修行の先輩と連絡を取っていまして、
まだ個人的なことはしてはいけないことになっていまして
自宅での瞑想は毎日、コツコツ。
ただ瞑想の内容はあえてクリアーに、というわけではなく、
自然体であることを目的にしています。
目的という言葉の使い方も違いますね。
あるがまま、
出たまま、そのままというのが一番合っているかもしれません。
あえて修正もなにもしない。
出てきたものを何とかするとかではなく、
正解、不正解などなく。
最初はたくさん湧いて出ていましたよ。
「ヒト」の言葉が出て、散らばって、集まって、
消えてはまた湧いてくる。
水たまりに雨が落ちて、泡ができて、それが次の雨粒とぶつかって
消えたり、また生まれたりの繰り返し。
きっと一つ一つに気になる性格の人なら
人の言葉で自分の思考がいっぱいになるかもしれませんね。
この状態が続くと、きっとイライラするかもしれません。
能力的なことは人によって全く違うので、万人に向けた言葉ではありませんが、
開ける、閉じる。
欲は出さない。
知りたがらない。
決まり事を守る・・
これができない人はその先が大変と思います。
『インディージョーンズ』の映画で
すべてを知りたがったために最後は知りたくない!と思ったときには拒絶さえできなくなるという精神状態になるのを避けなければなりませんし、
『呪術廻戦』のすべて見える、故にまとまらない世界に放り込まれるのも同じような感覚だと思います。
あくまでもきちんとした先輩、ご僧侶のご指導を頂きながら、となります。
・・ということでそれだけの精神力とその器は必要ですよね。
やはり、男性に生まれるべきだったわ、と反省しています
禅宗のお寺の修行に入った時に、
『無』とか『空』に囚われる時期に入ると、
人恋しくなる人と、
人の言葉で頭がいっぱいになって
「何を考えているのかさえわからなくなる人が多いのですが、
それを超えてきた経験があるので、
マトリックスのように言葉が次々と降ってきても
雨粒の泡が消える感覚を持っている限りは思考の軸に外部からのひねりやチカラを加えられそうになっても
消化できる(昇華)の方向へ流せるようには少しずつなっていると思います。
お坊さんにはよく、
「流せるようになりなさい」と言われるのですが、
自分の心が何かをつかんでいる限り
流せられないもので自分を囲んでしまい、身動きが取れないようになってしまうのだけは避けたいと思っています。
「今、お寺には来ない方がいいですよ」ということを言われています。
コロナが流行っているのもありますが、
お寺に集まってくるものでせっかくの「流しているもの」がまた集まってくるというので、
それだけ人は〇しいですし、
助けて欲しいですし、ね。
お坊さんのように日々、俗世の世界から離れた生活をしていればいいのですが、
私は普通に生活をしているので、流しても流しても集まる、いえ、自分で集めてしまうかもしれませんね。
体のリズムを整えたいので、
雨が降らないかな・・・と日々願っています