日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月19日の説教

2023-02-24 12:04:32 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年2月19日(日)
主の変容日
申命記30:15~20,Ⅰコリ13:1~9,マタイ5:21~37
「真理は足もとに」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
このたびの大地震で、キリスト教関係者が肝に銘じておきたいのは、トルコもシリアもキリスト教と古い関りがあるということです。それを手軽に確かめる方法は、お手持ちの聖書です。具体的には、聖書の最後に付いている付録の地図がそうで、その地図の8番「パウロの宣教旅行」を見ればよいからです。ところで、大昔はトルコは国としては存在しませんでした。地図が示すのは、使徒パウロが、ユダヤを出発して、シリアを通り、さらに現在のトルコを徒歩で旅して、最後に船で海峡を渡ったということです。日本の江戸時代もそうでしたが、昔の人は、自分の足で道を踏みしめながら旅をしました。パウロにとって、シリアとトルコの街道は旅行上絶対不可欠な存在でありました。

話しは変わりますが、この時期テレビは世界のカーニバルを報じています。でもそれはなぜこの時期なのか。実はキリスト教の暦と関係しているからです。本日は、主の変容という日曜日ですが、三日後は灰の水曜日で、ここから先キリスト教は四旬節・受難節に突入するからです。欧米の教会が承認するカーニバルはこの水曜の直前の日までなので、受難節に入ると町は静まり返ります。そうなる前に大騒ぎをしておこうというのがカーニバルなのです。
ところで、本日は主の変容の日曜ということで、聖書もマタイ17章の「イエスの姿が変わる」でした。変容とは姿が変わることなのです。私たちは本日は、聖書の話を絵にしたラファエロのことを考えたいと思います。
申すまでもなく、ラファエロはダ・ヴィンチ、ミケランジェロに並んでルネッサンス三大巨匠と呼ばれます。さて、本日問題にする絵は、彼が描いた主の変容の絵です。それは、ローマのヴァチカンにあるので、私たちもヴァチカンに行ったつもりで、絵の前に立ちたいと思います。なお、そのため用意したいのは、今も読んだマタイ17章つまり聖書の32と33頁のコピーです。これは必ず絵の鑑賞の大事な手掛かりになるはずだからです。
さて、ヴァチカンというローマ教皇庁肝いりの美術館でも、ラファエロの絵は特に大事にされているという印象を受けます。それはともかく、これから見る絵、『キリストの変容』は大変大きな作品です。なぜなら、サイズが、縦4m5㎝、横2m78㎝もあるからです。
ところで、コピーの聖書を読んだ人がすぐ気がつくことは、ラファエロの絵は『キリストの変容』だけど、絵になっているのは聖書の「イエスの姿が変わる」だけでなく、その次の「悪霊に取りつかれた子をいやす」も含まれているということです。それは、イエスが山を降りると、障害を持つ息子の親が子どもを治してほしいと頼んだ、そこでイエスはその子を治したという話です。ところで、ラファエロ以前の伝統では『キリストの変容』という主題の絵が取り扱う聖書の話は17章の1節から13節までの範囲となっていました。ところが、ラファエロはその慣例を破って、てんかんの子どもの話も『キリストの変容』の一部であると絵で主張していたのでした。
しかし、ラファエロは当時、教皇からも一目を置かれるほどの画家でした。伝統的な理解にそぐわなくても、ラファエロのような解釈もありうると大目に見られたのでしょう、問題にはなりませんでした。
さてここで、改めて彼の絵をながめてみると、絵は内容的に、上と下に分かれています。上は山の上の場面で、今読んだ1節から13節までの「イエスの姿が変わる」です。真ん中には光輝くイエスがいて天に昇らん動きを示し、その両脇にはモーセとエリヤがいて、その真下には、地面に伏せた状態の3人の弟子という構図です。ラファエロはそれを聖書に忠実に描いています。
それでは、山の下のほうはどうか。こちらは、なかなか大変のようです。全体には暗く、人物たちは闇の中をうごめく感じです。人物とは、山の上の3人を除いた弟子たちで、あとは群衆です。弟子たちは子どもの病気が治すことが出来なかったので、とても気落ちしています。
しかし、その暗さを突き抜けるように、光をまとった二人がいる。その一人は障害を背負う少年、もう一人は女性です。ところで、聖書の14節には、「ある人がイエスに近寄り、ひざまずいた」と書かれています。そこでラファエロの絵を見ると、ひざまずいている人間はこの女性だけです。つまり、彼女が「主よ、息子を憐れんでください」と叫んだことになるので、彼女が少年の母親なのです。ところが聖書に母親と言葉は出てこないので、ラファエロは自分自身の解釈で母である女性を描いたのでした。
ただそういう見方はそれまで誰もしなかったので、画期的な聖書解釈だったのでした。ところで、ラファエロは幼子イエスとその母マリアの聖母子の絵で名声を博した画家です。優しく伏目がちの聖母と前方を見つめる幼子キリストの絵は、今も世界の人を魅了しています。そのラファエロが本日の「キリストの変容」では、再び母と息子を描いたのでした。ところが、その絵は「キリストの変容」の絵なので、キリストの受難の道を始まる話でもあり、その道の先にあるのは十字架であり、そこには悲しみの聖母がいる。そのような見取り図を内に抱いていたラファエロは、中間点に位置する「キリストの変容」で、障害の息子と母に注目が集まるようにしながら、クリスマスの聖母子と受難のキリストとその母を重ね合わせていたのであります。
なおラファエロはこのあと若くして亡くなり、この絵は遺作となりました。
話は変わりますが、この絵の見どころはもう一つあります。それは、下で人々が右往左往しているというのに、山の上でペトロがとどまり続けていることです。彼はキリストの栄光を見たという感激が少しでも長く続くよう願って、日常の平凡な生活に戻ることを嫌がっています。しかし、キリストの栄光とはそういうものなのか、この絵は問いかけているのであります。
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2月12日の説教

2023-02-16 11:22:10 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年2月12日(日)
顕現後第6主日
申命記30:15~20,Ⅰコリ13:1~9,マタイ5:21~37
「禁じられた怒り」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 トルコとシリアの国境地帯で発生した大地震は、今もなお発表される犠牲者数が増加の一途をたどっています。日本福音ルーテル教会も 緊急の義援金を送ったところですが、全容はまだつかみ切れてないのが実状です。

 ところで、トルコやシリア、またパレスチナその他を含む一帯は、地震の多発地帯です。太古の時代に、シリア・アフリカ地溝という地盤が陥没したので、そのギャップが生み出す摩擦が地震なのです。そこには聖書の地も含まれますから、聖書にも地震という言葉がけっこう出てきます。地震は、預言者やイエスや弟子たちも体験していました。アモス書1章1節には「あの地震の2年前に」と書かれているくらいです。また、使徒言行録16章では、パウロがトルコの対岸マケドニアで囚人で牢屋にいた時、真夜中に大地震が起きたと書かれていますが、これも間違いなく史実です。


 ところで、本日の福音はマタイによる福音書5章で、「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」というイエスの教えがありました。この中から私たちは、「腹を立ててはならない」を取り上げ考えたいと思います。
ところで、イエスは冒頭で、「昔の人は、殺すな。殺した者は裁きを受けると命じられる」と言い、またもう一方で「兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける」とも言いました。つまり、腹を立てる、怒ると殺人は密に関係しているという考えがあったのでした。
 ところで、「腹を立てる」には二とおりの意味があります。一つは、ぱっと燃えるがたちまち消えるタイプの怒り、もう一つはくすぶり出したらいつまでも燃え続けるタイプ、根に持つタイプの怒りでした。そしてイエスが考るのはあとのほうの怒りで、それは火の池地獄に投げ込まれるのでした。
 ところで、怒りといえば「カインとアベル」が思い出されます。人類史上初の殺人と言われる創世記4章の話ですが、これも発端は怒りでした。さて、エデンの園から追い出されたアダムとエバは、カインという男の子とその弟のアベルをもうけます。やがて、カインは土を耕す者つまり農業専従となり、アベルは羊を飼うつまり牧畜専従となりました。ある日二人は供え物を神にささげます。カインは畑の作物を供え物とし、アベルはいちばんよく肥えた羊を差し出しました。すると神は、二つを比べて見て、弟のアベルの供え物が気に入り、兄のにはそっぽを向けたのでした。そこでカインは頭にきて、大いに憤り顔を伏せたと聖書に書かれています。
 でも、なぜ神はカインの供え物を喜ばなかったのか、聖書にはその理由が書かれていないのです。だから色々な人が、その理由を説明してきたのですが、今だに納得のゆく答えが見つかっていません。しかしながら、そういうことは少しも聖書の関心事ではないのであります。
どういうことかというと、誰であろうと人間は、自分が不利になると、隣にいる人間の幸せに目が行って、不幸意識に捕らわれてしまうからです。この物語では、カインの隣には兄弟アベルがいました。するといきなり怒りがあたまをもたげたのでした。そこで神は尋ねました。「なぜ憤るのか。なぜ顔を伏せるのか。正しい事をしているのなら顔を上げよ。正しい事をしていないのなら、罪が門口でお前を待ち伏せ、お前を慕い求める。お前はそれを治めねばならない」。
 神のこの言葉はしかし、裁きの言葉にはなっていません。つまり、怒りそのものを罪とは見なしていないからです。それよりも、憤りや怒りは、猛獣使いのように飼いならし、統治することが可能だと神は考えていたからです。
つまりこの時は神は、中立の立場をとっていたのでした。たしかに、カインは怒りのために足もとがぐらついてはいたが、それでも立ち直れる余地を十分残していると神は見ていたのでした。さて、カインはどうしただろうか。
彼は弟に「さあ、野原へ行こう」と言ったのでした。そののち神はカインに尋ねました。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。カインは答えました。「知りません。私は弟の番人でしょうか」。
さて、カインの殺人は怒りのためだったのだろうか。それは一時的な性質のものではなく、競争心と嫉妬心という深く根に持ち続ける性質のもので、たとえ怒りが沈静化しても、決して終わらないものでした。本日のイエスが禁じたのもその怒りだったのでした。
ところで、物語の最後でカインは追放処分になります。それは神の怒りというべきものなのですが、しかしそれはまた、神の悲しみの表現だったとも受け取れるのです。カインは神の忠告に一切耳を貸そうとはせず、自分で坂道を転がり落ちて行ったからです。聖書は、神が追放したと書きますが、追放の結果生じる距離は、むしろ彼が神から離れていったからと見なすべきなのです。言い換えると、神はカインを突き放したのではないのでした。
物語は最後にこう書かれています。「神はカインにしるしをつけた」。さてどんなしるしだったのか、議論を呼びましたが、いまだに不明です。それでも、神が突き放さなかったことが明白になるようなしるしだったはずです。
さて、聖書は私たちにも言います。そのしるしは、あなたにもつけられている…と。このことは、聖書全体のメッセージでもあります。
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2月5日の説教

2023-02-10 13:58:08 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年2月5日(日)
顕現後第5主日
イザヤ58:1~12,Ⅰコリ2:1~8,マタイ5:13~20
「塩になれ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 本日の福音はマタイによる福音書5章の13節から16節まで、「地の塩、世の光」というイエスの教えでした。なお、今の個所はその前の10節から12節までも読んでおけば、より理解がしやすくなることを予め申し上げておきます。しかし最初は今読んだ「地の塩、世の光」と取り組むことにいたします。
 ところで、「塩」とか「光」というのは非常にわかりやすいと思います。さらにイエスは、光をともし火とも言い換えたのでなおさらです。ともし火の意味も分からない小学生にはローソクと同じだよと説明すればよいと思います。
 なお、「あなた方は光である」という言葉は慎重に読まれる必要があるかも知れません。なぜなら、イエスにとっては誰もが光だからで、闇の子は一人もいないのです。それでは私たちはもう何の問題もないのかというと、イエスは「ともし火を升の下に置く」という言い方をしている。升も小学生には、洗面器とかバケツで説明するといいかも知れません。せっかく火をつけたローソクをそういう物で覆ってしまう。そういう人間は一人もいるはずがないとイエスは言ったのですが、それを聞いた私たちは「もしかしているのかも」と思ってしまいます。そういう言葉でした。
 さて、似たことは塩の教えにもありました。イエスは「あなた方は地の塩だ」と言ったので、塩ではない人間は一人もいないことになりますが、そう言いながら投げ捨てられる塩のことも言っていたからです。ところで、イエスの話によればそれは塩味が付けられなくなった塩なのでした。塩の役割は誰もが知るように、料理の味付けです。しかし、味付けが不可能になったので外に投げ捨てられる塩など日本人は知りません。
 実はイエスが言っていたのは岩塩で、海の水を濃縮して作る日本式の塩ではなかったのでした。岩石として山から切り出され、それを砕いて取り出される塩、岩塩は、湿気に弱くて化学変化を起こしやすく、塩化ナトリウムをダメにします。そうなれば味付けの役に立たず、主婦によって「外に投げ捨てられ、通りがかりの人に踏みつけられる」のでした。ただ、中で化学変化を起こしていても、外見ではそれは分からない。調味料として使った結果、はじめて分かる役立たず。そういう場合の塩もあるとイエスは言うのでした。
 ところで、彼の教えで目についたのは「あなた方」という言葉でした。「あなた方は地の塩である」、「あなた方は世の光である」、「あなた方の光を人の前で輝かしなさい。そうすればあなたがたの立派な行いを見た人たちが、あなたがたの天の父をあがめるようになる」のようにひんぱんだったからです。
 さらに「あなた方」はイエスから、地の塩、世の光であると高い評価を受けていました。ともし火をバケツで覆うとか、塩気を失い料理人をがっかりさせるとかの話もありましたが、そういうことは、あなた方はしないのだとイエスは言ったのでした。
 ところで、この「あなた方」は、直前の11節以下の教えでも出ています。すなわち、「あなた方はののしられ、身に覚えがないことで悪口を言われている」がそうです。しかし、「ののしられ、身に覚えのない悪口を言われる」あなた方は、地の塩である、世の光であるとイエスは言ったのでした。
話しは変わりますが、『氷点』『塩狩峠』を書いた作家の三浦綾子は、1922年、すなわち大正11年に、北海道の旭川で生まれました。彼女は小学校1年、2年だった頃の旭川の思い出をある本に綴っていました。
 それは佐野文子という女性の思い出話でした。文子はその時はもう大人で、プロテスタントの旭川六条教会の教会員で、売春婦解放運動のために身をもって戦っていました。実は綾子も同じ教会に通っており、佐野文子の家も知っていました。文子は志を同じくする友人と一緒に遊郭に出かけき、チラシを配る活動をしていました。チラシには「廃業したい<売春婦をやめたい>人は次の住所に逃げてらっしゃい」と印刷されていました。実は、後日できた売春禁止法より以前でも、遊郭での仕事を辞めることは公に認められていました。たとえ借金があっても、あとで返せばよい。しかし、そういうことを知らない女たちが多かったので文子たちはチラシを配ったのでした。そして、彼女はそのチラシに自宅の住所を堂々と印刷していたのでした。
 ところで彼女は危険な目に何度も遭っていました。ある日など、遊郭の用心棒たちに橋の下に連れ込まれ、チラシをやめなければ殺すと脅迫されました。しかし文子は「殺されてもチラシはまく。あなたたちこそ男のくせに恥ずかしくはないか。牛や馬のように人間の女を売った買ったとは何事か。命よりも大事なものがどこにあるか」と啖呵を切り男たちをたじろがせたのでした。
 ところで、子どもの綾子がいつも見ていたのは文子の自宅でした。そこはいつも鍵をかけている様子がなく、戸は開け放たれているという感じだった。子ども心に何か清らかなものを覚えたと書いていました。
 なお、彼女はこういうことも書いていました。この時代日本では、クリスチャンの女性たちが北海道から九州にわたって広範囲に売春禁止運動を繰り広げていた。綾子は考えるのでした。いったい何が彼女らを社会の不正と戦わせていたのだろうか。もしかすると、江戸時代の武士道と明治のキリスト教が彼女たちにおいて結合し、燃え立たせたのではないだろうか。
 ところで、本日の「地の塩・世の光」の教えは、きわめて家庭内的な話題というか、男はあまり関係がなかった塩やともし火が中心でした。はたして、この話を聞いていたのが全員男だったら、イエスはこんな話をしただろうか…。
 それはともかく、「あなた方」の呼びかけは、今の私たちにもなされています。つまり、私たちも塩であり光である。そのようにイエスがいつも評価してくれることを私たちは、いやいやをせずに受け止めたいと思うのであります。
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