読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

グレート・ギャッツビー <スコット・フィッツジェラルド 訳:村上春樹>

2007-03-01 21:10:21 | 読んだ
グレート・ギャッツビーをはじめて読んだのは、村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだ後である。
ノルウェイの森の主人公・僕・ワタナベトオルの愛読書が「フレーと・ギャッツビー」で、この本をずっと読んでいるのだ、なにしろ『気が向くと書棚からグレート・ギャッツビーをとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていて、ただの一度も失望をさせられることはなかった』本なのだ。

読みたい、と思って読んだのである。
新潮文庫で、訳・野崎孝だった。

で、感想は「なんだかなあ」だったのである。
その後、映画「華麗なるギャッツビー」も見た。
それなのに「よくわからない」のである。

そして今回は、あの、村上春樹の訳である。
発売前からそして発売後も評判ではあったが、評判ではあるが「村上春樹訳のグレート・ギャッツビー、よかった」という声が聞こえてこないのである。

小説としては「よくある話」のような気もするし、「上流社会」のようなものがどうも受け入れられないのではないか。たとえ、そこに書かれていることが心理的・精神的に深いものであれ、日本ではこの設定そのものが「なんだかわからない世界」になっているのではないか。

また、海外の小説は、なんだか形容がすごいのである。
「もし人格というものが、人目につく素振り(ジェスチャー)の途切れない連続であるとすれば」
ってなんだ?

「それから輝きは徐々に薄らいでいった。街路で楽しく遊んでいた子供たちが日暮れどきになってうちに引き上げていくかのように、ひとつひとつの光が名残を惜しみつつ、デイジーのもとを離れていった」
って、わかるけど、くどくないか?

こういうところはなんというか「バター臭い」と感じて、ひいてしまったりする。
慣れればいいのだけれど、最後まで慣れずにいるひとは大変だろう。

ということで、今回は昨日の東京出張のために読まずにとっておいたのだが、往復の新幹線で読み終えた。
それだけ夢中に面白く感じられたのである。

少し読んでは(各章の半分くらい)眼を閉じて休み(眠っている)、また読み始めるという読み方をしていたのだが、この物語にはそれがよかったのではないかと思うのである。

物語は、主人公ニック(バックルー公爵を祖先にいだいていて、アメリカ中西部の都市で裕福に暮らしている)がニューヨークにでてきた年の夏の出来事である。

かなりくたびれた安造りのバンガローに住むことになり(とはいえ家政婦を雇っている)、その隣の屋敷の「ギャッツビー」と知り合う。
ギャッツビーの屋敷では、毎晩のようにパーティーが開かれている。そのパーティーは豪華である。
ギャッツビーは何をしてそれほど大金持ちなのか謎である。

また、ニックは遠い親戚のデイジーとその夫である大学時代からの知り合いトム・ブキャナンとも親交を持つ。

そして、事件というか物語が本格的に動き出す。
この動き出すまでが日本人にはなんだか長いような気がするのである。
この動き出すまでガマンできたら「シメタ」もの、あとは一瀉千里、突っ走るのである。

物語が終わっても「役者のあとがき」で村上春樹が熱く語る。
そして、そのあとがきが面白かったりもするのである。

グレート・ギャッツビーはちょっとなあ、と思っている人はゼヒ本屋さんであとがきを立ち読みしていただきたい。
そうすると「読んでみようかなあ」なんて思うはずである。

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