南斗屋のブログ

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明治時代の千葉監獄内の独房の様子

2020年07月10日 | 歴史を振り返る
 今の千葉刑務所(当時は「千葉監獄」と呼ばれていた)は、1907(明治40)年に建てられています。当時の千葉監獄がどんなものだったかについて書き残してくれている人がいます。
 大杉榮や荒畑寒村です。
 彼らは、政治犯として実刑を受け、千葉監獄に入れられました。

 大杉榮は、千葉監獄に入れられた理由をこう書いています(「入獄案内」)。
「僕らのような伝染病のバチルスは、他の囚人とは一緒に置けないので、独房という小さい室に一人ずつ閉じ込められて置かれるのです。ところが、普通の監獄では独房の数がごく少ないので、もとは皆な当時日本唯一の新式監獄であった独房制度の千葉に送られたのです。」
 バチルスとは最近お目にかからない言葉ですが、「桿菌(かんきん)。転じて、ある物事につきまとって、利益をうばい、害を与えるものを言う。」と辞書にあります。
 自分たちのような政治犯は、権力者側から見れば伝染病の最近のようなもので、主義に染まっていない者に対して、政治的な見解に染めてしまうので、染まっていない者から隔離するために独房に閉じ込めておくのだ、というのが大杉の言い分です。
 この大杉の言からは、当時の千葉監獄は最新式であったこと、独房を多数有していたことがわかります。

 荒畑寒村「ひとすじの道」(日本図書センター)には、独房の数について書かれています。
「私たちは六十余の独房が相対して並んでいる四舎の、南側の監房に宇都宮、堺、大杉、盛岡、私、百瀬、村木の順で隣り合って入れられた。」
 四舎には独房があり、その数は六十余であったようです。
 同じ犯罪を犯した者たちが隣り合って入れられていますが、おそらく現代であればこんな収容の仕方はしないでしょう。
 当時は隣の房と話すことができたらしく、荒畑は隣の房と話をして、看守に怒られたことを前掲書に記しています。

 独房の様子について詳しく書き記しているのも荒畑前掲書の特徴です。
「独居房は三畳じきの板の間に一畳の蓆をしき、東西の両面はあら壁、北側の入口は厚い期の扉でその上部に監視窓と称する細長い口があり、外側から開閉し得るフタがついている木艦首が房内の囚人の動静をうかがう時は、廊下から監視窓のフタを開けて覗くと、口の内側は上下左右に拡がっているから房内は隅なく眼がとどくのである。扉と相対する南側には、やっと手の届くぐらいの高さの三尺の窓が切られ、引合せのガラス戸の外には鉄棒がはまっている。窓の下の右隅には水道の蛇口とコンクリートの洗面台、その下は洗い桶、左の隅には木製の衝立で鍵の手に囲んだ便所がある。木の合せブタを開けると、下半身が隠れるくらいの掘込んだコンクリートの便所で、落し口の下は外から便器を出し入れする装置だ。右側の壁には棚があって食器を入れた箱膳をのせ、その下の横に渡した麻糸には手ぬぐいと布巾がかけてある。手拭はウンサイのような厚い地で、まん中に縦に一本、監獄のシンボルみたいな赭い線が入っているシャレたものだ。膳棚の下には代赭色の布団がただ一枚、床の上にうすべったく畳まれている。房の中央、天井から下げられた五燭光の電燈はほとんど書を読むに足りない。以上が千葉監獄は寒村独居の場の舞台装置で、二三日もするとさらに作業の麻の束や、書籍数冊などの小道具が加えられた。」



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