読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

春秋名臣列伝 宮城谷昌光 文春文庫

2008-04-13 22:09:19 | 読んだ
「春秋」とは中国の時代の名称である。
本書によればそれは紀元前770年から紀元前467年までだそうである。
そのころの日本は縄文時代の次の弥生時代あたりらしい。
まだ、日本にはいわゆる「歴史」というものがない時代の話なのである。

中国史における王朝は「夏」「商(殷)」「周」「秦」「漢」(以下略)と続くが、春秋時代は、周王朝の「東周」時代にあたり、孔子が書いた(とされる)「春秋」というものから名づけられたという。(もっと詳しくいうとなお混乱するのでまとめたが、このあたりは諸説あるらしい)

さて、何故そのような古い時代の話が現代まで受け継がれているのか、しかも日本で、ということであるが、著者はこう書いている。

「周の時代は、日本的な志向を活かしやすい社会と国家の構造があり、それゆえにその時代に生まれた思想が、日本人の思想の根幹に接ぎ木されても枯死しなかった。」

私も、この春秋時代をはじめとして中国の歴史を学んで日本の国家体制というのが出来上がってきた、と思うのである。

ただし、この中国の歴史には常に「君主あり」ということが一番先にある。
君主に対してどのように仕えるべきか?
が、名臣として名を後世に残すかなのである。

従って、現代にこれらの名臣の話をそのままに持ってくることはきわめて危険だと思うのである。
つまり現代社会においては、「君主」というような生まれながら犯すべきものではないもの、究極の聖域は存在しないからである。

現代社会においていわゆる上下関係にあるのは組織上の権限の違いだけである。
そして、組織が必要なしと認めれば、組織の長であっても淘汰されるのである。
そのあたりを勘違いした人がまだ多くいて、組織上の関係を封建社会の縦関係に置き換え、無茶なことをするのである。
封建時代の君主が無茶をすると殺されたのだが、現代ではそのようなことがないためなお始末に悪いこともある。

だから名臣をそのまま、自分の部下に望むのは「おこがましい」ことであり、部下として名臣の考え方をそのまま実行するのは「勘違い」なことでもあるのである。

と、否定的なことを書き連ねてきたが、このような考えをあらかじめ持っていても、やはり名臣たちには感銘をするのである。それは長い間の日本人としてのDNAかもしれないが、現代にも通ずるところが多々あるからである。
そういう意味では紀元前から人というのはあまり変わっていないのかもしれない。

この時代の名臣の言は「命がけ」である。
その「言」や「行動」を学ぶのではなく、「命がけ」を学ぶべきかもしれない、なんて思いながら読んでいたのである。

引用したい部分が多々あるのだが、二つばかり掲げて、今後の自分への戒めにしようと思う。

「(前略)儒教が決定的に欠如しているのは、民の目、であり、儒教は常に指導者の意識を保持し、いわば貴族の哲理である。支配する側に立ちつづけ、支配される側に立たない哲学である。それゆえ公共事業の有益とか社会福祉の意義などは大衆にかかわることで、儒教には大衆の力はまったく措定されていない。」

「(前略)歴史を学ぶということは、疑問からはじめるよりも、信ずるということを基礎に置いたほうがよい。人文の世界は、巨大な疑惑のかたまりのようにもみえるが、純粋に信ずるということが核にあるものなのである。人は疑うと弱くなり、信ずると強くなる。」

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