日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

信じ、語る群れ

2023-08-31 09:07:11 | 日記
二日市教会説教
2023年8月27日
聖霊降臨後第13主日
説教題「信じ、語る群れ」

(※説教者は、説教作成に際し日本聖書協会1954年改訳版を使用しました。)

本日の福音書の日課はペテロの告白として知られているところです。

初めに少し本日の日課の背景を考えてみようと思います。
本日の出来事が起こった場所

イエス様が弟子たちに
人々は自分のことを何と呼んでいるか
あなた方は私を誰というのか
とお尋ねなった、というその出来事が起きた場所。
それは
ピリポ・カイザリアというところでした。
後ろに地図が載っている聖書をお持ちの方は
開いてご覧になるとお判りですが
ピリポ・カイザリアは
キリスト時代のパレスチナ、もしくは新約時代のパレスチナという地図の
真ん中より少し上辺りにあるヘルモン山の直ぐ南側にあります。
見つかりましたか?
そしてその先を更に南に下るとガリラヤ湖があります。

ヘルモン山からの雪解け水が滝さながらに湧き出している所が
ピリポ・カイザリアにあって
その流れが川となってガリラヤ湖に注いでいます。
そして、このガリラヤ湖からヨルダン川が始まります。

つまりピリポ・カイザリアという場所は
ヨルダン川の源流の1つで、
イスラエルに在るヨルダン川の源流は
このピリポ・カイザリアにあるものだけなのだそうです。
私は聖地巡礼の経験がありません。この辺りは聖書大辞典からの受け売りです。

ヨルダン川はパレスチナ地方最大の川です。
旧約聖書に登場する沢山の物語にヨルダン川は登場します。
イスラエルの人々の歴史の様々な場面に登場するヨルダン川は
イスラエルの人々にとって、正に母なる川と言える物でありました。

イスラエルの人々は長い歴史の間で
外国との戦いに敗れ
何度か異国の地で囚われの生活を送ることがありました。
捕囚と言いますが
その捕囚生活の間、人々は
ヨルダン川の流れる故郷のカナン・パレスチナでの生活を夢見て過ごします。
いつか、ヨルダン川の流れるカナンに戻って
ヨルダン川のほとりで暮らしたい
ヨルダン川のほとりで神様にたち帰り
今後こそ新しいイスラエルとしてやり直したい
その思いを糧にしてイスラエルの人々は捕囚での生活を耐え抜きました。
その母なる川、ヨルダン川の水源がピリポ・カイザリアでありました。

また、このピリポ・カイザリアという名前からも知られますが
この地はイスラエルとローマの関係に深く関わっている場所でもありました。
地中海全域を支配下に納めようとするローマにとって
小アジアとエジプトとの間にあり、交通の要所となるパレスチナ一帯
当時ユダヤ王国のあったユダヤ地方を領土とすることは
エジプトとの関係上、軍事的・政治的に重要な事でしたので
紀元前1世紀あたりからローマ帝国は盛んにユダヤ王国に干渉して来ました。
そういうユダヤ王国にあって、自分の立場を有利なものにしたいと考えるヘロデ家は
歴代のローマ軍、ローマの皇帝に取り入り、巧妙に立ち回って
力を付けて行き、ついには王にまで上り詰めることになります。

ヘロデ大王は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に
この地域一帯を領地として与えらます。
ヘロデ大王は
皇帝アウグストゥスの像を安置する神殿をその地に建てることで
アウグストに感謝の意を示すと共に、ローマへの恭順の姿勢を示します。
ヘロデ大王は後にこの一帯を息子のピリポに与えるのですが
ピリポはその際に街の名前に自分の名前・ピリポと
ローマ皇帝の称号カイザリアを合わせて街の名前
ピリポ・カイザリアとしました。

この街はローマを後ろ盾としてイスラエル社会を治めようとしていた、
イスラエルの支配者たちの姿勢・ありようを象徴し、
一方でユダヤ地方をうまく利用することで
地中海沿岸を手に入れたいとするローマの思惑
つまり、ローマとイスラエルの
持ちつ持たれつの関係を象徴する場所でありました。

ピリポ・カイザリアというところは
従って、イスラエルの人々にとっては自らの信仰に連なる
母なる川ヨルダンの水源であり、
一方で
誰もが覇権者たらんとしてうごめく世界情勢の中に在って
少しでも自分たちの立場を良くしようと、風見鶏の様に右顧左眄するイスラエルの現状を体現する場所でもありました。

アブラハム・イサク・ヤコブたちによって
ヨルダン川の流れるカナンの地・パレスチナに導かれて生きてきた自分たち
そして今、当時の世界と言える、地中海全体の覇権を巡る世界情勢の中で
その時々の風向きに身を任せて生き延びようとしたたかに振る舞う自分たち
という
民族の来し方、そして民族の現在の象徴
それがビリポ・カイザリアでありました。

イエス様と弟子たちの会話は
正にそういう場所で行われているということです。
そういう場所に於いて弟子たちは、私を誰とするのか、とイエス様から問いかけられているのです。

私はここしばらく二日市教会の礼拝に出ておりませんでした。
先日、しばらくぶりに出席しましたら
教会員の愛唱讃美歌を礼拝の中で一緒に歌う
ということがなされておりました。

讃美歌というものは
そもそも信仰告白の一つの像です。
作者の信仰が歌という形で顕れているものです。

その沢山ある讃美歌の中で特定の讃美歌に特に
強い思いを感じる、心惹かれるということは
私たちの個人的な人生の経験や、体験した出来事が
それら愛唱讃美歌の示す信仰告白に親しみや励まし
そして喜びや慰めを感じている
ということでありましょう。

礼拝で他の教会員の愛唱讃美歌を一緒に唱うことは
その教会員の信仰の一端に触れている、ということです。
2000年に渡り教会が伝え続けた信仰に共に繋がっている者同士
という思いを分かち合うことが出来ます。

最近はどうなのでしょうか。
私が高校生の頃、55年ほど昔の話になりますから、
塔原にあった、前の教会での話しになりますが、
礼拝後、裏の集会室で証の時間がありました。
高校生になってそういう会があることを知り、参加したのだと思います。

その会に参加した者は自身の日々の生活の中で
神様を感じた出来事を思い思いに語りました。
一人が証する度に共に祈りあいました。
神様への思いを言葉に出来ず
ただただ泪を流すご婦人もおられました。
そのご婦人が落ちつかれるのを待って共に祈り合いました。
私たちが神様を信じる者として日々を生きる時
私たちは、私たちが毎日を生きているその中に、私たちに届き働く神様の業を観ています。
感じ取っています。

インマヌエル、私は共に貴方と共に在ると約束なさる神に
はい、私はあなたが常に私と共にいて下さることを信じます
アーメン、と答え
そのことを私の真実として生きる。
それが私たちであるなら
私たちは日々神様を感じて生きている者であるからです。
神様に守られ導かれている私
私の日々

私たちがそのことを一番強く感じるのはどこでしょうか?
自分が何者か
自分が何によって日々の生活を営んでいるのか
そのことを一番強く感じる。
気付かされる。
知らされる。
それはこの教会ではないでしょうか?
教会が主の日に守り行う礼拝ではないでしょうか。

ピリポ・カイザリア
この場所の持つ意味を考えてきましたが
このピリポ・カイザリアを私達の時代に置き換えれば
教会と言えると思います。

主の日の礼拝において、
神様を信じる信仰の歴史と
その信仰の歴史の流れに連なって
今日、私たちがこうしてここで生きていること
今日、こんにち、私たちがここに置かれ、在ることが語られ
知らされます。

そして、しかし、その教会が置かれているその所は
教会が礼拝を守り行うその場所は
同時に
様々な人の思惑、社会のシステム、国同士の利害が複雑に交錯している
社会であります。
そういう中で生きている人々は、
自分がより豊かで強いものとなるために
より安泰で少しでも人より高い位置に着くために
何をしたらよいか、何を持てばよいか
自分がそうなるためには何でもする
何をしても許される
自分以外の人間はそのための道具であり、手段として使い捨てられる。
自分が一番、自分が大事、そう思っています。

毎日報道されるニュースには
その思いに囚われた人々のあさましく醜い姿があります。
その思いに囚われた人々の犠牲となって
傷つけられ、損なわれた人々の痛ましい姿があります。

教会とは建物ではありません。
本日のところでイエス様が仰っている教会
皆さまもお耳になさったことがおありと思いますが
エクレシアという言葉でありました。

エクレシア。
それは人々の集まりのことです。
それも単なる人々の群れや集まりではなく
意味や目的を持って呼び集められた者
集まってきた者たち、人々の集まり・集会
それがエクレシア、教会です。

礼拝の終わりのところで
私たちはヌンク・ディミティスを唱います。
今、私は主の救いを見ました。
だから私は安らかです。
心安らかにここから出て行くことが出来ます。
ここを出て、様々な思い、利権がうごめく中に在っても
イスラエルとして、主の民として
心確かに、強く生きることが出来ます。

そこに主の日ごとに守る私達の礼拝の意味があります。
礼拝に於いて私たちが聴いて、見て、唱え、祈り、唱うもの
それは私たちは何を信じる者かということです。
あなたは私を誰と言うかという、というエス様からの問いかけの下に
共に立つ信仰の仲間を隣に感じてその場に在る
そこで私たちは
私達が何を信じている者か
信じている群れなのか
解らされるのです。
私を、私たちを愛し、強め、励まし
罪や汚れの中にもがいている私、私達を
救い出して下さる方
その方の手が常に変わらず
私、私たちに届き、支えていて下さる事を
絶えず新しく受けとめるのです。

救い主と共に在る
救い主が共にいて下さる
そのことを信じればこそ私たちは
それぞれが置かれ生きる場に在って
心確かに、心安らかに
生きて行くことが出来るのです。

私たちは夫々の場所に置かれ生きています。
その私たちはこの場で、礼拝の中で、エクレシアの中で
自分が何者で在るか絶えず知らされ
そして思いを新にして自分に与えられている夫々の場所へと出て行きます。
夫々の歩みに神様の導きの下、豊かに祝されたものとなりますように。

祈り
どうか望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安を
あなた方に満たし、精霊の力によって、あなた方を
望みに溢れさせて下さるように。(花島啓行牧師)


次週 9月3日 聖霊降臨第14主日
説教題:主の祈り⑧罪のゆるし
説教者:白髭義牧師
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月20日

2023-08-23 13:54:59 | 日記
聖霊降臨後第12主日
イザヤ56:1,6~8,ロマ11;1~2a、29~32,マタイ15:21~28
「主の祈り⑦/お遍路の心で」

☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 わたしたちはこれまで、主の祈りのことを考えてきました。現在はそのうちの「我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ」考えているところです。
 ところで、私の高校時代に辻重義くんという年下の友人がいました。博多教会で一緒でしたが、卒業後は別れ別れになり、それからずっと会えずじまいでした。しばらくしてようやく会えた時、彼は興味深い話をしてくれました。
 さて辻くんは大学で学生運動をしていました。当時の大学生がそうすることは少しも珍しいことではありませんでしたが、当時大学は学園紛争という風が吹き荒れていました。辻くんはその学生運動のリーダーの一人になったのでした。
ある日、辻くんの前に他の学生運動グループの学生が引き立てられてきました。当時の学生運動は、主義主張でセクトに分かれ、セクト同士の争いがあって、しばしば暴力沙汰に及んでいました。引き立てられてきた学生もひどいめにあわされて当然という空気が漂っていました。皆が見守る中で、リーダーですから裁きを下さなければなりません。ところが辻リーダーは部下たちに、とんでもない命令をしたのでした。「とりあえずメシを食わせてやれや。」
辻くんのこの話のあとがどうだったか、私の記憶は切れています。しかしこの「とりあえずメシを食わせてやれ」だけは、あざやかに記憶として残ったのでした。ところで、それからまた歳月がたちました。そして、今のわたしにとっての最大の関心事は、そのメシとはどんなメシだったのかということなのです。
今から50年も前の話です。当時はコンビニエンスストアもファーストフード店もなく、弁当を買おうとしても不可能でした。学生寮にいた学生はまかないのおばさんに頼むか、自宅の子は親か自分で作るかしていたはずです。ところで、思い出すのは家康です。なぜなら、まだ岡崎城の城主だったころ、いくさがあると出陣する部隊には、八丁味噌を塗りたくった握り飯を持参させていたからです。そうだ、握り飯だと思いました。学生たちが昼飯ように持っていたその握り飯を敵に分けてやれと辻くんは命じていたのである。ただし、それが百パーセント正しいかどうかは、彼にまた会わないとわからないのです。
さて、握り飯という言葉は女性たちは使いません。おにぎりだからです。さて、このおにぎり、青森県におにぎりで有名だった女性がいました。佐藤初女(はつめ)さん。カトリックの信徒でしたが、7年前94歳で亡くなりました。彼女は、悩みを抱え込んだ人たちを受け入れるため、痛みを分かち合える施設として、岩木山のふもとに家を建てました。するとある日、一人の青年が訪ねてきました。自殺願望の強い人で、深刻そうだったので、初女さんは泊ってゆくように強く勧めました。しかし彼はそれをかたくなに拒んだため、少し待たせて、包みを持たせました。
そのあと青年は汽車に乗り、その包みをほどきました。すると出てきたのはホカホカのおにぎりでした。タオルに包んで渡していたので、まるで握りたてのようなおにぎりでした。彼は、それを口にほうばってさらに驚きました。こんなおいしいもの食べるの、生まれて初めてだ。彼は思いました。自分のために手間ひまかけて握ってくれた人がいたのだ。今までひとりぼっちで、誰もかまってくれないと思っていたが、実はそうではなかった。汽車の中で彼は、もう一度生きてみようと決心したのでした。
ところで、彼女のおにぎりは奇跡のおにぎりと言われましたが、要するに普通のお米を使い、電気釜で炊いて、中に入れるのは梅干しだけのおにぎりでした。ある時、キリスト教保育連盟が主催する講習会に招かれ、幼稚園、保育園の先生たちの前で話をしました。話が終わって質疑応答となったとき、一人の先生が「どうしたらおむすびがおいしくできるのでしょうか」と質問しました。初音さんはこう答えました。「まず、水加減を少なめにすることです、次に、ご飯の一粒一粒が呼吸できるよう、自分がご飯になった気持ちで握ることです」。要するに握り方次第だと言ったのでした。
ここで話はまた変わります。私は以前、広島県から瀬戸内海を渡って、四国の松山教会に通っていたことがありました。クルマの運転は家内でしたが、彼女も四国の出身で、子ども時代は、家に来ていたお遍路さんをよく見ていました。すると親はその人たちにお米や野菜をあげていた。近くに平城、観自在寺という八十八か所の40番札所があり、お遍路さんはそこで寝泊まりできたが、食事は自炊だった。もらってきたお米やお野菜を自分たちで煮炊きして食べていたのだということでした。まさに、それこそが昔からのお遍路さんなのでした。
辰濃和男という人が書いた『四国遍路』という本があります。長くつとめた会社を定年で辞め、68歳の時から、四国88箇所、千数百キロをひたすら自分の足だけであるくお遍路を始めました。今から20年以上も前とはいえ、すでに四国も都会化の波で洗われており、便利この上ない文明の利器が発達していましたが、できる限りそれに依存しない、あえてゆっくりの旅で、その分他の人たちが見落としている巡礼の本来のものに触れながら、足かけ3年あるいたのでした。
するとこんなことがありました。愛媛県の内子という町の無料の宿を夜明け前に出発した時のこと、「薄明りの国道には濃い霧がかかり、風が重かった。だれかを待っているのか、人気のない道ばたに独り、近在のおばあさんがたたずんでいる。八十歳前後だろうか。しばらく世間話をした。『歩いていなさるのか。難儀だわなあ』とおばあさんが言った。『お接待させてもらいましょ』。千円札を出した。ごつい手だった。ためらいながらいただき、手を合わせた。おばあさんも手を合わせている。伊予の内子を忘れてなろか。」、
あるいはこんなこともありました。「五十三番円明寺をお参りしてから商店街を歩いていた時、『お遍路さ~ん』といって後ろからかけてきたおじいさんが三百円をくださった。『私も若い頃回りましてね。道中冷たいものでも飲んでください。』」
これらは、四国のことばでいえばお接待でした。家内も子供時代、わが家だけでなくどこの家でもお米や野菜をあげるお接待を目にしていました。家内も子供時代に見ていたように、お遍路とは米や野菜を恵んでもらう人たちのことでした。お遍路さんが通る道ぞいの人たちにとって、お接待は当然の行為なのでした。
ところで、主の祈りの「われらの日ごとの糧をきょうも与えたまえ」は、神に対して「日ごとの糧を恵んでください」と祈ることです。それは人家の戸口に立ってお遍路さんが口にしていることとぴったり重なるのです。
なおこの祈り、「われらの」という言葉も重要です。自分以外の人たちにもそれを恵んでほしいからです。以上をまとめると、私たちは何も持たずに旅をするお遍路であり、かつ自分の持ち物を他者に分かち与える道中の村人でもあるということなのです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)


次週8月27日(日)聖霊降臨後第13主日
説教題:「信じる群れ」
 白髭牧師は夏休みのため花島啓行牧師が礼拝奉仕です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月13日

2023-08-18 12:03:11 | 日記
聖霊降臨後第11主日
列王記上19:9~18,ロマ19;5~15、マタイ14:22~33
「主の祈り⑥ イエスとアンパンマン」
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 さてこれまで、私たちは主の祈りについて考えてきましたが、今回も先週に続き「われらの日ごとの糧を今日も与えたえ」を考えたいと思います。なお日ごとの糧の糧は、英語ではブレッドつまりパンです。ただ主の祈りが最初翻訳された時の日本はまだ米食でした。一般的でなかったパンという言葉は避けたのでした。しかし今は時代も変わっていますから「パンをあたえたまえ」で構わないのではと思うのであります。
 ところでパンは、聖書では沢山出てきます。そのうち特に目立つのはヨハネ福音書6章です。新約174頁以下ですが、パンが何回出てくるか数えてみると22回でした。異常な多さと言うべきですが、それだけパンが重要視されるのがヨハネ6章なのです。
 ところで、この6章のメッセージはイエスの「私は命のパンである(35節)」です。私たちはこれを何度も耳にするのであまり問題は感じないと思うのですが、6章に出てくる人々はそうではありませんでした。というのも彼らはイエスの言葉、「私は命のパン。私を食べる者は死なない(50節)」、に激しい拒否反応をしたからです。彼らはこう言いました。「どうして自分の肉を食べさせることが出来るのか」。さて、彼等よりもっと深刻だったのは弟子たちでした。彼らはこう言っています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いておられようか」。そのためイエスから離れ去った。あとに残ったのは12弟子たちくらいだったことも書かれています。
 さて、以上とは対照的な話もあります。それはアンパンマンです。それを今読みますが、何種類もあるアンパンマン絵本の中から、最初に発行された絵本を読みます。

 一人の旅人が、広い砂漠の真ん中で、おなかがすいて、今にも死にそうになっていました。そのとき、西の空から、大きな鳥のようなものが、近づいてくるのが見えました。
 飛んできた不思議な人は、いきなり旅人に言いました。「さあ、ボクの顔を食べなさい」。旅人はびっくりして、「そんなおそろしいことは出来ません」と断りましたが、その人は「ボクはアンパンマンだ。いつもおなかのすいた人を助けるのだ。ボクの顔はとびきりおいしい。さあ、早く!」とせきたてるのでした。
 「ごめんなさい。ではちょっとだけ」。旅人はおそるおそるアンパンマンのあたまにかじりつきましたが、そのおいしいことはびっくりするぐらいでした。そして、ちょっとだけじゃなくて、たくさん食べました。アンパンマンの顔は半分くらいになりました。旅人はすっかり元気になり、「ありがとう。アンパンマン。おかげで助かりました」とお礼を言いました。「さようなら、がんばれよー。」アンパンマンはさっと空中にとびあがります。
 夕暮れの空をアンパンマンが飛んでいます。でも少し元気がないようです。深い森のところにくると、アンパンマンは吸い込まれるように森の中へ降りてゆきました。森の中では、ひとりの子どもがおなかをすかして泣いていました。きれいな蝶を追いかけているうちに、道に迷ってしまったのです。だんだんあたりはくらくなってきます。おなかはすくし、恐ろしいし、子どもはとうとう泣き出してしまいました。
 そのときアンパンマンがひらりと鳥のように降りてきました。「泣いているのはきみだったのか、もう大丈夫だ。安心しなさい」。アンパンマンは子どもを背中に乗せてひらりと夜空に飛び立ちます。「おなかがすいたろう。さあ、ボクの顔をかじりなさい。ぜんぶ食べてもいいんだよ。甘くておいしいからすぐ元気になれる。」「アンパンマン、顔がなくても大丈夫なの。」「しんぱいしないでいいんだ。それじゃあまたね、さようなら。」
 アンパンマンは子どもをぶじに家まで送り届けました。アンパンマンの顔はすっかり食べられてなくなっていました。急にお天気が悪くなり、空が真っ黒になって、大粒の雨が降ってきました。アンパンマンは夢中で飛んでいましたが、そのときものすごいかみなりが鳴って、アンパンマンは町はずれの大きな煙突の中へ墜落しました。あぶない! アンパンマンは死んだのでしょうか。
 それはパン工場の煙突でした。パンつくりのおじさんは、顔のないアンパンマンを見ると、にこにこしながら「よしよし、また新しい顔をつくってあげるよと言いました。パンつくりのおじさんは、パン焼きの名人です。「どれどれ、新しいパンは焼けたかな。」おじさんは、パンやきがまのふたをあけます。
 「よおし、こんどは、もっと大きいパンにして、もっとおいしいあんこをいっぱい入れておいたよ。さあ、できた。」アンパンマンは前よりもふっくらとした顔になりました。 「それじゃあ、また、おなかのすいた人を助けにいってきます。」アンパンマンは、すぐにまた出発です。おじさんは、飛んでいくアンパンマンを見送りながら、「がんばらなくっちゃ。アンパンマンー。」と大声でさけびました アンパンマンはきょうも、どこかの空を飛んでいます。

 以上が絵本の話です。ところで絵本の読者は2歳前後の子どもが中心なので、母親たちが選んでいます。でも彼女たちは自分なりに、いわゆる「いい絵本」に対する見識を持っているものです。インターネットで3人の母親の体験談を見つけました。一人はこう書いていました。「子どもが出来たが、アンパンマンは好きになれないので与えなかった。ところがこの子は一歳の時入院したことで、新たな環境でアンパンマン出会ってしまい、私がみつけた時にはアンパンマンに夢中になっていた」。もう一人の母親は、「最初アンパンマングッズや玩具は買いたくなかった。そのテレビも見せなかった。でも百貨店など行く先々にアンパンマンがあり、我が子はそれに引っかかってしまった」。あと一人、「私は独身時代、アニメはジプリとディズニー・ピクサーにすると決めていた。ところが子どもが出来るとその夢はすぐ破られました」。
 それでは、この3人が最初は否定的だったのはなぜでしょうか。あくまで想像ですが、「旅人はアンパンマンの頭にかじりつきました」とか、「おなかがすいたろう、ボクの顔をかじりなさい」のような言葉と、言葉以上にリアルな絵とに心を動揺させたのかもしれません。さらに思い出すのは、私を食べなさいというイエスの言葉に激しい拒否反応をした大人の人たちのことです。
 けれども、子どもたちはそういうことを全然気にしてきませんでした。なぜならこの絵本は今までに八千万冊以上も売れたからです。ところで、パンをめぐっての大人たちと子どもたちの態度の違いは何か。だったら、私はそのどちらの側に立っているのだろうか。考えてみる価値は十分ありそうであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次回8月20日(日)聖霊降臨後第12主日
説教題:主の祈り⑦ お遍路の心で
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月6日

2023-08-10 14:09:43 | 日記
聖霊降臨後第10主日
列王記●上3:5~12,ロマ8;26~29、マタイ13:31~33,44~52
「主の祈り/⑤エジプトの肉鍋」
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 さて、わたしたちはこれまで、主の祈りのことを毎週考えてきました。先週は「み心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ」を考えました。今週は、「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」となります。ところでこれは、英語では、「ギブ アス ツデイ アワ デイリー ブレッド」です。デイリーブレッド。私たちは、主の祈りでデイリー・ブレッドを祈るのです。なぜならイエスが、そう祈るよう教えたからです。
 ところで、京都には進々堂というパン屋さんがあります。老舗のパン屋で創立は大正7(1913)年です。複数いた創立者の一人が続木(つづき)タネで、彼女は同志社女学校と明治女学校で学び、内村鑑三の著作と聖書を毎日読むことを日課としていました。そしてそのことが、彼女の経営者としての姿勢にも反映され、市内の同業者たちが、より水分を多く含むパンを販売し値段を上げていた時、彼女はよく火の通った軽くおいしいパンのみかたくなに焼き続けました。やがて京都では今に至るまで、「パンなら進々堂」と言われるくらい信用と評判が広まったのでした。さて、進々堂は昭和27(1952)年に、食パンをスライス袋詰めした商品を売り出しました。そしてその商品名は「デーリーブレッド」。この名前の由来は、知る人ぞ知るでした。
ところで、イエスが祈るようにと教えた「ギブ アス デイリー ブレッド」は、旧約聖書から始まっていました。すなわち、モーセに率いられ荒れ野を歩いたイスラエルの民の口から同じような言葉が発せられたからでした。彼らはモーセにこう言いました。「我々はエジプトの国で、神の手にかかって死んだほうがましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに、あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を餓え死にさせようとしている」。要するに彼らは「ギブ アス デイリー ブレッド」ならぬ「ギブ アス 肉鍋」を叫んでいたのでした。
肉鍋が腹一杯食べられたなんてうらやましい話ですが、でも眉唾かもしれません。なぜなら、彼らはエジプトでは奴隷だったからです。聖書にはこう書かれているからです。彼らは虐待され強制労働を課せられていた(出エ1)。仕事の内容は、粘土をこね、れんがを焼くことでした。また、あらゆる農作業にも駆り出されていました。しかし考えてみれば、エジプトの支配者側にとっては貴重な労働力。彼らを餓え死にさせない程度の対策は常に手を打っていました。最低限必要な食事は保証し生かしておいたからです。
では、奴隷の彼らは何を食料としていたのか。それはパンでした。ただし、パン屋さんで買ってくると言う意味でのパンではなく、各家庭で焼かれた自家製のパンでした。だからそのために当局から支給されたのは、穀物でした。女たちはそれを臼でひいて粉にし、それを水で練ってパンを焼きました。これは必要最低限の食事でしたから、貧しい人たちの食事でしたが、それでも穀物があるのでパンはデイリー ブレッドでした。
 以上はエジプト時代の話です。このあと彼らはエジプトを脱出し、荒れ野でモーセに従う民となりました。旧約の民数記11章には、その時の民の泣き言が書かれています。「誰か、肉を食べさせてくれないものか。エジプトではただで魚を食べていたし、キュウリやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくが忘れられない」。でも本当にそうだったのでしょうか。いずれにしても、民の泣き言は、自分たちが今にも死にしそうだという訴えとは違っていました。このような泣き言が地上に満ちたため、ばんやり聖書を読む人は彼等に同情を寄せてしまうのでした。
 しかし聖書には、民は毎日空腹だったとは書かれていません。なぜなら、神は毎日マナを降らせていたからです。マナのことはこう書かれています。「コエンドロの種のようで、一見琥珀の類のようであった。民は歩き回って拾い集め、臼で粉を挽くか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て菓子にした。それは濃くのあるクリームのような味であった。夜露が降りると、マナも降った(民数記11:7)」。食べ方まで書かれていましたが、ある本にはこう書かれていました。「マナ・タマリスクという木があって、その葉をある昆虫が刺すと、分泌物と樹液で構成されるまん丸いものが葉の表面にできる。それがマナである。その球状のものが地面にころがり落ちたのを夜暗い内に集めて食料とする。朝に温度が上昇すると溶けてしまうからである。甘い味がするので、今でもベドウィンは食べている」(新共同訳旧約聖書註解Ⅰ148頁)。なお、ベドウィンは砂漠の民のことです。
なお、こういうことも書かれています。神が民にマナを降らせるようになった由来です。神はモーセにこう伝えたのでした。「これこそ主があなたたちに与えられたパンである。あなたがたは出て行って、毎日必要な分だけを集めよ(出エ16:4,15)」。)」こういうわけで、神はマナを降らせ始めました。しかも毎日、一日も欠かさず40年間でした。このマナこそ、文字通りのデイリーブレッドなのでした。
にもかかわらず、民はつぶやくのをやめなかったと書かれています。たとえば詩編78編。「彼らは心のうちに神を試み、欲望のままに食べ物を得ようとした」。また彼らは互いに言った。「荒れ野で食卓を整えることが神には出来るのだろうか」。すなわち、外見はみすぼらしいかもしれないが、神が毎日降らせてくれる食卓用のデイリーブレッドなど眼中にないのでした。
こんな話もあります。民があまりにも肉を欲するので、あきれた半分で神が、肉食用のうずらを送ってやったという話です。なお、うずらは季節の渡り鳥なので、一年中は無理でした。その時期になると大群が飛来しました。民は夢中でそれを捕獲した。彼らの口の中はたえず肉でいっぱいだったと書かれています。しかも、必要以上の分量を捕獲したものだから貯蔵したが、それはすぐ腐り始め、あたりに悪臭がただい、やがて疫病が蔓延し、ついに多数の死者を出した。その死者を葬った場所はこんにちも「貪欲の墓」と呼ばれている・・・ということまで書かれているのです。
ところで、同じ旧約の箴言17章にはこんな言葉があります。「一切れのパンがあって安らぎがあるのは、御馳走があって争いのある家にまさる(17:1)」。一切れのパンつまりデイリーブレッドさえあればいいのではないかという考えです。
なお念のため言うと、イエスの祈りは「ギブ アス ツデイ アワ デイリー ブレッド」でした。ポイントは「ギブ アス」。「ギブ ミ― チョコレート」の「ギブ ミー」ではなかったということです。ギブ アス、つまり「わたしたちにください」の「わたしたち」をあえて意識しながら祈りたいもののであります。

次週8月13日(日)聖霊降臨後11主日
説教題:主の祈り⑥なぜ食べるのか
暑さ対策の為、礼拝は、空調設備が整ったラウンジで守っております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月30日

2023-08-01 12:25:40 | 日記
聖霊降臨後第9主日
列王記上3:5~12,ロマ8;26~29、マタイ13:31~33,44~52
「主の祈り/④神の意思とは」
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
 今週も主の祈りについてごいっしょに考えたいと思います。前回は「み国を来たらせたまえ」でしたが、本日は「み心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。ところで、「み心」は「あなたの心」つまり「神の意志」のことです。
 ところで、「なさせたまえ」という言い方ですから、神の意志はまだこの世には行きわたっていないのです。そうだから、将来には行きわたりますようにと祈るのです。
 けれども、そのように祈る自分自身が、神の意志は何かを知っているかというと、それが問題なのです。なぜなら、神の意志は人知ではとうてい測り知れないと普段信仰告白をしているくらいだからで、要するにどんなに逆立ちしたって神の意志はわからないからです。それでもイエスは「み心を地にもなさせたまえ」と祈れと言いました。でも私たちは、神の意志が実現しても、どんなかたちで実現するのか見当がつかないのです。
 けれども、神の意志とは何かを考えさせてくれる話があります。それは『ヨセフとその兄弟たち』という話で、旧約の創世記37章以下にそれはあります。
 さて、ヨセフはヤコブの12人の息子たちの11番目の子でした。ところが、上の息子たちとは違ってヤコブはこのヨセフを、目に余るほどに溺愛しました。着るものひとつにしてもこの息子のためだけ特別あつらえの服を作らせていたほどです。さて、このようなヨセフには特別な才能がありました。それは夢判断が出来ることでした。人が見た夢を聞いてその人にこれから起きることを判断し、それが見事当たるのでした。ある日彼自身もこんな夢を見ました。収穫された小麦のうち、兄たちの麦束が、ヨセフの麦束にお辞儀をしたからです。この話を兄たちにしたものだから、彼らは烈火のごとく怒ったのでした。
さてある日、兄たちは羊たちを追いながら遠くに出かけていました。すると父のヤコブがヨセフに、出かけてゆき兄たちの仕事ぶりを観察してくるよう言いつけました。その際ヨセフは特別仕立ての晴れ着を着て出かけました。さて、その着物を遠くから認めた兄たちは、ひそかによからぬ相談を始めました。するとその時、ラクダの隊商が通りかかりました。
ヨセフがやって来ると兄たちは彼を捕まえ、ラクダの隊商に奴隷として弟を売り渡しました。隊商はエジプトの奴隷商人でした。兄たちはその場で羊をほうむり、その血をはぎとったヨセフの上着に塗り付け、それを持ちかえって父に、あなたのヨセフは獣の餌食になりましたと報告したのでした。
 さてこのあと、エジプトにおけるヨセフの話になります。ヨセフはエジプト王ファラオに仕える高官ポティツアルの屋敷の奴隷として売られました。しかしその働きが高く評価されたので、ポティツアルは家のこと一切をヨセフに委ねました。ところが、ポティツアルの妻がヨセフに横恋慕し、思いがかなわぬ知ると逆恨みし、ありもしないことでヨセフを訴えたので彼は投獄されました。しかし、その牢獄でも同じ囚人たちが見た夢の解き明かしをしてやり、一人の囚人はその夢解きが的中して釈放されるということがありました。さて、話は変わって王宮ではファラオ王が、自分が見た夢のことで深く悩んでいました。夢を解き明かした者への多額の賞金まで約束しますが、誰も名乗り出ませんでした。その時、以前牢獄から釈放された元囚人がヨセフを思い出し王にそれを報告しました。ヨセフは召し出され、王から見た夢の話を聞くと、こう解き明かしました。すなわち、エジプトにはこれからの7年間は大豊作が続くが、そのあと7年間の大飢饉に襲われるであろう。このあとヨセフは王の信任を受け、エジプトの最高の地位にあたる宰相になりました。彼は直ちに行政改革に着手して、エジプト中に大倉庫をたくさん建設させ、収穫物の備蓄をさせたのでした。
 すると大豊作のあとは、大飢饉となりました。しかし、エジプトでは餓死者を一人も出しませんでした。しかし飢饉は近隣諸国にも及び、ヨセフの家族も例外ではありませんでした。そこで兄弟はそろってエジプトを訪問し、穀物を売ってほしいと頼み込んだのでした。さてこのあと、物語の最大の山場になります。
 さて、兄たちがエジプトに来たことはヨセフもただちに知るところとなりました。しかし彼は、自分が弟のヨセフであるという名乗りをただちにはしませんでした。彼はわざと、彼らはエジプトの飢饉の様子をさぐりにきたスパイであると決めつけ、スパイではないという証拠が示せないかぎり穀物は一粒も渡さないと申し渡すなど、かなり意地の悪い演技をしますが、目の前の兄弟に対する骨肉の情に耐え切れなくなり、ついに一切を明らかにしたのでした。創世記45章がそうです。
しかし兄たちは目の前にいるのがヨセフだと知ると、その顔が恐怖で引きつりました。自分たちがヨセフに対してしたことを思えば当然だったことでしょう。しかしヨセフは兄たちに声をかけ心を落ち着かせようとしました。その時のことはこう書かれています。「ヨセフは兄弟たちに言った。『どうかもっと近寄ってください』。兄弟たちはそばに近づくと、ヨセフはまた言った。『わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのだからです。それはあなたたちが生き永らえて大いなる救いにあずかるためにです』。
このようにヨセフは、兄たちにやさしく語りかけました。そもそも事の発端というのは家族の内輪もめで、家族内のねたみや争いでしかなかったのに、今になってみるとそれも神の目的実現のためだったからです。物語の最後にはヨセフのこんな言葉が記されます。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変えてくださいました」。おもえば最初は、神の意志が分かっていた者など誰もいなかったのでした。
ところで、主の祈りもそれに通じています。というのも、イエス自身も神の意志が分からない一人だったからです。ゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いでなく、み心のままに」と祈っていたからです。
その意味でわたしたちも、「み心を地にもなさせたまえ」を終生祈り続けたいと思うものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次回8月6日(日)聖霊降臨後第10主日
説教題:「主の祈り⑤『日ごとの糧』その心は」
※猛暑のため、8月6日から礼拝場所をラウンジに移す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする