読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

たまゆら あさのあつこ 小説新潮2010年3月号~2011年1月号

2011-05-22 11:51:22 | 読んだ
「あさのあつこ」は私にとってはあまり馴染みのない作家である。

「火群のごとく」(2010年4月29日参照)は読んでいるのだが、そのーまあーなんというか、あさのファンには申し訳ないのだが、もっと読んでみよう!という積極的な姿勢にはなれなかった。

とはいうものの、なんというか気になる作家ではあったので、小説新潮に連載されていたこの「たまゆら」を読んだのである。

ちなみに、この「たまゆら」5月20日単行本が発売とのこと。

ところで「たまゆら」という言葉であるが、よくわからなかったので調べてみた。
漢字にすると「玉響」と書く。
意味は、『少しの間。ほんのしばらく。』とのこと。

で、この小説を読んで、この題名の意味を知って
「おおーっ!なるほど!」
と思ったのである。

「花粧山」という山の麓というか入り口に住んでいる能生日名子(のうひなこ)という70代の女性が語りはじめる。

夫・伊久男と二人暮らしである、いや犬が一匹「ヒバ」もいる。そのヒバが去年の秋口に子供を産んだ。そのうち一匹がなくなり『たまゆら』と名づけ埋葬した。などなどが語られる。

「花粧山」という名前の山は本当は「迦葉山」と書くのだ、ということを以前に教えられたこと。

この迦葉というのはお釈迦様の弟子の名前であり、それだけでもなんとなく「山」の性格がうかがえる。

さて、この家に娘が一人訪ねてくる、というか「山」に行こうとしてたどりつく、外は大雪である。

この娘・真帆子も語りはじめる。
何故、この山に来たのか?

物語は日名子と真帆子が語る「純愛」が芯となっている。
彼女達が語る物語というか出来事は、それなりに衝撃的であり劇的であるのだが、その出来事そのものよりも、彼女達がその出来事にあって何を考え何を貫こうとしたのかのほうが主である。

彼女達の過去が語られたとき、彼女達は「山」に登ろうとする。

それは「山」に彼女達がこれまで生きてきたことの「支え」或いは「証」のようなものがあり、それを捕まえるか確認しなければ、これから生きていけないからである。

『生きてきた』と『生きていく』ということの違いは、この東日本大震災で多くの人たちの話を聞き・読み・見ることで考えさせられていることである。
そして『生きるためには』ということも人には必要である。

人が生きる、ということはなんなのだろう、ということを改めてかんがえさせられた物語である。

なんというか、こういう言ってみりゃ「暗い話」はあまり好きではない、好きではないが読み始めたら止められなくなってしまった。(毎月読んでいたのではなく、一気に読んだのである)

この物語を読んで「あさのあつこ」の本を買って読んでみようとは思わなかったが、出会いがあれば手にとってみると思う。

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