ググればたちどころにいろいろなことがわかってしまう世の中である。
しかし、書かれていないことも多い。
インターネット上に誰かが情報を載せてくれているから、知識が伝わるのであって、情報が掲載されていなければ、せっかくの知識も広くは伝わらない。
今日は、「寒川監獄」について書いてみたい。
寒川監獄は、今の千葉刑務所の前身である。
千葉市中央区に寒川町というところがある。
東京湾に面した場所だ。
今となっては何か特別なものがあるわけではない。
隣の川崎町というところには、アリオもあるし、映画館もある。
川崎町というのは、戦後に東京湾を川崎製鉄が工場を建てるためには埋め立てをしたことでできた地名である。
川崎製鉄も今や企業名としては存在しない。
今は、JFEスチールという名前になった。
2003年に日本鋼管と合併してこの名前になったのだ。
話を寒川に戻す。
江戸時代、寒川は寒川村だった。
ここは佐倉藩領で、佐倉藩の年貢米を江戸に廻送するための御用港として、賑いをみせていたところであった。
つまりはベイエリアであったのだ。
物資が集まり、倉庫が立ち並ぶところ。
しかし、明治となって佐倉藩がなくなり、米本位制がなくなったことから、倉庫は不要となった。
これが監獄に転用されたというのが、寒川に監獄ができた由来のようである。
1874(明治7)年までは、千葉市の大日寺境内に仮監獄があったという。
しかし、火災により消失。
そのために、寒川の地に監獄が移転したといわれている。
利用しなくなった米蔵を刑務所に転用したとういエピソードは、小菅監獄(現在の東京拘置所)とも似ている。
小菅監獄は、江戸時代は関東郡代伊那家の下屋敷であり、敷地内勤番所近くにあった広大な備蓄用籾蔵を転用されたことに始まっているからだ。
さて、寒川監獄である。この監獄は当初は寒川監獄と呼ばれていたが、1903(明治36)年には「千葉監獄」と呼ばれるようになった。
そして、現在刑務所がある貝塚の地に監獄が新設されたのは1907(明治40)年のことである。つまり、1903年から1907年までは「千葉監獄」といっても寒川の地にある監獄のことをさすのである。
寒川の地に監獄があったのは、1874(明治7)年から1907(明治40)年までの33年間ということになる。
寒川の監獄に収容されていた著名人としては、加波山事件の主犯である富松正安がいる。
富松は、寒川の監獄で未決期間を過ごし、死刑判決を受けたので、同監獄で死刑を執行された。
監獄というと、どうも既決囚のみを収容する場所というイメージが強いが、未決囚もいたということは、このことからもわかる。
そして、現在の千葉刑務所には死刑設備がないので、死刑は行われないが、当時の寒川監獄では死刑が行われたのだということもわかる。
加波山事件とは、1884(明治17年)9月に発生した民権激化事件の一つである。
加波山は茨城県にある山である。
そこで事件が起こったから、犯行時は茨城県にいたのだが、犯行に関わったものは散り散りに逃走したのである。
千葉県内に逃走したのが富松だった。
同年11月2日に逃走先の姉崎(現・市原市姉崎)で逮捕されたため、千葉重罪裁判所での裁判のため未決期間を寒川の監獄で過ごした。
一審で死刑判決。1886(明治19年)8月大審院でも死刑の量刑が維持されて確定した。
10月5日に寒川の監獄監獄で死刑が執行された。
当時の刑事訴訟は二審制であって、大審院に上告されても東京には移監されなかったのだ。
富松は、寒川の監獄で未決の期間を過ごし、死刑が確定されて、同所で執行された。
寒川監獄については、千葉市立郷土博物館発行の「ちば市史便り」14号(2015年3月)から大いに教えられた。
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/documents/newsletter14.pdf
しかし、書かれていないことも多い。
インターネット上に誰かが情報を載せてくれているから、知識が伝わるのであって、情報が掲載されていなければ、せっかくの知識も広くは伝わらない。
今日は、「寒川監獄」について書いてみたい。
寒川監獄は、今の千葉刑務所の前身である。
千葉市中央区に寒川町というところがある。
東京湾に面した場所だ。
今となっては何か特別なものがあるわけではない。
隣の川崎町というところには、アリオもあるし、映画館もある。
川崎町というのは、戦後に東京湾を川崎製鉄が工場を建てるためには埋め立てをしたことでできた地名である。
川崎製鉄も今や企業名としては存在しない。
今は、JFEスチールという名前になった。
2003年に日本鋼管と合併してこの名前になったのだ。
話を寒川に戻す。
江戸時代、寒川は寒川村だった。
ここは佐倉藩領で、佐倉藩の年貢米を江戸に廻送するための御用港として、賑いをみせていたところであった。
つまりはベイエリアであったのだ。
物資が集まり、倉庫が立ち並ぶところ。
しかし、明治となって佐倉藩がなくなり、米本位制がなくなったことから、倉庫は不要となった。
これが監獄に転用されたというのが、寒川に監獄ができた由来のようである。
1874(明治7)年までは、千葉市の大日寺境内に仮監獄があったという。
しかし、火災により消失。
そのために、寒川の地に監獄が移転したといわれている。
利用しなくなった米蔵を刑務所に転用したとういエピソードは、小菅監獄(現在の東京拘置所)とも似ている。
小菅監獄は、江戸時代は関東郡代伊那家の下屋敷であり、敷地内勤番所近くにあった広大な備蓄用籾蔵を転用されたことに始まっているからだ。
さて、寒川監獄である。この監獄は当初は寒川監獄と呼ばれていたが、1903(明治36)年には「千葉監獄」と呼ばれるようになった。
そして、現在刑務所がある貝塚の地に監獄が新設されたのは1907(明治40)年のことである。つまり、1903年から1907年までは「千葉監獄」といっても寒川の地にある監獄のことをさすのである。
寒川の地に監獄があったのは、1874(明治7)年から1907(明治40)年までの33年間ということになる。
寒川の監獄に収容されていた著名人としては、加波山事件の主犯である富松正安がいる。
富松は、寒川の監獄で未決期間を過ごし、死刑判決を受けたので、同監獄で死刑を執行された。
監獄というと、どうも既決囚のみを収容する場所というイメージが強いが、未決囚もいたということは、このことからもわかる。
そして、現在の千葉刑務所には死刑設備がないので、死刑は行われないが、当時の寒川監獄では死刑が行われたのだということもわかる。
加波山事件とは、1884(明治17年)9月に発生した民権激化事件の一つである。
加波山は茨城県にある山である。
そこで事件が起こったから、犯行時は茨城県にいたのだが、犯行に関わったものは散り散りに逃走したのである。
千葉県内に逃走したのが富松だった。
同年11月2日に逃走先の姉崎(現・市原市姉崎)で逮捕されたため、千葉重罪裁判所での裁判のため未決期間を寒川の監獄で過ごした。
一審で死刑判決。1886(明治19年)8月大審院でも死刑の量刑が維持されて確定した。
10月5日に寒川の監獄監獄で死刑が執行された。
当時の刑事訴訟は二審制であって、大審院に上告されても東京には移監されなかったのだ。
富松は、寒川の監獄で未決の期間を過ごし、死刑が確定されて、同所で執行された。
寒川監獄については、千葉市立郷土博物館発行の「ちば市史便り」14号(2015年3月)から大いに教えられた。
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/documents/newsletter14.pdf