「オオイヌフグリが咲く頃に」
(白梅は満開か)
春が来たとは言え、まだまだ寒いと言うある日、そう思いながら、駅へと私は向った。
空席の目立つ、各駅停車の車内。
窓の向こうは、いつもの見慣れた景色が広がりあまり面白くは無い。街は2年や3年という月日をかけて変化していくのが常だが、空模様は、1日単位で同じようで僅かに変化していき、やがて1年が終わり、繰り返していく。自分の心境もそんな物で、言葉が違うだけで同じような変化が続く。
鮮やかな水色。
(冬の空よりかは、少し青の色が違う)
格好つけて、そんな事を思う。本当は何1つ解っていやしないのに、偉そうな事を言いたくなる私である。
やがて、電車は目的の駅についた。
用事を終えて、家に戻る頃は、陽射しがたっぷりの午後2時。再び私は駅に向かって歩いていた。
やがて、左に行くと駅という小さな角についた時、右手側にあった舗装されていない駐車場の地面に目が行った。そこには、小さな青い花が咲いていた。
(オオイヌフグリか。今年もこれが咲く時分になったか)
まだまだ寒いが、春は着実にやって来ているんだなと思う。
春というと、暖かくてしのぎやすく、冬で縮こまった体を、大の文字を描いてノビをするイメージがある反面、花粉症に追いやられるというマイナス面もある。春の兆しはあっても、肌寒さはぬぐえない。春であって冬である。今は季節の同居の時期なんだろうか?
(季節の同居というと雨か?)
折りしも明日は雨という予報があった事を思い出す。季節の変わり目は、天気が安定しないのが特徴としてある。同じ物同士、言ってみれば、磁石の同極をくっつけると反発する、それと天候は似ているな・・・と思いつつ、「雨の日」と言われるお気に入りの歌を私は口ずさみながら、道を急いだ。
自分の住む街に戻って、そのまま帰るのも難だったので、ふらりと比較的大きな書店に寄ってみた。特に読みたい本がある訳ではない。
昨今、活字離れが著しく、反省しなければならない反面、言い訳が口をつく。
まざまざと今の現実を突きつけられ、自分のふがいなさに似た感情が湧いてくる恋愛小説。「人の生死」をありありと描くノンフィクションは、意味も無く目をそらしたくなり、サスペンスやミステリーは、どうもそっちには逃げたくない、という訳のわからない頑な気持ちがあり、手が伸ばせないでいる。これを、客観的には「逃げの一手の言い訳」と呼ぶ様だ。まったくもって認めたくない話でではある。
そんな聞こえない耳の痛い声をどこかで聞きながら、店の中に入る。当ても無く、単行本が並ぶフロアをうろついている時、ふと、壁に貼ってある店内の案内図に目が行った。
教科書
その3文字が思わず目に入った。
(あの物語は、まだあるだろうか)
不意に、小学校6年の頃に、国語のテキストにあった1つの話を私は思い出し、もう一度あって見たいと思い、そのフロアへ行ってみた。
(相も変わらず、色々あるんだな)
表紙の絵が、いかにも、
「この教科書は、読むと楽しいですよ」
と言わんばかりの表情を浮かべている。殊に、「算数」、「数学」に「理科」と、どちからと言うと、昨今は、犬猿されがちな分野のテキスト程、そんな感じがするな、と私は思う。
(一発で解る人が羨ましいよな。解る人には解る、楽しさ、面白さ)
英語なんかも案外そうだよな、といかにも「外国」を意識した国際的な感じの写真が印刷された表紙に目が行く――私は、その時本来の目的を逸しそうになったので、探している物を見てみたが、さすがに、掲載されていなかった。
(20年も経てば、消えてあたり前か)
ちょっとがっかりして、私は棚に本を戻した。その時、ふと、高校の「現代国語」のテキストが目に入った。
(そう言えば、あの話はまだあるだろうか?)
「出会い」について書かれた随筆というのかエッセイというのか解らないが、そんな話があったのを思い出す。春先の講義で、取り上げられたものだった・・・が、やはり、これもなかった。
(昔に捕らわれ過ぎだな)
さすがに馬鹿馬鹿しくなって、私は店を後にした。
(思い出したくなくても、思い出す「過去」ってなんなんだろう)
解んないなぁ・・・と1つため息をついた。
(こんな時間に何の用だよ)
その夜の10時過ぎ、いきなり、友人から、
「これから会えないか」
というメールがやって来た。
再び私は、駅へと向かった。
夜の人影は、昼間と違う、いつかのテレビゲームの攻略本の一説が頭を過ぎる。それが基で「夜は特殊なもの」という印象が私に植付けられた。
「夜なんて、何も見えなくて、寝るためのものだろ」
という内容の話を、夜が好きになった中学時代に、誰かが言った。その声が耳の奥でよみがえる。
混み合っていた、車内もいくつもの駅を通過していくうちに、いつしか、がら空きになった。
(変な話じゃないと良いけどな)
車内の光の反射を手でかざして、窓の向こうの夜景を見るが、まばらな街灯の青淵の白い光しか目につくものはなく、あとは闇が広がるばかりだった。
(こんな時に似合うのは、やっぱり失恋かな)
別に、女友達に会いに行く訳ではないけれど、仮にそうだったとしたら、話的にはありきたりかもしれないが、ドラマチックである。
あるいは、付き合っている異性の友人から、「好きだ」と人知れぬ夜に、街灯の下で告白されても、また一興かな、と、妄想が浮かぶ。
(何か良い事ないかなぁ)
昨今の、止めたいと思う口癖が、胸の中で始まる。
(オオイヌフグリが咲く頃だし、新しい出会いの1つでもあると良いよな)
流れ星を期待して、空を見上げるが肝心の星は見えなかった。
(そう言えば、昔、その花とシロツメクサを間違えて、覚えていたんだよな)
私は、景色を見るのを止め、出入り口ドアの上にある液晶モニターを何とはなしに見上げた。沿線の宣伝やらなにやらが楽しいが、今は占いがみたいなぁ、と思う。
(期待したって、何か起こるわけじゃないのに)
私はため息を1つついた。さっきから想い描いて広がった妄想に妙な興奮が芽生え、疲れてきた。
(あと、2つか)
駅につき、ドアが開く。乗り降りはない。
車内の明かりが、ホームのアスファルトと黄色いブロック線を照らした時、どこか切ない予感がした。
(あの日から5年が経つのか)
私は、再びやって来た肌寒い春先の道端に咲く、オオイヌフグリを見つめながら、過ぎ去った日を思い出した。
その日呼び出されて、友人から聞かされた言葉は、付き合っていた彼女と結婚するという話だった。幸せな話を聞いて、表面的に私は祝福を示しはしたものの、「もうこいつとかかわるのは止めよう」と決意した。付き合いの長い、話の合う奴だったが、どうしてもその時、私は「嫉妬」により、その友人を許す事が出来なかった。向こうから、メールに電話に年賀状をもらいはしたが、私は、1度も返信や応答はしなかった。もはや、私と言う存在は、そいつにとっては必要の無い物であり、他人の幸せを素直に喜べる程、大人ではない。
(この花に、思い出したくない記憶を刻むなんてな)
好きだったものを憎むのは、やはりつらい。時々、あいつに会いたいと思う事と同時に「どうしているかな」、と思うが、
きっと幸せになってるんだろう。
その言葉しか浮かばない。会わなくても解りきった結果は、読めば必ず面白いという「ベストセラー本」と同じで、中身が解らない蓋を開けたくはない。開けたいのは、中身が解らない箱の蓋。「この中身はなんだろう?」とわくわくしながら開けるような「機会」という名の箱を見つけたい。そんな感じの春を一度経験してみたい。決して、簡単には訪れる物ではないと解っていても。
それから、やや経って、オオイヌフグリの小さな青い花があちらこちらで咲き誇り、力強い「満開」を迎えた時、桜の花がさいた。そして、ようやく私は、毎年やってくる小さな春の憂鬱から開放される。状況は何1つ変わりはしなかったけれど・・・。
あとがき
勢いで書いてしまったが、物語というよりは、エッセイになるんだろうか?いつかの『つつじが丘三丁目物語』よろしく、花をタイトルに話を創ったが、書いていて、なんか「止めてお願い」という思いに何度か駆られた。全てが本当な訳は、あたり前の話ないが、自分の生活の一部を切り取って延長した様で、向き合うのが怖い。そんな気持ちに物語を書いて、想いを抱いたのは初めてであり、更正がややし難くかった。
オオイヌフグリが咲く頃には、春。この花が満開となる時、桜の花がさくのは、経験談。まさかそんな思いついた話を文章で形にする日が来るとは思いもしなかったが、とりあえず話を書き終える事が出来てほっとした。何を意図しているのか、自分でもよく解らないが、全ては「単なる思い付き」で出来たいつもの急行特急TH小説という事で、許して欲しい。
(白梅は満開か)
春が来たとは言え、まだまだ寒いと言うある日、そう思いながら、駅へと私は向った。
空席の目立つ、各駅停車の車内。
窓の向こうは、いつもの見慣れた景色が広がりあまり面白くは無い。街は2年や3年という月日をかけて変化していくのが常だが、空模様は、1日単位で同じようで僅かに変化していき、やがて1年が終わり、繰り返していく。自分の心境もそんな物で、言葉が違うだけで同じような変化が続く。
鮮やかな水色。
(冬の空よりかは、少し青の色が違う)
格好つけて、そんな事を思う。本当は何1つ解っていやしないのに、偉そうな事を言いたくなる私である。
やがて、電車は目的の駅についた。
用事を終えて、家に戻る頃は、陽射しがたっぷりの午後2時。再び私は駅に向かって歩いていた。
やがて、左に行くと駅という小さな角についた時、右手側にあった舗装されていない駐車場の地面に目が行った。そこには、小さな青い花が咲いていた。
(オオイヌフグリか。今年もこれが咲く時分になったか)
まだまだ寒いが、春は着実にやって来ているんだなと思う。
春というと、暖かくてしのぎやすく、冬で縮こまった体を、大の文字を描いてノビをするイメージがある反面、花粉症に追いやられるというマイナス面もある。春の兆しはあっても、肌寒さはぬぐえない。春であって冬である。今は季節の同居の時期なんだろうか?
(季節の同居というと雨か?)
折りしも明日は雨という予報があった事を思い出す。季節の変わり目は、天気が安定しないのが特徴としてある。同じ物同士、言ってみれば、磁石の同極をくっつけると反発する、それと天候は似ているな・・・と思いつつ、「雨の日」と言われるお気に入りの歌を私は口ずさみながら、道を急いだ。
自分の住む街に戻って、そのまま帰るのも難だったので、ふらりと比較的大きな書店に寄ってみた。特に読みたい本がある訳ではない。
昨今、活字離れが著しく、反省しなければならない反面、言い訳が口をつく。
まざまざと今の現実を突きつけられ、自分のふがいなさに似た感情が湧いてくる恋愛小説。「人の生死」をありありと描くノンフィクションは、意味も無く目をそらしたくなり、サスペンスやミステリーは、どうもそっちには逃げたくない、という訳のわからない頑な気持ちがあり、手が伸ばせないでいる。これを、客観的には「逃げの一手の言い訳」と呼ぶ様だ。まったくもって認めたくない話でではある。
そんな聞こえない耳の痛い声をどこかで聞きながら、店の中に入る。当ても無く、単行本が並ぶフロアをうろついている時、ふと、壁に貼ってある店内の案内図に目が行った。
教科書
その3文字が思わず目に入った。
(あの物語は、まだあるだろうか)
不意に、小学校6年の頃に、国語のテキストにあった1つの話を私は思い出し、もう一度あって見たいと思い、そのフロアへ行ってみた。
(相も変わらず、色々あるんだな)
表紙の絵が、いかにも、
「この教科書は、読むと楽しいですよ」
と言わんばかりの表情を浮かべている。殊に、「算数」、「数学」に「理科」と、どちからと言うと、昨今は、犬猿されがちな分野のテキスト程、そんな感じがするな、と私は思う。
(一発で解る人が羨ましいよな。解る人には解る、楽しさ、面白さ)
英語なんかも案外そうだよな、といかにも「外国」を意識した国際的な感じの写真が印刷された表紙に目が行く――私は、その時本来の目的を逸しそうになったので、探している物を見てみたが、さすがに、掲載されていなかった。
(20年も経てば、消えてあたり前か)
ちょっとがっかりして、私は棚に本を戻した。その時、ふと、高校の「現代国語」のテキストが目に入った。
(そう言えば、あの話はまだあるだろうか?)
「出会い」について書かれた随筆というのかエッセイというのか解らないが、そんな話があったのを思い出す。春先の講義で、取り上げられたものだった・・・が、やはり、これもなかった。
(昔に捕らわれ過ぎだな)
さすがに馬鹿馬鹿しくなって、私は店を後にした。
(思い出したくなくても、思い出す「過去」ってなんなんだろう)
解んないなぁ・・・と1つため息をついた。
(こんな時間に何の用だよ)
その夜の10時過ぎ、いきなり、友人から、
「これから会えないか」
というメールがやって来た。
再び私は、駅へと向かった。
夜の人影は、昼間と違う、いつかのテレビゲームの攻略本の一説が頭を過ぎる。それが基で「夜は特殊なもの」という印象が私に植付けられた。
「夜なんて、何も見えなくて、寝るためのものだろ」
という内容の話を、夜が好きになった中学時代に、誰かが言った。その声が耳の奥でよみがえる。
混み合っていた、車内もいくつもの駅を通過していくうちに、いつしか、がら空きになった。
(変な話じゃないと良いけどな)
車内の光の反射を手でかざして、窓の向こうの夜景を見るが、まばらな街灯の青淵の白い光しか目につくものはなく、あとは闇が広がるばかりだった。
(こんな時に似合うのは、やっぱり失恋かな)
別に、女友達に会いに行く訳ではないけれど、仮にそうだったとしたら、話的にはありきたりかもしれないが、ドラマチックである。
あるいは、付き合っている異性の友人から、「好きだ」と人知れぬ夜に、街灯の下で告白されても、また一興かな、と、妄想が浮かぶ。
(何か良い事ないかなぁ)
昨今の、止めたいと思う口癖が、胸の中で始まる。
(オオイヌフグリが咲く頃だし、新しい出会いの1つでもあると良いよな)
流れ星を期待して、空を見上げるが肝心の星は見えなかった。
(そう言えば、昔、その花とシロツメクサを間違えて、覚えていたんだよな)
私は、景色を見るのを止め、出入り口ドアの上にある液晶モニターを何とはなしに見上げた。沿線の宣伝やらなにやらが楽しいが、今は占いがみたいなぁ、と思う。
(期待したって、何か起こるわけじゃないのに)
私はため息を1つついた。さっきから想い描いて広がった妄想に妙な興奮が芽生え、疲れてきた。
(あと、2つか)
駅につき、ドアが開く。乗り降りはない。
車内の明かりが、ホームのアスファルトと黄色いブロック線を照らした時、どこか切ない予感がした。
(あの日から5年が経つのか)
私は、再びやって来た肌寒い春先の道端に咲く、オオイヌフグリを見つめながら、過ぎ去った日を思い出した。
その日呼び出されて、友人から聞かされた言葉は、付き合っていた彼女と結婚するという話だった。幸せな話を聞いて、表面的に私は祝福を示しはしたものの、「もうこいつとかかわるのは止めよう」と決意した。付き合いの長い、話の合う奴だったが、どうしてもその時、私は「嫉妬」により、その友人を許す事が出来なかった。向こうから、メールに電話に年賀状をもらいはしたが、私は、1度も返信や応答はしなかった。もはや、私と言う存在は、そいつにとっては必要の無い物であり、他人の幸せを素直に喜べる程、大人ではない。
(この花に、思い出したくない記憶を刻むなんてな)
好きだったものを憎むのは、やはりつらい。時々、あいつに会いたいと思う事と同時に「どうしているかな」、と思うが、
きっと幸せになってるんだろう。
その言葉しか浮かばない。会わなくても解りきった結果は、読めば必ず面白いという「ベストセラー本」と同じで、中身が解らない蓋を開けたくはない。開けたいのは、中身が解らない箱の蓋。「この中身はなんだろう?」とわくわくしながら開けるような「機会」という名の箱を見つけたい。そんな感じの春を一度経験してみたい。決して、簡単には訪れる物ではないと解っていても。
それから、やや経って、オオイヌフグリの小さな青い花があちらこちらで咲き誇り、力強い「満開」を迎えた時、桜の花がさいた。そして、ようやく私は、毎年やってくる小さな春の憂鬱から開放される。状況は何1つ変わりはしなかったけれど・・・。
あとがき
勢いで書いてしまったが、物語というよりは、エッセイになるんだろうか?いつかの『つつじが丘三丁目物語』よろしく、花をタイトルに話を創ったが、書いていて、なんか「止めてお願い」という思いに何度か駆られた。全てが本当な訳は、あたり前の話ないが、自分の生活の一部を切り取って延長した様で、向き合うのが怖い。そんな気持ちに物語を書いて、想いを抱いたのは初めてであり、更正がややし難くかった。
オオイヌフグリが咲く頃には、春。この花が満開となる時、桜の花がさくのは、経験談。まさかそんな思いついた話を文章で形にする日が来るとは思いもしなかったが、とりあえず話を書き終える事が出来てほっとした。何を意図しているのか、自分でもよく解らないが、全ては「単なる思い付き」で出来たいつもの急行特急TH小説という事で、許して欲しい。