二日市教会主日礼拝説教 2023年2月19日(日)
主の変容日
申命記30:15~20,Ⅰコリ13:1~9,マタイ5:21~37
「真理は足もとに」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
このたびの大地震で、キリスト教関係者が肝に銘じておきたいのは、トルコもシリアもキリスト教と古い関りがあるということです。それを手軽に確かめる方法は、お手持ちの聖書です。具体的には、聖書の最後に付いている付録の地図がそうで、その地図の8番「パウロの宣教旅行」を見ればよいからです。ところで、大昔はトルコは国としては存在しませんでした。地図が示すのは、使徒パウロが、ユダヤを出発して、シリアを通り、さらに現在のトルコを徒歩で旅して、最後に船で海峡を渡ったということです。日本の江戸時代もそうでしたが、昔の人は、自分の足で道を踏みしめながら旅をしました。パウロにとって、シリアとトルコの街道は旅行上絶対不可欠な存在でありました。
話しは変わりますが、この時期テレビは世界のカーニバルを報じています。でもそれはなぜこの時期なのか。実はキリスト教の暦と関係しているからです。本日は、主の変容という日曜日ですが、三日後は灰の水曜日で、ここから先キリスト教は四旬節・受難節に突入するからです。欧米の教会が承認するカーニバルはこの水曜の直前の日までなので、受難節に入ると町は静まり返ります。そうなる前に大騒ぎをしておこうというのがカーニバルなのです。
ところで、本日は主の変容の日曜ということで、聖書もマタイ17章の「イエスの姿が変わる」でした。変容とは姿が変わることなのです。私たちは本日は、聖書の話を絵にしたラファエロのことを考えたいと思います。
申すまでもなく、ラファエロはダ・ヴィンチ、ミケランジェロに並んでルネッサンス三大巨匠と呼ばれます。さて、本日問題にする絵は、彼が描いた主の変容の絵です。それは、ローマのヴァチカンにあるので、私たちもヴァチカンに行ったつもりで、絵の前に立ちたいと思います。なお、そのため用意したいのは、今も読んだマタイ17章つまり聖書の32と33頁のコピーです。これは必ず絵の鑑賞の大事な手掛かりになるはずだからです。
さて、ヴァチカンというローマ教皇庁肝いりの美術館でも、ラファエロの絵は特に大事にされているという印象を受けます。それはともかく、これから見る絵、『キリストの変容』は大変大きな作品です。なぜなら、サイズが、縦4m5㎝、横2m78㎝もあるからです。
ところで、コピーの聖書を読んだ人がすぐ気がつくことは、ラファエロの絵は『キリストの変容』だけど、絵になっているのは聖書の「イエスの姿が変わる」だけでなく、その次の「悪霊に取りつかれた子をいやす」も含まれているということです。それは、イエスが山を降りると、障害を持つ息子の親が子どもを治してほしいと頼んだ、そこでイエスはその子を治したという話です。ところで、ラファエロ以前の伝統では『キリストの変容』という主題の絵が取り扱う聖書の話は17章の1節から13節までの範囲となっていました。ところが、ラファエロはその慣例を破って、てんかんの子どもの話も『キリストの変容』の一部であると絵で主張していたのでした。
しかし、ラファエロは当時、教皇からも一目を置かれるほどの画家でした。伝統的な理解にそぐわなくても、ラファエロのような解釈もありうると大目に見られたのでしょう、問題にはなりませんでした。
さてここで、改めて彼の絵をながめてみると、絵は内容的に、上と下に分かれています。上は山の上の場面で、今読んだ1節から13節までの「イエスの姿が変わる」です。真ん中には光輝くイエスがいて天に昇らん動きを示し、その両脇にはモーセとエリヤがいて、その真下には、地面に伏せた状態の3人の弟子という構図です。ラファエロはそれを聖書に忠実に描いています。
それでは、山の下のほうはどうか。こちらは、なかなか大変のようです。全体には暗く、人物たちは闇の中をうごめく感じです。人物とは、山の上の3人を除いた弟子たちで、あとは群衆です。弟子たちは子どもの病気が治すことが出来なかったので、とても気落ちしています。
しかし、その暗さを突き抜けるように、光をまとった二人がいる。その一人は障害を背負う少年、もう一人は女性です。ところで、聖書の14節には、「ある人がイエスに近寄り、ひざまずいた」と書かれています。そこでラファエロの絵を見ると、ひざまずいている人間はこの女性だけです。つまり、彼女が「主よ、息子を憐れんでください」と叫んだことになるので、彼女が少年の母親なのです。ところが聖書に母親と言葉は出てこないので、ラファエロは自分自身の解釈で母である女性を描いたのでした。
ただそういう見方はそれまで誰もしなかったので、画期的な聖書解釈だったのでした。ところで、ラファエロは幼子イエスとその母マリアの聖母子の絵で名声を博した画家です。優しく伏目がちの聖母と前方を見つめる幼子キリストの絵は、今も世界の人を魅了しています。そのラファエロが本日の「キリストの変容」では、再び母と息子を描いたのでした。ところが、その絵は「キリストの変容」の絵なので、キリストの受難の道を始まる話でもあり、その道の先にあるのは十字架であり、そこには悲しみの聖母がいる。そのような見取り図を内に抱いていたラファエロは、中間点に位置する「キリストの変容」で、障害の息子と母に注目が集まるようにしながら、クリスマスの聖母子と受難のキリストとその母を重ね合わせていたのであります。
なおラファエロはこのあと若くして亡くなり、この絵は遺作となりました。
話は変わりますが、この絵の見どころはもう一つあります。それは、下で人々が右往左往しているというのに、山の上でペトロがとどまり続けていることです。彼はキリストの栄光を見たという感激が少しでも長く続くよう願って、日常の平凡な生活に戻ることを嫌がっています。しかし、キリストの栄光とはそういうものなのか、この絵は問いかけているのであります。
主の変容日
申命記30:15~20,Ⅰコリ13:1~9,マタイ5:21~37
「真理は足もとに」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
このたびの大地震で、キリスト教関係者が肝に銘じておきたいのは、トルコもシリアもキリスト教と古い関りがあるということです。それを手軽に確かめる方法は、お手持ちの聖書です。具体的には、聖書の最後に付いている付録の地図がそうで、その地図の8番「パウロの宣教旅行」を見ればよいからです。ところで、大昔はトルコは国としては存在しませんでした。地図が示すのは、使徒パウロが、ユダヤを出発して、シリアを通り、さらに現在のトルコを徒歩で旅して、最後に船で海峡を渡ったということです。日本の江戸時代もそうでしたが、昔の人は、自分の足で道を踏みしめながら旅をしました。パウロにとって、シリアとトルコの街道は旅行上絶対不可欠な存在でありました。
話しは変わりますが、この時期テレビは世界のカーニバルを報じています。でもそれはなぜこの時期なのか。実はキリスト教の暦と関係しているからです。本日は、主の変容という日曜日ですが、三日後は灰の水曜日で、ここから先キリスト教は四旬節・受難節に突入するからです。欧米の教会が承認するカーニバルはこの水曜の直前の日までなので、受難節に入ると町は静まり返ります。そうなる前に大騒ぎをしておこうというのがカーニバルなのです。
ところで、本日は主の変容の日曜ということで、聖書もマタイ17章の「イエスの姿が変わる」でした。変容とは姿が変わることなのです。私たちは本日は、聖書の話を絵にしたラファエロのことを考えたいと思います。
申すまでもなく、ラファエロはダ・ヴィンチ、ミケランジェロに並んでルネッサンス三大巨匠と呼ばれます。さて、本日問題にする絵は、彼が描いた主の変容の絵です。それは、ローマのヴァチカンにあるので、私たちもヴァチカンに行ったつもりで、絵の前に立ちたいと思います。なお、そのため用意したいのは、今も読んだマタイ17章つまり聖書の32と33頁のコピーです。これは必ず絵の鑑賞の大事な手掛かりになるはずだからです。
さて、ヴァチカンというローマ教皇庁肝いりの美術館でも、ラファエロの絵は特に大事にされているという印象を受けます。それはともかく、これから見る絵、『キリストの変容』は大変大きな作品です。なぜなら、サイズが、縦4m5㎝、横2m78㎝もあるからです。
ところで、コピーの聖書を読んだ人がすぐ気がつくことは、ラファエロの絵は『キリストの変容』だけど、絵になっているのは聖書の「イエスの姿が変わる」だけでなく、その次の「悪霊に取りつかれた子をいやす」も含まれているということです。それは、イエスが山を降りると、障害を持つ息子の親が子どもを治してほしいと頼んだ、そこでイエスはその子を治したという話です。ところで、ラファエロ以前の伝統では『キリストの変容』という主題の絵が取り扱う聖書の話は17章の1節から13節までの範囲となっていました。ところが、ラファエロはその慣例を破って、てんかんの子どもの話も『キリストの変容』の一部であると絵で主張していたのでした。
しかし、ラファエロは当時、教皇からも一目を置かれるほどの画家でした。伝統的な理解にそぐわなくても、ラファエロのような解釈もありうると大目に見られたのでしょう、問題にはなりませんでした。
さてここで、改めて彼の絵をながめてみると、絵は内容的に、上と下に分かれています。上は山の上の場面で、今読んだ1節から13節までの「イエスの姿が変わる」です。真ん中には光輝くイエスがいて天に昇らん動きを示し、その両脇にはモーセとエリヤがいて、その真下には、地面に伏せた状態の3人の弟子という構図です。ラファエロはそれを聖書に忠実に描いています。
それでは、山の下のほうはどうか。こちらは、なかなか大変のようです。全体には暗く、人物たちは闇の中をうごめく感じです。人物とは、山の上の3人を除いた弟子たちで、あとは群衆です。弟子たちは子どもの病気が治すことが出来なかったので、とても気落ちしています。
しかし、その暗さを突き抜けるように、光をまとった二人がいる。その一人は障害を背負う少年、もう一人は女性です。ところで、聖書の14節には、「ある人がイエスに近寄り、ひざまずいた」と書かれています。そこでラファエロの絵を見ると、ひざまずいている人間はこの女性だけです。つまり、彼女が「主よ、息子を憐れんでください」と叫んだことになるので、彼女が少年の母親なのです。ところが聖書に母親と言葉は出てこないので、ラファエロは自分自身の解釈で母である女性を描いたのでした。
ただそういう見方はそれまで誰もしなかったので、画期的な聖書解釈だったのでした。ところで、ラファエロは幼子イエスとその母マリアの聖母子の絵で名声を博した画家です。優しく伏目がちの聖母と前方を見つめる幼子キリストの絵は、今も世界の人を魅了しています。そのラファエロが本日の「キリストの変容」では、再び母と息子を描いたのでした。ところが、その絵は「キリストの変容」の絵なので、キリストの受難の道を始まる話でもあり、その道の先にあるのは十字架であり、そこには悲しみの聖母がいる。そのような見取り図を内に抱いていたラファエロは、中間点に位置する「キリストの変容」で、障害の息子と母に注目が集まるようにしながら、クリスマスの聖母子と受難のキリストとその母を重ね合わせていたのであります。
なおラファエロはこのあと若くして亡くなり、この絵は遺作となりました。
話は変わりますが、この絵の見どころはもう一つあります。それは、下で人々が右往左往しているというのに、山の上でペトロがとどまり続けていることです。彼はキリストの栄光を見たという感激が少しでも長く続くよう願って、日常の平凡な生活に戻ることを嫌がっています。しかし、キリストの栄光とはそういうものなのか、この絵は問いかけているのであります。