二日市教会説教
2023年8月27日
聖霊降臨後第13主日
説教題「信じ、語る群れ」
(※説教者は、説教作成に際し日本聖書協会1954年改訳版を使用しました。)
本日の福音書の日課はペテロの告白として知られているところです。
初めに少し本日の日課の背景を考えてみようと思います。
本日の出来事が起こった場所
イエス様が弟子たちに
人々は自分のことを何と呼んでいるか
あなた方は私を誰というのか
とお尋ねなった、というその出来事が起きた場所。
それは
ピリポ・カイザリアというところでした。
後ろに地図が載っている聖書をお持ちの方は
開いてご覧になるとお判りですが
ピリポ・カイザリアは
キリスト時代のパレスチナ、もしくは新約時代のパレスチナという地図の
真ん中より少し上辺りにあるヘルモン山の直ぐ南側にあります。
見つかりましたか?
そしてその先を更に南に下るとガリラヤ湖があります。
ヘルモン山からの雪解け水が滝さながらに湧き出している所が
ピリポ・カイザリアにあって
その流れが川となってガリラヤ湖に注いでいます。
そして、このガリラヤ湖からヨルダン川が始まります。
つまりピリポ・カイザリアという場所は
ヨルダン川の源流の1つで、
イスラエルに在るヨルダン川の源流は
このピリポ・カイザリアにあるものだけなのだそうです。
私は聖地巡礼の経験がありません。この辺りは聖書大辞典からの受け売りです。
ヨルダン川はパレスチナ地方最大の川です。
旧約聖書に登場する沢山の物語にヨルダン川は登場します。
イスラエルの人々の歴史の様々な場面に登場するヨルダン川は
イスラエルの人々にとって、正に母なる川と言える物でありました。
イスラエルの人々は長い歴史の間で
外国との戦いに敗れ
何度か異国の地で囚われの生活を送ることがありました。
捕囚と言いますが
その捕囚生活の間、人々は
ヨルダン川の流れる故郷のカナン・パレスチナでの生活を夢見て過ごします。
いつか、ヨルダン川の流れるカナンに戻って
ヨルダン川のほとりで暮らしたい
ヨルダン川のほとりで神様にたち帰り
今後こそ新しいイスラエルとしてやり直したい
その思いを糧にしてイスラエルの人々は捕囚での生活を耐え抜きました。
その母なる川、ヨルダン川の水源がピリポ・カイザリアでありました。
また、このピリポ・カイザリアという名前からも知られますが
この地はイスラエルとローマの関係に深く関わっている場所でもありました。
地中海全域を支配下に納めようとするローマにとって
小アジアとエジプトとの間にあり、交通の要所となるパレスチナ一帯
当時ユダヤ王国のあったユダヤ地方を領土とすることは
エジプトとの関係上、軍事的・政治的に重要な事でしたので
紀元前1世紀あたりからローマ帝国は盛んにユダヤ王国に干渉して来ました。
そういうユダヤ王国にあって、自分の立場を有利なものにしたいと考えるヘロデ家は
歴代のローマ軍、ローマの皇帝に取り入り、巧妙に立ち回って
力を付けて行き、ついには王にまで上り詰めることになります。
ヘロデ大王は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に
この地域一帯を領地として与えらます。
ヘロデ大王は
皇帝アウグストゥスの像を安置する神殿をその地に建てることで
アウグストに感謝の意を示すと共に、ローマへの恭順の姿勢を示します。
ヘロデ大王は後にこの一帯を息子のピリポに与えるのですが
ピリポはその際に街の名前に自分の名前・ピリポと
ローマ皇帝の称号カイザリアを合わせて街の名前
ピリポ・カイザリアとしました。
この街はローマを後ろ盾としてイスラエル社会を治めようとしていた、
イスラエルの支配者たちの姿勢・ありようを象徴し、
一方でユダヤ地方をうまく利用することで
地中海沿岸を手に入れたいとするローマの思惑
つまり、ローマとイスラエルの
持ちつ持たれつの関係を象徴する場所でありました。
ピリポ・カイザリアというところは
従って、イスラエルの人々にとっては自らの信仰に連なる
母なる川ヨルダンの水源であり、
一方で
誰もが覇権者たらんとしてうごめく世界情勢の中に在って
少しでも自分たちの立場を良くしようと、風見鶏の様に右顧左眄するイスラエルの現状を体現する場所でもありました。
アブラハム・イサク・ヤコブたちによって
ヨルダン川の流れるカナンの地・パレスチナに導かれて生きてきた自分たち
そして今、当時の世界と言える、地中海全体の覇権を巡る世界情勢の中で
その時々の風向きに身を任せて生き延びようとしたたかに振る舞う自分たち
という
民族の来し方、そして民族の現在の象徴
それがビリポ・カイザリアでありました。
イエス様と弟子たちの会話は
正にそういう場所で行われているということです。
そういう場所に於いて弟子たちは、私を誰とするのか、とイエス様から問いかけられているのです。
私はここしばらく二日市教会の礼拝に出ておりませんでした。
先日、しばらくぶりに出席しましたら
教会員の愛唱讃美歌を礼拝の中で一緒に歌う
ということがなされておりました。
讃美歌というものは
そもそも信仰告白の一つの像です。
作者の信仰が歌という形で顕れているものです。
その沢山ある讃美歌の中で特定の讃美歌に特に
強い思いを感じる、心惹かれるということは
私たちの個人的な人生の経験や、体験した出来事が
それら愛唱讃美歌の示す信仰告白に親しみや励まし
そして喜びや慰めを感じている
ということでありましょう。
礼拝で他の教会員の愛唱讃美歌を一緒に唱うことは
その教会員の信仰の一端に触れている、ということです。
2000年に渡り教会が伝え続けた信仰に共に繋がっている者同士
という思いを分かち合うことが出来ます。
最近はどうなのでしょうか。
私が高校生の頃、55年ほど昔の話になりますから、
塔原にあった、前の教会での話しになりますが、
礼拝後、裏の集会室で証の時間がありました。
高校生になってそういう会があることを知り、参加したのだと思います。
その会に参加した者は自身の日々の生活の中で
神様を感じた出来事を思い思いに語りました。
一人が証する度に共に祈りあいました。
神様への思いを言葉に出来ず
ただただ泪を流すご婦人もおられました。
そのご婦人が落ちつかれるのを待って共に祈り合いました。
私たちが神様を信じる者として日々を生きる時
私たちは、私たちが毎日を生きているその中に、私たちに届き働く神様の業を観ています。
感じ取っています。
インマヌエル、私は共に貴方と共に在ると約束なさる神に
はい、私はあなたが常に私と共にいて下さることを信じます
アーメン、と答え
そのことを私の真実として生きる。
それが私たちであるなら
私たちは日々神様を感じて生きている者であるからです。
神様に守られ導かれている私
私の日々
私たちがそのことを一番強く感じるのはどこでしょうか?
自分が何者か
自分が何によって日々の生活を営んでいるのか
そのことを一番強く感じる。
気付かされる。
知らされる。
それはこの教会ではないでしょうか?
教会が主の日に守り行う礼拝ではないでしょうか。
ピリポ・カイザリア
この場所の持つ意味を考えてきましたが
このピリポ・カイザリアを私達の時代に置き換えれば
教会と言えると思います。
主の日の礼拝において、
神様を信じる信仰の歴史と
その信仰の歴史の流れに連なって
今日、私たちがこうしてここで生きていること
今日、こんにち、私たちがここに置かれ、在ることが語られ
知らされます。
そして、しかし、その教会が置かれているその所は
教会が礼拝を守り行うその場所は
同時に
様々な人の思惑、社会のシステム、国同士の利害が複雑に交錯している
社会であります。
そういう中で生きている人々は、
自分がより豊かで強いものとなるために
より安泰で少しでも人より高い位置に着くために
何をしたらよいか、何を持てばよいか
自分がそうなるためには何でもする
何をしても許される
自分以外の人間はそのための道具であり、手段として使い捨てられる。
自分が一番、自分が大事、そう思っています。
毎日報道されるニュースには
その思いに囚われた人々のあさましく醜い姿があります。
その思いに囚われた人々の犠牲となって
傷つけられ、損なわれた人々の痛ましい姿があります。
教会とは建物ではありません。
本日のところでイエス様が仰っている教会
皆さまもお耳になさったことがおありと思いますが
エクレシアという言葉でありました。
エクレシア。
それは人々の集まりのことです。
それも単なる人々の群れや集まりではなく
意味や目的を持って呼び集められた者
集まってきた者たち、人々の集まり・集会
それがエクレシア、教会です。
礼拝の終わりのところで
私たちはヌンク・ディミティスを唱います。
今、私は主の救いを見ました。
だから私は安らかです。
心安らかにここから出て行くことが出来ます。
ここを出て、様々な思い、利権がうごめく中に在っても
イスラエルとして、主の民として
心確かに、強く生きることが出来ます。
そこに主の日ごとに守る私達の礼拝の意味があります。
礼拝に於いて私たちが聴いて、見て、唱え、祈り、唱うもの
それは私たちは何を信じる者かということです。
あなたは私を誰と言うかという、というエス様からの問いかけの下に
共に立つ信仰の仲間を隣に感じてその場に在る
そこで私たちは
私達が何を信じている者か
信じている群れなのか
解らされるのです。
私を、私たちを愛し、強め、励まし
罪や汚れの中にもがいている私、私達を
救い出して下さる方
その方の手が常に変わらず
私、私たちに届き、支えていて下さる事を
絶えず新しく受けとめるのです。
救い主と共に在る
救い主が共にいて下さる
そのことを信じればこそ私たちは
それぞれが置かれ生きる場に在って
心確かに、心安らかに
生きて行くことが出来るのです。
私たちは夫々の場所に置かれ生きています。
その私たちはこの場で、礼拝の中で、エクレシアの中で
自分が何者で在るか絶えず知らされ
そして思いを新にして自分に与えられている夫々の場所へと出て行きます。
夫々の歩みに神様の導きの下、豊かに祝されたものとなりますように。
祈り
どうか望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安を
あなた方に満たし、精霊の力によって、あなた方を
望みに溢れさせて下さるように。(花島啓行牧師)
次週 9月3日 聖霊降臨第14主日
説教題:主の祈り⑧罪のゆるし
説教者:白髭義牧師
2023年8月27日
聖霊降臨後第13主日
説教題「信じ、語る群れ」
(※説教者は、説教作成に際し日本聖書協会1954年改訳版を使用しました。)
本日の福音書の日課はペテロの告白として知られているところです。
初めに少し本日の日課の背景を考えてみようと思います。
本日の出来事が起こった場所
イエス様が弟子たちに
人々は自分のことを何と呼んでいるか
あなた方は私を誰というのか
とお尋ねなった、というその出来事が起きた場所。
それは
ピリポ・カイザリアというところでした。
後ろに地図が載っている聖書をお持ちの方は
開いてご覧になるとお判りですが
ピリポ・カイザリアは
キリスト時代のパレスチナ、もしくは新約時代のパレスチナという地図の
真ん中より少し上辺りにあるヘルモン山の直ぐ南側にあります。
見つかりましたか?
そしてその先を更に南に下るとガリラヤ湖があります。
ヘルモン山からの雪解け水が滝さながらに湧き出している所が
ピリポ・カイザリアにあって
その流れが川となってガリラヤ湖に注いでいます。
そして、このガリラヤ湖からヨルダン川が始まります。
つまりピリポ・カイザリアという場所は
ヨルダン川の源流の1つで、
イスラエルに在るヨルダン川の源流は
このピリポ・カイザリアにあるものだけなのだそうです。
私は聖地巡礼の経験がありません。この辺りは聖書大辞典からの受け売りです。
ヨルダン川はパレスチナ地方最大の川です。
旧約聖書に登場する沢山の物語にヨルダン川は登場します。
イスラエルの人々の歴史の様々な場面に登場するヨルダン川は
イスラエルの人々にとって、正に母なる川と言える物でありました。
イスラエルの人々は長い歴史の間で
外国との戦いに敗れ
何度か異国の地で囚われの生活を送ることがありました。
捕囚と言いますが
その捕囚生活の間、人々は
ヨルダン川の流れる故郷のカナン・パレスチナでの生活を夢見て過ごします。
いつか、ヨルダン川の流れるカナンに戻って
ヨルダン川のほとりで暮らしたい
ヨルダン川のほとりで神様にたち帰り
今後こそ新しいイスラエルとしてやり直したい
その思いを糧にしてイスラエルの人々は捕囚での生活を耐え抜きました。
その母なる川、ヨルダン川の水源がピリポ・カイザリアでありました。
また、このピリポ・カイザリアという名前からも知られますが
この地はイスラエルとローマの関係に深く関わっている場所でもありました。
地中海全域を支配下に納めようとするローマにとって
小アジアとエジプトとの間にあり、交通の要所となるパレスチナ一帯
当時ユダヤ王国のあったユダヤ地方を領土とすることは
エジプトとの関係上、軍事的・政治的に重要な事でしたので
紀元前1世紀あたりからローマ帝国は盛んにユダヤ王国に干渉して来ました。
そういうユダヤ王国にあって、自分の立場を有利なものにしたいと考えるヘロデ家は
歴代のローマ軍、ローマの皇帝に取り入り、巧妙に立ち回って
力を付けて行き、ついには王にまで上り詰めることになります。
ヘロデ大王は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に
この地域一帯を領地として与えらます。
ヘロデ大王は
皇帝アウグストゥスの像を安置する神殿をその地に建てることで
アウグストに感謝の意を示すと共に、ローマへの恭順の姿勢を示します。
ヘロデ大王は後にこの一帯を息子のピリポに与えるのですが
ピリポはその際に街の名前に自分の名前・ピリポと
ローマ皇帝の称号カイザリアを合わせて街の名前
ピリポ・カイザリアとしました。
この街はローマを後ろ盾としてイスラエル社会を治めようとしていた、
イスラエルの支配者たちの姿勢・ありようを象徴し、
一方でユダヤ地方をうまく利用することで
地中海沿岸を手に入れたいとするローマの思惑
つまり、ローマとイスラエルの
持ちつ持たれつの関係を象徴する場所でありました。
ピリポ・カイザリアというところは
従って、イスラエルの人々にとっては自らの信仰に連なる
母なる川ヨルダンの水源であり、
一方で
誰もが覇権者たらんとしてうごめく世界情勢の中に在って
少しでも自分たちの立場を良くしようと、風見鶏の様に右顧左眄するイスラエルの現状を体現する場所でもありました。
アブラハム・イサク・ヤコブたちによって
ヨルダン川の流れるカナンの地・パレスチナに導かれて生きてきた自分たち
そして今、当時の世界と言える、地中海全体の覇権を巡る世界情勢の中で
その時々の風向きに身を任せて生き延びようとしたたかに振る舞う自分たち
という
民族の来し方、そして民族の現在の象徴
それがビリポ・カイザリアでありました。
イエス様と弟子たちの会話は
正にそういう場所で行われているということです。
そういう場所に於いて弟子たちは、私を誰とするのか、とイエス様から問いかけられているのです。
私はここしばらく二日市教会の礼拝に出ておりませんでした。
先日、しばらくぶりに出席しましたら
教会員の愛唱讃美歌を礼拝の中で一緒に歌う
ということがなされておりました。
讃美歌というものは
そもそも信仰告白の一つの像です。
作者の信仰が歌という形で顕れているものです。
その沢山ある讃美歌の中で特定の讃美歌に特に
強い思いを感じる、心惹かれるということは
私たちの個人的な人生の経験や、体験した出来事が
それら愛唱讃美歌の示す信仰告白に親しみや励まし
そして喜びや慰めを感じている
ということでありましょう。
礼拝で他の教会員の愛唱讃美歌を一緒に唱うことは
その教会員の信仰の一端に触れている、ということです。
2000年に渡り教会が伝え続けた信仰に共に繋がっている者同士
という思いを分かち合うことが出来ます。
最近はどうなのでしょうか。
私が高校生の頃、55年ほど昔の話になりますから、
塔原にあった、前の教会での話しになりますが、
礼拝後、裏の集会室で証の時間がありました。
高校生になってそういう会があることを知り、参加したのだと思います。
その会に参加した者は自身の日々の生活の中で
神様を感じた出来事を思い思いに語りました。
一人が証する度に共に祈りあいました。
神様への思いを言葉に出来ず
ただただ泪を流すご婦人もおられました。
そのご婦人が落ちつかれるのを待って共に祈り合いました。
私たちが神様を信じる者として日々を生きる時
私たちは、私たちが毎日を生きているその中に、私たちに届き働く神様の業を観ています。
感じ取っています。
インマヌエル、私は共に貴方と共に在ると約束なさる神に
はい、私はあなたが常に私と共にいて下さることを信じます
アーメン、と答え
そのことを私の真実として生きる。
それが私たちであるなら
私たちは日々神様を感じて生きている者であるからです。
神様に守られ導かれている私
私の日々
私たちがそのことを一番強く感じるのはどこでしょうか?
自分が何者か
自分が何によって日々の生活を営んでいるのか
そのことを一番強く感じる。
気付かされる。
知らされる。
それはこの教会ではないでしょうか?
教会が主の日に守り行う礼拝ではないでしょうか。
ピリポ・カイザリア
この場所の持つ意味を考えてきましたが
このピリポ・カイザリアを私達の時代に置き換えれば
教会と言えると思います。
主の日の礼拝において、
神様を信じる信仰の歴史と
その信仰の歴史の流れに連なって
今日、私たちがこうしてここで生きていること
今日、こんにち、私たちがここに置かれ、在ることが語られ
知らされます。
そして、しかし、その教会が置かれているその所は
教会が礼拝を守り行うその場所は
同時に
様々な人の思惑、社会のシステム、国同士の利害が複雑に交錯している
社会であります。
そういう中で生きている人々は、
自分がより豊かで強いものとなるために
より安泰で少しでも人より高い位置に着くために
何をしたらよいか、何を持てばよいか
自分がそうなるためには何でもする
何をしても許される
自分以外の人間はそのための道具であり、手段として使い捨てられる。
自分が一番、自分が大事、そう思っています。
毎日報道されるニュースには
その思いに囚われた人々のあさましく醜い姿があります。
その思いに囚われた人々の犠牲となって
傷つけられ、損なわれた人々の痛ましい姿があります。
教会とは建物ではありません。
本日のところでイエス様が仰っている教会
皆さまもお耳になさったことがおありと思いますが
エクレシアという言葉でありました。
エクレシア。
それは人々の集まりのことです。
それも単なる人々の群れや集まりではなく
意味や目的を持って呼び集められた者
集まってきた者たち、人々の集まり・集会
それがエクレシア、教会です。
礼拝の終わりのところで
私たちはヌンク・ディミティスを唱います。
今、私は主の救いを見ました。
だから私は安らかです。
心安らかにここから出て行くことが出来ます。
ここを出て、様々な思い、利権がうごめく中に在っても
イスラエルとして、主の民として
心確かに、強く生きることが出来ます。
そこに主の日ごとに守る私達の礼拝の意味があります。
礼拝に於いて私たちが聴いて、見て、唱え、祈り、唱うもの
それは私たちは何を信じる者かということです。
あなたは私を誰と言うかという、というエス様からの問いかけの下に
共に立つ信仰の仲間を隣に感じてその場に在る
そこで私たちは
私達が何を信じている者か
信じている群れなのか
解らされるのです。
私を、私たちを愛し、強め、励まし
罪や汚れの中にもがいている私、私達を
救い出して下さる方
その方の手が常に変わらず
私、私たちに届き、支えていて下さる事を
絶えず新しく受けとめるのです。
救い主と共に在る
救い主が共にいて下さる
そのことを信じればこそ私たちは
それぞれが置かれ生きる場に在って
心確かに、心安らかに
生きて行くことが出来るのです。
私たちは夫々の場所に置かれ生きています。
その私たちはこの場で、礼拝の中で、エクレシアの中で
自分が何者で在るか絶えず知らされ
そして思いを新にして自分に与えられている夫々の場所へと出て行きます。
夫々の歩みに神様の導きの下、豊かに祝されたものとなりますように。
祈り
どうか望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安を
あなた方に満たし、精霊の力によって、あなた方を
望みに溢れさせて下さるように。(花島啓行牧師)
次週 9月3日 聖霊降臨第14主日
説教題:主の祈り⑧罪のゆるし
説教者:白髭義牧師