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市松模様と時雨桜を訪ねて~木曽:興禅寺~そして来年の大河ドラマのこと・・・

2011-05-14 | 小さな旅の思い出
【萬松山:興禅時にて】 



     

【興禅時に咲くヒトリシズカ】
クリックすると拡大します。
今日は、前回ご紹介したヒトリシズカ(一人静香)の
咲いていたお寺をご案内いたします。

赤沢自然休養林の帰り道、少し足を伸ばして
木曽福島の町に立ち寄りました。
その昔、中山道の宿場町、関所のある町として栄えた場所です。 
その関所跡から然程遠くないところにある興禅寺を訪ねました。

この興禅寺(※1)にあの市松模様の庭で有名な重森三玲による石庭が
あると知ったのは今年の初め、京都にある
訪れたときでした。

そのときの様子は、こちら↓
「めぐるデザイン  永遠のモダンへの旅…in 京都」

モダンな庭を設計していた重森三玲が木曽谷にあるお寺に
どんな庭を造ったのか、是非見てみたいと思ったからです。


そして、その庭がこちらです。


【香雲庭】

禅宗庭園として、昭和38年に作庭された枯淡で簡素な抽象性の強い庭園です。
一木一草を用いない枯山水の庭としては、東洋一の広さを持っています。
木曽の山並みを借景に、広大な雲海に浮かぶ山岳を表現しているのだそうです。


【香雲庭】

残念ながらお寺の改装工事中で、少々風情に欠けますが
重森三玲が好んで使っていた市松模様を、ここでも見ることができました。



このお寺には、木曽義仲公の廟所があることでも知られ
義仲公お手植えの桜(二代目)があることでも有名なのだそうです。

寿永3年(1184年)粟津が原で従兄でもある源頼朝の命を受けた源義経らの軍勢に破れ
31才でこの世を去った義仲公の遺髪は、巴御前(※2)に託され
その遺髪がこの寺の墓に納められているのだそうです。

  

その桜が、丁度満開の時期を迎えていました。



【木曽桧で造られた本堂と時雨桜】

 家からそれ程遠くない場所に、こういった場所があることを知りえたのも
ブログを書くために、色々と調べる機会が増えたからです。
これから、こうした場所を折を見てご紹介したいと思っています。

ところで先日、来年のNHK 大河ドラマ 「平清盛」に出演する主な配役が発表されました。

主役の平清盛役には、先日小雪ちゃんとの結婚を発表したばかりの松山ケンイチ。

自身の志願による起用で、記者会見では「日本を元気にするような作品に」と抱負を述べていました。

クランクインは2011年8月の予定だそうです。

その他には、

清盛の父平忠盛)に中井貴一
平家盛に大東俊介、平家家臣の平家貞に中村梅雀 、平盛国に上川隆也 、伊藤忠清に藤本隆宏 。

そして、生涯のライバルとなる源義朝に玉木宏
源為義に小日向文世、後白河天皇に松田翔太
鳥羽上皇に 三上博史 、崇徳天皇にARATA
藤原忠実に國村隼 、藤原頼長に山本耕史
西行に藤木直人 、信西に阿部サダヲ   となっています。

新旧取り混ぜた個性的な俳優さんぞろいです。

今回も、史実に囚われない新しい解釈によるドラマになるとのこと。

鬼が笑うかもしれませんが、木曽義仲にも繋がっていく人物たちが活躍した時代の
新たなドラマが今からとても楽しみです。



「2012年 NHK大河ドラマ~平清盛~」公式サイト

【写真】玉木宏ほか豪華俳優陣が勢揃い 会見に出席した新キャスト写真一覧





【山頭火の句碑より】


 

※1 興禅寺とは、木曽氏・山村氏代々の菩提寺で、木曽三大名刹のひとつに数えられています。
本堂裏にあるのは山村氏歴代代官の墓地。そこに並ぶ壮大な墓碑が山村氏の家格を今に伝えます。
また、ここは木曽踊り発祥の地とされています。
歴史は長く、木曽義仲公の戦勝を記念した霊祭のとき踊られた「武者踊り」が起源ではないかと言われ
室町時代の『閑吟集(かんぎんしゅう)』に出てくることから、室町時代には既に都にまで知れていた考えられています。
 当時は木曽谷一帯の村々で踊られており、数十種類の民謡や踊りがありました。木曽節はその代表的なもので
盆踊り唄として広く木曽一円で歌われていたのです。また、木曽節は伊勢をはじめ、全国各地から入りこんだ
杣人(そまびと)や日庸によっても歌われ、即興的に歌われた唄は、あるものは消え、あるものは残って
全国各地に広まっていきました。

※2 巴御前とは、鎌倉初期の女武者。木曾(源)義仲の従者でその愛妾ともされる。
義仲の乳母の夫,中原兼遠の娘といわれ,治承4(1180)年の義仲の挙兵に従い
越中国(富山県)礪波山の戦などを経て入京。元暦1(1184)年1月,近江粟津の戦では敵の首をねじ捨てる
などの活躍をしたが,死を覚悟した義仲の命令で戦場を離脱した。中世前期に武家の女性は地位が
高かったことを背景として,大力は女性の血筋で伝えられるという信仰のもとに造形化された女性である。

最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。