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桜は咲きますね。
さてシーズン3.
久し振りの病棟は、俗に言う「浦島太郎」でした。
師長でしたので、不安がいっぱいです。
スタッフの仕事もよく理解できないのに、務まるのかな?と思い
一緒に当直しました。
リハビリテーション病棟は、看護と介護の狭間で揺れ動きながらも
何かしら障害をもったままこれから生きていく患者さんが多く、私たち
専門職ではなく、家族介護にゆだねなければならない部分が多くなります。
脳梗塞で上手に食べられない、歩けない、お風呂に入れない、買い物に行かれない、
できないことが多くなったことで、生活と家族の様子が激変します。
ご飯も水っぽいものが飲み込めなくなるため、食事指導から始まります。
常に45名が入院していて、半分が整形外科の患者さんです。
一日のほとんどが食事と排泄のケアです。
朝食前の歯磨き、洗顔、トイレ誘導、食堂への誘導、食事介助、食後の歯磨き
入れ歯の手入れ、おむつ交換、日中は体を綺麗にするべくタオルでふくとか
入浴介助とか、リハビリテーションのお迎え、送り、退院指導、整形の患者さんの
ギプスの巻きなおし、傷の手当、喉に管の入った人の器械による吸引・・・・・
こんな中、知り合いが事故で植物状態のまま転院してきました。
そこから、「あきらめない看護」「日常生活の援助の重要さ」を学びました。
常に患者さん、あるいは家族の方々から学びます。
植物状態で、気管切開、胃に穴をあけて栄養剤を流し込むという毎日に
何か変化を・・・リハビリテーションはもちろんのこと、音楽、トランポリン
アロマなど多くのアプローチをしていきました。
たったひとさじを呑み込むことができた瞬間は、忘れられません。
そこから徐々に目覚しく回復していきました。
お母さんは「どうしても回復して欲しい、この子はいつか一人で生きて
いかなければならないんです。自立できるように、必ずいつか。」
毎日お母さんが来院し、私も毎日話をしました。
今日はベッドをあげてみた、手で丸を作ったからわかるに違いない
車椅子に乗れた、もっともっと食事ができた、喉の管が抜けた、そしたら
そしたら「声がでた」。みんなで泣いて喜びました。
車椅子レベルでまずまず。これで退院しましょう、という矢先・・・・・・
お母さんのがんが見つかりました。お母さんは私によく話していました。
「師長さんが緩和ケアを作るんでしょ。私は何か合ったら絶対そこに入りたいわ。
そのときは宜しくね。お花もたくさん植えましょ。がんになったら、何も治療
するつもりはないもの」
ところが「まだまだ死ねないから、治療にかけてみます。今私は死ねない。」
辛い科学療法が始まりました。
そのことと反比例するようにどんどん驚異的な回復をしていきました。
「おかあさん あいたい あいしてるよ」と文字も書けるようになりました。
そして、歩けました。
歩けるようになってからは、まだまだ危険だったので私が毎日手を繋いで院内を
歩いていました。
ずっとオムツだったけれども、頑張りました。
お母さんの具合も悪いので、やっと退院してみました。
その1週間後、お母さんは具合が悪くなり入院してしまいました。
「師長さん、どうやら わたし、悪いみたい、よろしくね、ほんとに。
でも、師長さんの緩和ケア病棟には間に合わないみたい・・・・・・」
数日後、帰らぬ人となりました。
私は連絡を貰うようにしていたので、電話をもらい早朝にかけつけました。
彼は、「どうしちゃったの?死んだの? なんで泣いてるの?」と私に
訊くばかりでした。「悲しいことなんだよ、とっても」
彼は30代でしたが、高次脳機能障害となっていました。
人間の生きる可能性、生き延びる可能性、この絶え間ないケアは1年続き
彼は退院したのです。
今では公共の交通機関にも乗れます。
いろんなところに発表して、看護の可能性、あきらめないことの大切さを
伝えることができました。
リハビリテーションの楽しさを感じた矢先に、外科病棟へ異動になりました。
今年も本当にお世話になりました。よいお年を。