看護学校を卒業して33年目。
思えば新宿区民でした。
寮の7階から見えた、東京の景色は、どこかの観覧車でした。
空気が澄み切っていない都会の空は、蒸し暑かったことを思い出します。
授業は国語やら英語、ドイツ語、音楽、体育、看護概論、医学概論
いろんな科目があって、クラスで半分にわかれたり、一緒だったりでした。
体育祭は体育館だったし、文化祭も狭い学校でなにやらとりおこなっていました。
英語の授業で、ストロベリーシーズンを読んだのを覚えています。
青山学院大学の先生が、痛風だったことも。
教務の先生たちの、糊のきいたぱりっとした白衣は、大変清潔なものでした。
今や、あのような白衣を見ることは滅多にありません。
寮生活は楽しく、朝の掃除や、夜のお風呂掃除、トイレ掃除、食堂の掃除など
当番がありました。
お風呂が20時ぐらいまでで、なかなか入れないこともあり、清拭していました。
お湯が満足に出ない日は、水で洗髪したこともあります。
冬は寒すぎて、暖房がきれると布団の中に入っていました。
綿のはいったはんてんを着て、ジャージーでした。
そのはんてんの色で、誰が来ていたのかを少し思い出すことができます。
電話の台数が少なく、かかってくる電話はひとつだけで、電話当番は
館内放送の連続でした。
かけるほうも、2台しかなく、10円玉をもっていって、遠距離電話を
していました。そして、並んでかけたものです。
お部屋は段ボールのテーブル、電気スタンド、本棚、お湯のポット・・・。
さまざまな景色が走馬灯ののように流れ、しばし、めまいがしました。
そういえば3年間、テレビを見るという習慣がありませんでした。
空白の3年間は、どんなテレビ番組だったのか、気になります。
何やら歌謡曲はやっていた気がします。
集まったみんなはほとんど変わっていず、時の流れを感じませんでした。
でも、いろんなことがみんなあるものです。看護学校時代の3年間の
10倍も生きてきたからです。
遠くは青森、岩手、石川、山梨などから新幹線で集まってきて
くれました。
まだまだ胸がいっぱいです。
写真は森鴎外の机です。
そして病院のことをもう一度調べてみました。
国立東京第一病院・国立病院医療センターの起源は1871年(明治4年)に創設された
軍医寮附属の本病院である。
かつては麹町区隼町の2万9千坪の敷地内にあり、東は皇居、西南北に繁華街を抱えていた。
1929年に現在地に移転。現在の病院の敷地は旧徳川家尾張藩下屋敷の一部であり、
陸軍戸山学校の所在地でもあった。
東側には同じ1929年に陸軍軍医学校や牛込恩賜財団済生会病院が移転し、隣接していた。
国立東京第一病院の建物は、それまでの臨時東京第一陸軍病院の建物をそのまま使用した。
初代院長も陸軍病院院長がそのまま就任した。
陸軍軍医学校の敷地には1948年3月に国立栄養研究所が移転し、また、国立身体障害者
更生指導所が設置された。
国立身体障害者更生指導所は1979年7月に国立身体障害者リハビリテーションセンターに
統合され埼玉県所沢市に移転し、跡地には1984年に全国身体障害者総合福祉センター(戸山サンライズ)が建設された。
明治の時代からの歴史はいろんなことがありそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして 私の誕生日でした。
忘れられない日となりました。