波佐見の狆

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ジュリアンの父上の墓参り

2016-10-05 10:22:03 | 平清盛ほか歴史関連

帰省のたびに、大村市の本経寺を訪れて華丸と小佐々前親のお墓詣りをしたいと思うのですが、未だ叶っていません。大村はちょっと遠いし、いつも法事やら何やらでなんだか忙しく、ゆっくり時間が取れないのです。

西海市界隈の、中浦ジュリアンやその他キリシタン関連史跡も、あまりに多くありすぎて、場所は込み入っているし・・とてもともて、ささっと回れるものではありません。そのあたりのゆかりの地巡りは、まあ、Uターンしてからの老後の楽しみにとっておこうと思います(・・って、いつも言ってますね。)教会群とキリシタン関連遺産の世界遺産登録が実現すれば、またいろいろと整備されて、見学しやすくなるかもしれませんしね。

最近の帰省で、私がカメラに収めることができたものを、ちょっと記しておきたいと思います。

まずは、西海市の多比良(たいら)地区にある、ジュリアンの父小佐々甚五郎純吉(こざさじんごろうすみよし)と大伯父小佐々弾正純俊(こざさだんじょうすみとし)を祀る墓所です(注1)。

国道から、脇道に入り、さらに狭く暗い坂を少し上がっていくと・・・

左手前の墓石が特によくわかりますが、かまぼこ型をしていますね。典型的なキリシタン墓の形状です(注2)。県の学芸文化課サイトによれば・・・純吉と純俊は、ともに今の佐世保市の宮(久津峠)で行われた合戦で、主君大村純忠を守って討死し(永禄12年(1569);ジュリアンが3歳のとき)、一旦そのまま佐世保に葬られましたが、のちに、純俊の本拠地である小佐々城(多比良城)があるこの地に移されて祀られたとのことです。この墓石が、1569年当時のものなのか、それとも、もっと後になって、移された時点でつくられたものなのか、わからないのですが・・・ジュリアンのルーツが確かにここにある、と思うと感無量でした

入口にこのような説明版があります。(文面は、ジュリアン直系の子孫で小佐々氏の歴史を研究されている小佐々学先生によります。)

黄色で囲んだところが、墓石のある個所。そこに立って奥のほうをみると、建材置き場のような広場?があるのですが(写真忘れたっ・・黄緑で囲みます)、それは、説明にもあるように、南蛮寺(教会)と馬術の調練場があったところだそうです。海外との交易で繁栄を極めた小佐々領国の勇将たちが、胸に十字架をつけ、立派な馬を引きながら闊歩していたのがこのあたりだったのだなあ。。。じっと見つめていると、戦国時代にタイムスリップして引きずり込まれるような感覚すら覚えて、ぞくっとしてしまいました。

それにしても、本当にひっそりとしていて、雑然と落ち葉が散らかり放題。薄暗くてあまりにも寂しい場所です。おそらく、徹底的に権力に歯向かって布教を続けて処刑された「大罪人」(ジュリアンのことですね)を出してしまった家系なので、墓地も江戸時代以降はずっとないがしろにされていたのではと、思うのです。でも、墓石が破壊されることもなく、こうして残されているというだけでも、驚くべきことかもしれません。実際、小佐々家の系譜と史実は一切、江戸時代に抹殺され現代まで闇に葬られていました。それを初めて、長年の調査により明るみに出し、中浦ジュリアンが、この優れた一族の血を受け継ぐ領主の嫡男小佐々甚吾であったという史実を突き止めたのが小佐々学先生だったわけです。詳しいことは、前にもご紹介した「小説中浦ジュリアン」のあとがきにあります。そのあたりについては、とても1回の記事では書けませんので、これからまたゆっくり語っていくつもりです。

ちなみに・・・西海市内では、また別の戦国時代のキリシタン武将の墓石がみつかっており(「平原郷の切支丹墓碑」)、その墓所は、写真で見る限りとてもきれいに整備されているのです。私自身はまたそこを見学していないので、こちらのきれいな写真をご覧ください(「トライックス・カフェ」さんのサイトです)。公園みたいですよ~。同じ弾圧時代のキリシタン墓でどちらも県指定文化財なのに、この整備状態の違いは、どうしてだろう・・・と、考えると、どうしても、幾世代にもわたって小佐々家に着せられた大罪人の家系、という汚名が、ひとつの要因ではと、推察せざるをえません(全くの私見なので、見当違いならすみません)。次回の帰省では、平原郷のほうもぜひ訪れたいと思います。私同様、ご主人の実家が西海市にある、親友のKさんからの貴重な情報でした。Kちゃん、ありがとう~。

話を戻して・・・と。

なぜ「小佐々ジュリアン」ではなくて、「中浦ジュリアン」なのか、ということについて、ちょっとだけ。

上に記した通り、このお墓のある「多比良」は、ジュリアンの大叔父純俊の本拠地でして、そこに、父純吉も一緒に眠っているということなのですね。で、純吉の本拠地というのは、ここからまたちょっとだけ離れた「中浦」というところでして、純吉は「中浦城」の城主として「中浦殿」と呼ばれ、その一帯の統治を任されていたわけです。その中浦殿の息子ということで「中浦ジュリアン」になった。それだけです注3)。

地元で無料で配っている可愛い中浦マップの一部です。西海市在住の画家タナカタケシさん作。

「さるくまち 西海マップ」 の下に書いてある詩が素晴らしいです!(ちなみに、「さるく」というのは、長崎弁で「歩き回る」の意味。)

こけむした石垣がたずねる者に語る。

時や人は過ぎ去るものである。

「どこへ行くのか」

ここから遠くローマへ旅した人もいる。

「どこへ行くのか」

御園には花咲き、光あれ。

ここは中浦、さいわいの海となり、山となり、空となる。

この文面もタナカタケシさんなのでしょうか。心に沁みますね・・・

そして、こんなのもあるんですよ!ジュリアンポーク!!

佐世保市内の繁華街にあるアンテナショップで販売しています。(yumikoさん、貴重な情報ありがとう!)

「中尾とんとん牧場」というところが生産しているとのことですが、肝心の西海市のスーパーとかでは、今まで見かけた記憶がないのです。。。(単に、私が今までジュリアンに興味がなかったから、気づかなかっただけかもしれませんが・・Kちゃんは、これ、見たことありました?)ともかく、地元のジュリアン愛を感じますね。

今回の記事は、帰省レポートということで、ここまで。

天正遣欧使節については、私はまだまだ入門者ですので、なにかと間違いもあるかと思いますので、お気づきの点ありましたら、どうぞご教示ください。

(実を言いますと・・・「小佐々」をずっと「こさざ」と読むと思っていたら・・「こざさ」だったということを、今回初めて知った次第・・(注4))

注1)ジュリアンにとって、純吉が父であることは史実なのですが、純俊のほうは、伯父なのか大伯父なのか、ちょっとわかりません。Wikiなどいくつかのサイトでは、純吉と純俊が兄弟と書かれていますが、小佐々学先生が「純吉は純俊の甥」と書いておられますので、こちらを採用。

注2)キリシタン墓石の形状は、このように横に寝せたもの(西洋式の伏碑)だけでなく、実はいろいろあり、仏教のお墓のように立てた物もあります。特に隠れキリシタンのお墓は、仏教にカムフラージュする目的があったので、仏塔のような形をして十字を刻印したものなどが多くありました。あるいは、カムフラージュというよりも、そもそもイエズス会が日本で布教を始めたとき、仏教に溶け込む形で日本人の文化・習慣に合わせながら、キリスト教に導く方法をとったので(これは史実)、和風の立型が一番古いキリシタン墓石である、という説も最近出ているとのことです。なんと興味深い!詳しくはこちらなどで。

注3)小佐々氏は、近江源氏の流れをくみ、もともとは、今の佐世保市小佐々町を支配した一族なので、「小佐々」氏と名乗り、その後、今の西海市に移動して(大村氏の家臣となるため?)多比良に本拠地を構え、さらに中浦と松島にも城主を置いて、西彼杵半島一帯に広く君臨しました。

注4)小佐々学先生自身が書かれているページ(こちら)にも、「こざさ」とフリガナしてあります。小佐々氏の出処が、小佐々町で、これは確かに「こさざちょう」というので、私はずっと「こさざ」だと思い込んでいましたが・・・苗字としては「こざさ」なのですね。難しい・・・