神田山陽は講談師である。
私は落語はよく聴くが、講談のほうはあまり得手ではない。
しかし、いつだったかこの神田山陽を聞いたとき『おお新しい時代の講談ではないか』と思い、とりあえず注目することにしたのであった。
しかし、注目といったって講談を聴く機会などあまりなく、まあ偶然に出会ったとき注目をしていたのであった。
で、オール読物に神田山陽がこの「講談放浪記」を連載し始めたので、もちろん注目をしているのである。
で、読んでみるとこれが『小難しい』『理屈っぽい』そして『くどいようで省略が多い』と、まあ私の文章と似ているのである。
考え方も似ている。
但し、彼は芸人、考えたことを実行する。
それは、芸人としてわが身で自分の考え方を試しているのだと思う。だから、傍から見れば、無駄なことであったり、馬鹿馬鹿しいことであったり、そして何より何もそんなことしなくても、と思うことまでやってしまうのである。
そうして彼は人知れずそのことで恥ずかしいと思ったりどうしてこんなことしたんだろうなんて、いわば自己嫌悪に陥り、そういう時過去のかっこ悪い自分を重ねて思い出して『あーあ、俺はなんてだめな奴なんだ』なんて思うのである。
しかし、しかしである。
そういう自分を文章で描いているということはどういうことなんだろう?
これも「芸」なのか、それとも「文学」なのか。
もうしばらく、注目してみよう。
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私は落語はよく聴くが、講談のほうはあまり得手ではない。
しかし、いつだったかこの神田山陽を聞いたとき『おお新しい時代の講談ではないか』と思い、とりあえず注目することにしたのであった。
しかし、注目といったって講談を聴く機会などあまりなく、まあ偶然に出会ったとき注目をしていたのであった。
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考え方も似ている。
但し、彼は芸人、考えたことを実行する。
それは、芸人としてわが身で自分の考え方を試しているのだと思う。だから、傍から見れば、無駄なことであったり、馬鹿馬鹿しいことであったり、そして何より何もそんなことしなくても、と思うことまでやってしまうのである。
そうして彼は人知れずそのことで恥ずかしいと思ったりどうしてこんなことしたんだろうなんて、いわば自己嫌悪に陥り、そういう時過去のかっこ悪い自分を重ねて思い出して『あーあ、俺はなんてだめな奴なんだ』なんて思うのである。
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