を眺めたり、ガイドブックを読んだりしていました。

7時から、4階にあるオーシャンビューのレストランでゆっくりと朝食(後からヨーグルトも来ました)。

1.関門トンネル人道 ― 壇の浦海底ウオーキング

8時頃にはチェックアウトし(荷物は預かってもらえます)、昨日来た知盛・義経像のある「みもすそ川公園」へ再びやってきました。

知盛と義経が見守る壇ノ浦の海の底には、「関門トンネル」が横たわっています。

本日朝一番の目的は、このトンネルの中を歩いて、対岸の門司まで渡ることです!

関門トンネルというのは、関門海峡の海面から56m下に掘られた、福岡県北九州市門司区と山口県下関市椋野町とを結ぶ海底トンネルです(海中トンネルではなくて、海底の土泥の中に掘られた海底トンネル)注1)。関門海峡の最も狭いところにトンネルを渡して、北九州市と下関市をたやすく行き来できるようにしたわけです。面白いのは、上下二重構造になっており、上は車が走るための車道、下は、人が歩くための「人道」となっていることです。全長780mですから、徒歩15分で渡れてしまいます。海峡の底を徒歩で渡れるトンネルというのは、世界唯一とのこと。

最峡部の海上には、橋を(車専用の高速道路で、人は通れない)、そして海底には、トンネル(車と人が別々に通れる)を作った、というわけです。注2)

それでは、壇ノ浦の海底散歩に参るといたしましょう。注3)

人道入口です(義経・知盛像とは、国道を挟んで反対側に位置しています)。ここからエレベーターで降りていき・・・・

30秒ほどで、人道の下関側出発点に降り立ちます。 8時半ころでしたが、既に何人もの人たちが歩いていました。適度に空調も利いているので、地域の人々の恰好のウオーキングコースになっているそうです

ほぼ半分まで歩くと、県境が!

張り切って早歩きになったからかな、10分ほどで渡り切り、門司側に着きました。再びエレベーターで地上に上がります。中で一緒になった地元の初老の紳士と話していたのですが、この方ももう30年近く下関⇔門司往復ウオーキングが毎朝の日課になっているとのこと。茨城からの旅行というと、自分も茨城に住んでいたことがあるとおっしゃっていました。昨日のNさんといい、ほんとに皆さん旅行者に親切です。この方に道案内していただき、次に訪れたのが、和布刈神社です。

2.和布刈神社(めかりじんじゃ) ― 門司側から壇ノ浦を見守る神社

壇の浦合戦の前夜、平家一門が集まり勝利祈願の酒宴を行ったと伝えられている、大変由緒ある神社です。注4)

創建は西暦200年でしたが、この社は1767年に建てられたもの。一門が祈願した時(1185年)の社はどんな感じだったんだろうなぁ・・・・

高浜虚子が昭和16年に訪れた際、平家を偲び読んだ句の句碑。「夏潮の今退く平家滅ぶ時も」

関門橋の真下に、まさに壇の浦の海を見渡すように鎮座している神社で、寂寥感あふれる海中燈籠がシンボルになっています。

(下関の対岸が見えます。みもすそ川公園の義経・知盛像があるところをピンクの矢印で示してみました)

この燈籠が平安時代からここにあって、一門の最期を見届けていたのかなあ・・・と胸に迫りましたが、後から調べてみると、 長崎県対馬の戦国時代の大名であった宗氏が航海の安全を祈願して寄進したものと言われているそうで、源平合戦当時はなかったのでした。

それにしても、とても心にしみるこの海中燈籠・・・

そもそもなぜわざわざ長崎県の藩主がここに寄進を??

さらに調べて驚いたことに・・・実はこの「宗氏(宗家)」、知盛の孫で重尚(しげひさ)という人物が、鎌倉時代に対馬を平定して開いた武家である、とする記録が残っているのです!残念ながら、現代の研究では、それは史実ではないとの見方が有力だそうですが、それでも、きっと宗家の歴代当主はその言い伝えを大切にしていて、だからこそ、わざわざこの壇ノ浦を見渡す神社に祈りの燈籠を立ててくれたに違いありません。長崎と知盛との幻の接点!おお、なんというロマン!!

平家とは関係ないことですが、社名となっている和布刈(めかり)とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える和布刈神事(めかりしんじ)が行われます(「福岡県徹底探検隊」というサイトから転載)。引き潮になると、この燈籠のところまで歩いて降りられるのですが、まだ夜明け前の真っ暗な海の、ちょうどこの燈籠のそばで、大きな松明を燃やしながらワカメを刈るのです。

いつまでもこの燈籠を見ていたい気持ちでいたが・・・・もう一か所、どうしても立ち寄りたい神社がありました。

3.甲宗八幡神社 ― 知盛のお墓

心地よい5月の陽ざしの中、和布刈神社から30分ほどのウオーキングで甲宗八幡神社にたどり着きました。ここに、知盛のお墓があるとNさんから教えていただき、はやる気持ちでやってきたのです。

そのお墓が、社殿の脇にひっそりとありました!

手前は、木の柵があり、そばまで寄れません・・・・

2つ前の記事でもお話ししましたが、赤間神宮の一門の墓地には、各自の遺体そのものが埋められているわけではなく、ご遺体はそれぞれ別の土地で見つかって葬られたか、あるいは見つかることなく壇の浦の海底の一部となってしまったか(こちらの方が遥かに多いでしょう)・・・なのですが、知盛の遺体は、Nさんのお話によると、壇の浦合戦直後に小倉の漁師たちの網にかかり、この神社の裏手の筆立山に葬られてお墓が建てられたそうです。

ところが、昭和28年の大水害で、お墓はこの神社の裏手まで流されてきたため、それを手厚く再祀したとのこと(このお墓については、「花橘亭~なぎの旅行記」というサイトに詳細が綴られています)。

ちなみに、この神社も西暦860年創建と古く、一連の源平合戦で荒廃してしまったので、壇の浦合戦後、義経と兄範頼により再建されたとのこと。平家追討を祈願していたのが成就した御礼に、という理由だったそうですが、そういう理由で源氏の手によりきれいになったお社に、知盛が一人ひっそりと眠っているというのも、切ないものですね・・・

なお、知盛のお墓と言われるものは、高知県の越知町横倉山や、福岡県久留米市などにも存在します。すべては歴史のミステリーです・・・注5)

はあ。。。それにしても、トンネル人道からずっとよく歩いたなあ!!時間もだいぶ過ぎたことだし、ここからタクシーに乗り、いよいよ関門海峡最後の見学スポットとなる「海峡ミュージアム」へ向かいました。

4.海峡ミュージアム ー 人形劇「平家物語」のお人形たちに会えた。

海峡ミュージアム(海峡ドラマシップ)」は、門司の桟橋の近く(門司港レトロ地区)にある5階建てのユニークな楕円形の建物です(建物そのものが船の形とのことで、それで「ドラマシップ」とも呼ぶらしいです)。関門海峡にまつわる歴史・文化・自然を紹介する施設で、私がとりわけ楽しみにしていたのが、3Fの海峡歴史回廊

古代から中世、近世、近代へと、時代の転換期ごとに大きな歴史ドラマが展開された関門海峡。その印象的シーンを、日本とチェコの人形美術家(10名)の人形アートによってたどる歴史絵巻」と、サイトの紹介文にもある通り、素晴らしいお人形たちにより名場面が繰り広げられていて、見応えたっぷりです!

そして、ここで私が一番見たかったものが!

それは、1993年~95年にかけてNHKで放送された、人形劇『人形歴史スペクタクル 平家物語』のお人形さんたちの実物です。作家は川本喜八郎。私は(これも!)まったく見ていなかったので、思い切って完全版DVDボックスを買ったのです(こちら)。この作品は、人形劇の域をはるかに超えた壮大な人形芸術で、それぞれの登場人物の表情、所作、衣装、セットのリアルさ等本当に豊かで繊細!NHKが大河ドラマに匹敵する製作費をかけたというのも頷けるのです。

(20分ほどのダイジェスト版が見られるサイトがありました。http://www.nicozon.net/watch/sm18963947

上記のダイジェスト版には知盛は出てません。私がDVDから写した写真をちらっと。これが人形バージョン知盛さまですよん~~かっけ~♪

(一の谷の合戦で長男知章を失うシーンより。。髪が乱れているところなど、細かいでしょう)

このミュージアムに、実際に放送に用いられたお人形の一部が展示されている、というのはホテルのインフォメーションで前日の夜に知り、とっても楽しみにしていました。写真はNGだったので、言葉で説明するのももどかしいのですが・・・平家方、源氏方からそれぞれ、9体ずつ(確か...もう記憶が。。。))姿勢を正して整列していました。身長1mほどでしょうか、予想より大きくて、みんな凛々しいこと!その中で、一人、いかにもお人よしでへたれなお顔の宗盛くんも愛しい。。。平家のみんなも源氏のみんなも、、、会えて嬉しかったよ!

さあて。。。そろそろ広島に向かわねばなるまいなぁ。。。今度またいつ来れるかわからないから、もういちどしっかりとこの海を目と心に焼付けようと、5階展望デッキに登りました。キラキラ光る海峡の水面、そして対岸の下関までよく見渡せます。5月の風が心地よい。。。

デッキと並んでいるレストランのテラスで、「ふくバーガー」のランチ!フグのフライがサンドイッチされていて、美味しかったです。

たった1泊だったのに、1週間くらいいたように多くを見て、深く感じ、思いを馳せ、出会い、満喫した下関、そして門司を含む関門海峡一帯。それでもまだ見逃したものもあり、大変名残惜しいけれど・・・きっといつかまた来よう!

連絡船で唐戸桟橋まで戻り、お昼過ぎに、下関駅を出発しました。

「その5」宮島編に続く。。。。

注1) 関門海峡の水深は、最も深いところで47mです。なので、海底から9mくらい下を掘ったわけです。このトンネルの工事が始まったのは、1937年で、太平洋戦争で中断しながらも、21年をかけて1958年に開通し、総工費は当時の金額で57億円!!じぇじぇじぇjjjjjj!!!

注2) 関門海峡の最狭部・・・・この区域こそが、壇ノ浦の戦の火ぶたが落とされた地点であり、一門の入水もここだったと言われています。早鞆(はやとも)の瀬戸とも呼ばれ、潮流がきわめて速く(最大で約10ノット=時速18km)、しかも1日に4回も潮流の向きが変わり、このことが、両者の運命に大きく影響したと考えられています詳細はまたあらためて別の記事を書くつもりです。

なお、正確に言えば、関門橋の真下の海底にトンネルが位置しているのではなく、トンネルは橋よりやや東ですが、おおよそ同じところだとイメージしていただいてOKだと思います。それから、もうひとつ、列車が通るための「関門鉄道トンネル」がもっと西側にあります。

注3) 「壇ノ浦」はまた、関門橋のすぐそばあたりの町名でもあり、壇ノ浦というバス停もありますし、火の山公園へのロープウェイの駅も「壇ノ浦駅」といいます。

注4) 酒宴といっても、どんちゃん騒ぎの酒盛りを想像しないでくださいね!皆、勝っても負けてもこれが最後の戦いだと分かっていて、悲痛の思いで静かにお神酒を頂き、互いに酌み交わしたのだと思うのです。いついかなる時も、雅であることを忘れなかった平家一門のことなので、もし誰かまだ笛などもっている者がいたら、管弦もできたかもしれませんが・・・笛の名手たち(敦盛など)はこの時すでに亡く、おそらくとても寂しい酒宴だったと想像されます。

注5) 歴史のミステリーといえば・・・草薙の剣が、結局どうなったかということについても、Nさんがそっと教えてくださいましたよ・・・壇ノ浦の合戦後、地元の漁師などが懸命に捜索し、見つかったのです!・・・・そして、宗教団体に納められたらしい、という言い伝えがこのあたりでは大切に語り継がれているとのことです。