二日市教会主日礼拝説教 2023年3月26日(日)
四旬節5主日
エゼキエル37:1~14、ロマ8:6~11,ヨハネ11:1~45【朗読17~27,38~40】
「マルタという女性」
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先週、火曜の春分の日、松崎保育園で卒園式がありました。歌がいくつも歌われ音楽ゆたかな式でしたが、「おもいでのアルバム」という歌も歌われました。この歌のことは、のちほど取り上げたいと思います。
さて、本日の福音はヨハネ福音書でしたが、1節から44節までの大変長い話でした。かいつまんで言うとこうでした。べタニアという村に、マルタ、マリアの姉妹と兄弟ラザロがいた。ある日イエスは、ラザロが重い病気だという知らせを聞いた。しかし、彼はラザロの死には間に合わなかった。村の入り口でイエスを迎えたマルタは言った。「ここにいてくださったら兄弟は死ななかったでしょうに」。するとイエスは「ラザロは復活する」と言った。イエスはこのあと姉妹と共に墓に行った。そしてイエスが「ラザロよ、出てきなさい」と言うと、生き返ったラザロは布にくるまれたまま出てきたのだった。
ところで、この話の中でのマルタとイエスの会話は、かなり高度な内容になっていました。イエスが「私は復活であり、命である。」と言うと、マルタは「あなたは来たるべき神の子、キリストです」の言葉で応答しました。これは立派な信仰告白で、彼女以外にはペトロしかしていません。従って、彼女はぺトロと肩を並べる弟子なのでした。
なお、マルタはズケズケ物が言える女性でした。墓の前での「もう臭います」は醒めた感覚でないと言えません。ただイエスはここでは彼女を叱りました。「それでは、今あなたが口にした復活信仰はどうなるのか!」。こういうことはペトロにもありました。イエスが自分の十字架を示唆した時、「それはとんでもないこと」といさめたペトロに「サタン、引き下がれ」と𠮟りつけたからです。信仰は失敗しながら成長するしかないという話であります。
なおマルタはあとルカ10章38節以下にも出てきます。マリアが座してイエスの話を聞いていると、食事作りで忙しいマルタが来て、「先生、妹は私にだけ仕事をさせている。手伝うよう言ってください」と言うがイエスは「あなたは多くに気を遣い、心を煩わせている。しかし必要なことは一つ。彼女が選んだそれを取り上げてはならない」と言ったという話です。しかし聖書には、そう言われたので彼女は食事作りをやめたとは書かれていません。
ところで東京のある教会では、婦人会という名称がマルタの会に改められました。私たちはマルタでいいじゃないの。マルタで頑張ろうというわけです。塩川久子という戦前生まれの神学者は言います。マリアは良いほうを選んだだって? 二人はまるで比較可能なように書かれている。しかし、マルタもその時は真剣そのもの。全力投球の姉が妹と較べて無意味なんてとんでもない。教会でも、会堂掃除、食事作りは女性の仕事だった。私たちはマルタ的だった。
ところで、ここからは、「マルタが日本にやって来た」というお話をしたいと思います。それは、明治20年(1887年)の12月のことでした。そのマルタは神戸の港に船から降りたちました。その人はアメリカ人で、名前をハウと言いました。彼女の来日の目的は、日本で多くのマルタを育成することでした。彼女は、日本に来る前は、女子専門学校で音楽の勉強をし、さらにフレーベル保母伝習学校で幼児教育の勉強をしました。卒業後、日本の教会が幼児教育の指導者を求めていることを聞き神戸にやってきたのでした。その当時の日本の幼児教育はまだ保育のプロが皆無に等しく、また幼児を一人格として尊重するという考えも日本人にはありませんでした。
日本に着くとハウはすぐ仕事を始めました。彼女の使命はわが国最初の保育者養成学校を作ることでした。学校の名は頌栄。そのような学校は神戸以外にはなかったので、幼子に奉仕するマルタになりたいと、全国から若い女性が集まってきました。その一人に、東北仙台からの増子としもいました。としが入学したときの学生たちの出身校は、金沢の北陸学院、東京の女子聖学院、神戸女学院、姫路日の本、松山女学校、名古屋の金城、下関の梅光だったりとミッションのオンパレでした。としはこの時期に洗礼を受けました。なお頌栄は今もマルタつまり保育者の養成をしています。
さてとしは、卒業後東京墨田の区立江東橋保育園で働きのち園長になりました。園長室には彼女とお話がしたい園児たちでいつもいっぱいでした。さて、増子としは、ハウ先生が重視していた音楽を自らも重視し、その分野の本まで書きました。その本に収められていた「おもいでのアルバム」という歌を放送局が見つけ、芹洋子という歌手に歌わせ電波に乗せると、あっというまに全国に広まりました。以後この歌は、幼稚園、保育園の卒園式の定番となり今日に至っているのです。先日の松崎保育園でもこれが歌われたのでした。
ところで、音楽の次は絵のお話です。西欧の画家は好んでマルタとマリアの話を絵にしたのですが、絵は必ず、マルタが立ち、イエスは腰をかけ、マリアは地面に座っている。マルタは常にイエスより高い位置に描かれたのでした。しかし、19世紀に入るとモーリス・ドニという画家の「マルタとマリア」の絵はこの3人の配置の構図を打ち破っていました。というのも、二人の姉妹は一緒に並んで、テーブルの反対側のイエスと向かい合い、マルタは両手でパンが乗ったお盆を捧げ持ち、イエスの前にはぶどう酒が入ったグラスが置かれていたからです。まるで、マリアは初めての聖餐に与ろうとしており、マルタはその聖餐式のお手伝いをしているがごとき絵なのでした。
ところで、聖書学者の福島裕子は、マルタはとっくにイエスの弟子だったが、妹はこれから弟子になろうとする途中だったと見ています。だから、イエスが、「マリアの邪魔をしてはならない」と言ったのは、叱責でもなく、姉妹の優劣を云々するような言葉では全くないのでした。福嶋教授はこうも書いていました。「世の中の人間には、マルタとマリアの二つのタイプしかいないのだから、どちらが偉くてどちらが劣るという議論はあまり意味がない」。
なお、神戸の頌栄はあくまで一つの例ではありましたが、婦人宣教師ハウという米国のマルタから学んだ日本のマルタたちは、さらに多くのマルタを育ててきたという事実は覚えておきたいと思うのであります。
四旬節5主日
エゼキエル37:1~14、ロマ8:6~11,ヨハネ11:1~45【朗読17~27,38~40】
「マルタという女性」
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先週、火曜の春分の日、松崎保育園で卒園式がありました。歌がいくつも歌われ音楽ゆたかな式でしたが、「おもいでのアルバム」という歌も歌われました。この歌のことは、のちほど取り上げたいと思います。
さて、本日の福音はヨハネ福音書でしたが、1節から44節までの大変長い話でした。かいつまんで言うとこうでした。べタニアという村に、マルタ、マリアの姉妹と兄弟ラザロがいた。ある日イエスは、ラザロが重い病気だという知らせを聞いた。しかし、彼はラザロの死には間に合わなかった。村の入り口でイエスを迎えたマルタは言った。「ここにいてくださったら兄弟は死ななかったでしょうに」。するとイエスは「ラザロは復活する」と言った。イエスはこのあと姉妹と共に墓に行った。そしてイエスが「ラザロよ、出てきなさい」と言うと、生き返ったラザロは布にくるまれたまま出てきたのだった。
ところで、この話の中でのマルタとイエスの会話は、かなり高度な内容になっていました。イエスが「私は復活であり、命である。」と言うと、マルタは「あなたは来たるべき神の子、キリストです」の言葉で応答しました。これは立派な信仰告白で、彼女以外にはペトロしかしていません。従って、彼女はぺトロと肩を並べる弟子なのでした。
なお、マルタはズケズケ物が言える女性でした。墓の前での「もう臭います」は醒めた感覚でないと言えません。ただイエスはここでは彼女を叱りました。「それでは、今あなたが口にした復活信仰はどうなるのか!」。こういうことはペトロにもありました。イエスが自分の十字架を示唆した時、「それはとんでもないこと」といさめたペトロに「サタン、引き下がれ」と𠮟りつけたからです。信仰は失敗しながら成長するしかないという話であります。
なおマルタはあとルカ10章38節以下にも出てきます。マリアが座してイエスの話を聞いていると、食事作りで忙しいマルタが来て、「先生、妹は私にだけ仕事をさせている。手伝うよう言ってください」と言うがイエスは「あなたは多くに気を遣い、心を煩わせている。しかし必要なことは一つ。彼女が選んだそれを取り上げてはならない」と言ったという話です。しかし聖書には、そう言われたので彼女は食事作りをやめたとは書かれていません。
ところで東京のある教会では、婦人会という名称がマルタの会に改められました。私たちはマルタでいいじゃないの。マルタで頑張ろうというわけです。塩川久子という戦前生まれの神学者は言います。マリアは良いほうを選んだだって? 二人はまるで比較可能なように書かれている。しかし、マルタもその時は真剣そのもの。全力投球の姉が妹と較べて無意味なんてとんでもない。教会でも、会堂掃除、食事作りは女性の仕事だった。私たちはマルタ的だった。
ところで、ここからは、「マルタが日本にやって来た」というお話をしたいと思います。それは、明治20年(1887年)の12月のことでした。そのマルタは神戸の港に船から降りたちました。その人はアメリカ人で、名前をハウと言いました。彼女の来日の目的は、日本で多くのマルタを育成することでした。彼女は、日本に来る前は、女子専門学校で音楽の勉強をし、さらにフレーベル保母伝習学校で幼児教育の勉強をしました。卒業後、日本の教会が幼児教育の指導者を求めていることを聞き神戸にやってきたのでした。その当時の日本の幼児教育はまだ保育のプロが皆無に等しく、また幼児を一人格として尊重するという考えも日本人にはありませんでした。
日本に着くとハウはすぐ仕事を始めました。彼女の使命はわが国最初の保育者養成学校を作ることでした。学校の名は頌栄。そのような学校は神戸以外にはなかったので、幼子に奉仕するマルタになりたいと、全国から若い女性が集まってきました。その一人に、東北仙台からの増子としもいました。としが入学したときの学生たちの出身校は、金沢の北陸学院、東京の女子聖学院、神戸女学院、姫路日の本、松山女学校、名古屋の金城、下関の梅光だったりとミッションのオンパレでした。としはこの時期に洗礼を受けました。なお頌栄は今もマルタつまり保育者の養成をしています。
さてとしは、卒業後東京墨田の区立江東橋保育園で働きのち園長になりました。園長室には彼女とお話がしたい園児たちでいつもいっぱいでした。さて、増子としは、ハウ先生が重視していた音楽を自らも重視し、その分野の本まで書きました。その本に収められていた「おもいでのアルバム」という歌を放送局が見つけ、芹洋子という歌手に歌わせ電波に乗せると、あっというまに全国に広まりました。以後この歌は、幼稚園、保育園の卒園式の定番となり今日に至っているのです。先日の松崎保育園でもこれが歌われたのでした。
ところで、音楽の次は絵のお話です。西欧の画家は好んでマルタとマリアの話を絵にしたのですが、絵は必ず、マルタが立ち、イエスは腰をかけ、マリアは地面に座っている。マルタは常にイエスより高い位置に描かれたのでした。しかし、19世紀に入るとモーリス・ドニという画家の「マルタとマリア」の絵はこの3人の配置の構図を打ち破っていました。というのも、二人の姉妹は一緒に並んで、テーブルの反対側のイエスと向かい合い、マルタは両手でパンが乗ったお盆を捧げ持ち、イエスの前にはぶどう酒が入ったグラスが置かれていたからです。まるで、マリアは初めての聖餐に与ろうとしており、マルタはその聖餐式のお手伝いをしているがごとき絵なのでした。
ところで、聖書学者の福島裕子は、マルタはとっくにイエスの弟子だったが、妹はこれから弟子になろうとする途中だったと見ています。だから、イエスが、「マリアの邪魔をしてはならない」と言ったのは、叱責でもなく、姉妹の優劣を云々するような言葉では全くないのでした。福嶋教授はこうも書いていました。「世の中の人間には、マルタとマリアの二つのタイプしかいないのだから、どちらが偉くてどちらが劣るという議論はあまり意味がない」。
なお、神戸の頌栄はあくまで一つの例ではありましたが、婦人宣教師ハウという米国のマルタから学んだ日本のマルタたちは、さらに多くのマルタを育ててきたという事実は覚えておきたいと思うのであります。