私はよく「腹を立てる」時々自分で自分を「怒りの人」だと思うことがある。
しかし「怒り」は鎮めなければならない。
なぜなら、私は「怒り」をうまく「エネルギー」に変換できないからである。ついでに言えば「怨み」もエネルギーに変換できない。
「怒り」や「怨み」は「怠惰」に変わっていくタイプなのである。
だから、これらを「エネルギー」に変えてバリバリに進んでいく人がうらやましい。
で、この「怒り」「怨み」をどうするかといえば・・・
「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いんです」
と笑う(この場合「嘲う」か)のだ。
これは「見方」あるいは「見る方向」を変えてやる、ということだと自分では思っている。
一方的に自分の側からみるから「怒り」や「怨み」が生じるのであって、俯瞰的にみたら、相手側からみたら、仰角的にみたら、物事は違うんだろうなあ、と思うようにしているのだ。
この場合「裏側」からはあまり見ないようにすることが大切。「裏側」から見たりすると「怒り」が増幅する可能性がある。目的は「怒り」を鎮めることなのだから。
この「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いんです」
というのは、山口瞳の「血涙十番勝負」で読んだ一説だったと思うが、昭和初期ごろの漫才のセリフらしい。自虐的で、今で言えば「ヒロシです」みたいなものなのかもしれない。
私にとっては「一拍」いれるため、あるいは「間」をとるためのセリフです。
と、こんなことを考えたのは
「ああ、誰か私を助けてくれないかなあ」とか「助けるべきだ」
と思っているとき、社会は冷たく。
しかし、精一杯汗を流して黙々と何かをしていると、どこからともなく助けが現れ、ああ世間というのは暖かいものだなあ、と感じる。
ということを経験的に思い出したからだ。
つまり、自立した若しくはしようとしている人にたいして世間は暖かく、依存している若しくはしようとしている人にとっては世間は冷たい、ということなんだろうなあ。
なんて、考えたのである。
それにしても電信柱や郵便ポストのことだから、私が悪い、と言えるのであって、具体的な事柄、例えば政治が悪いとかお金がないといったこと、については、やはり「私が悪い」とはいえないものだ。その辺がうまくできていると思う。
追伸
二月のカモシュウで絶対不合格だと思っていた「財務戦略」が合格した。嬉しい、けど、何故だ?という気もする。