エレミヤ23:1~6,コロサイ1:11~20、ルカ23:33~43
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二日市教会主日礼拝説教 2023年11月26日(日)
永遠の王キリスト(聖霊降臨後最終主日)
「パラダイスはいずこに」
白髭牧師は肺炎のため済生会二日市病院に入院となりました。退院までの期間以前のものを代議員が代読します。入院は2週間ぐらいの予定です。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
小郡駅の周辺を歩いてきました。古い街並みがよく残されていましたが、人通りが少なくて、お客が列をなす店が一軒だけありました。志和饅頭という屋号で造りは昔のままでしたが、そこに見えた活気がこの街の印象となったのでした。
さて、本日の福音はルカによる福音書23章33節から43節まででした。けれどもこれは、イエスの十字架の場面の話でした。ところが来週からはクリスマスシーズン。十字架とクリスマス。おかしな取り合わせではあります。
でも、何か理由があるのだろうと思って気がつくのは、本日は教会が守ってきた一年の暦の最終日曜日だということです。最後なので一年を振り返ろう。個人的に振り返れば、色々後悔も反省点もありでしょう。そういう時、十字架の話もあながちお門違いとはならない。そう思ってみたいのであります。
ところで、今のルカ23章ですが、どうしても気になることがありました。それは43節のことですが、『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた』と書かれていることです。
どういうことかというと、「一緒にいる」のはいいのだけど、「楽園にいる」の楽園はおかしい。なぜならこれは、明治の時代から日本の聖書は、楽園ではなくパラダイスだったからです。
それでは、今はなぜパラダイスかというと、1987年、つまり今から35年前に聖書の翻訳の大改訂が行われた時に、パラダイスをやめて楽園にされたからであります。それは昭和62年のことでしたが2年後に昭和は終わっています。つまり、明治、大正、戦前戦後の昭和のほとんど、日本の聖書はパラダイスで一貫してきたのでした。「それを今さらなぜ?」なのであります。
なお、英語の聖書は西暦1611年の欽定訳から現代までずっとパラダイスです。さらに調べれば分かるはずですが、スペイン語も、フランス語も、イタリア語も、ドイツ語も、どの聖書もパラダイスのはず。さらに日本も最近まではそうでした。
けれども、これ以上の詮索は無駄でしょうからやめておきます。ただひとつだけですが、ポルトガル語聖書でもパラダイスでした。ただし、ポルトガル語ですから発音はパライゾです。このポルトガル語聖書は日本に五百年前に持ち込まれたのでした。なお、この話はあとでまたします。
ところで、パラダイスというのはペルシャ語です。大昔、ペルシャの富裕層が所有する大庭園がパラダイスと呼ばれていました。そして、それが旧約聖書にも入ってきたのでした。すなわち、創世記に出てくるエデンの園がパラダイスと呼ばれたからです。ただし、このパラダイスは普通のお庭ではありません。なぜなら、夕方刻になると造り主なる神が散歩する庭園だったからです。また禁断の木の実もありました。そして、アダムとエバも最初はそこにいたのですが、神の怒りで追放された。そこに住めなくなったことが人類の不幸の始まりでした。
しかしながら、人間にはかつてそこにいた楽園の記憶があるのでした。つまり、楽園へのあこがれがある。あるいは、危機や苦難に直面するとパラダイスが間近に感じられることもあるのでした。
ところで、ポルトガル語の聖書が日本人に伝えたパラダイスは、発音はパライゾでした。しかし、日本人の耳にはハライソと響きました。やがてハライソは天国の代名詞、キリシタンのあこがれの的となりました。
ところで、細川ガラシャは、火の手が迫りくる部屋で、家老の小笠原昌斎が抜いた刀で自決する際、その顔は幸福感で晴れ晴れとしていたと伝えられています。あきらかに、彼女の信仰の目にはクローズアップされたハライソが映っていたのでした。
しかし、ハライソすなわちパラダイスは過去だけの話ではありません。米国のデューク・メモリアル教会のウィリモン牧師は、命が終わろうとしていた老婦人に聞きました。「今、どんなお気持ちですか。怖くないですか。後悔するようなことはありませんか」。すると彼女は言う。「いいえ、こわくはありません」。牧師は言いました。「そうでしょうね。あなたは十分長生きされたし、立派に生きました。そのことが慰めになるのでしょうね」。しかし、彼女は言いました。「それもあるかも知れません。けれどももっと大きな慰めは、間もなくイエスさまと一緒になれることなのです」
ところで本日の聖書の処刑直前の男はイエスにこう言いました。「あなたの御国で私を思い出してください」。この言葉の意味は「いつの日にか思い出してください」であります。ところがイエスの返事は「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」でした。イエスの返事は、「わかった、いつの日にかあなたを思い出してあげよう」ではありませんでした。
普通、人はパラダイスを遠い将来のように思うかも知れません。永遠の命と言う言葉もありますが、それも終末の時の約束のように受け止めているかも知れません。すごく心理的距離間があって、必ずしも確実な約束とは受け止めていないかもしれないのです。
ところが、本日のイエスは「パラダイスは今日だ」という言い方をしました。たとえば、今息を引き取ろうとしている人は、完全に死んだのちにパラダイスということなのでしょうが、イエスはそのまだ息をしている内にパラダイスだと言ったのでした。
実はこれは罪の赦しと関係があるのでした。つまり、今日、十字架のイエスが共にいるから罪の赦しもある。そのことがパラダイスにほかならない。だからイエスは「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言ったと受け止めればよいのであります。なお、クリスマスは罪の赦しをもたらす神の御子イエスの誕生を祝う日であります。本日の話も、十字架から一転してクリスマスに向かうのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
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二日市教会主日礼拝説教 2023年11月26日(日)
永遠の王キリスト(聖霊降臨後最終主日)
「パラダイスはいずこに」
白髭牧師は肺炎のため済生会二日市病院に入院となりました。退院までの期間以前のものを代議員が代読します。入院は2週間ぐらいの予定です。
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
小郡駅の周辺を歩いてきました。古い街並みがよく残されていましたが、人通りが少なくて、お客が列をなす店が一軒だけありました。志和饅頭という屋号で造りは昔のままでしたが、そこに見えた活気がこの街の印象となったのでした。
さて、本日の福音はルカによる福音書23章33節から43節まででした。けれどもこれは、イエスの十字架の場面の話でした。ところが来週からはクリスマスシーズン。十字架とクリスマス。おかしな取り合わせではあります。
でも、何か理由があるのだろうと思って気がつくのは、本日は教会が守ってきた一年の暦の最終日曜日だということです。最後なので一年を振り返ろう。個人的に振り返れば、色々後悔も反省点もありでしょう。そういう時、十字架の話もあながちお門違いとはならない。そう思ってみたいのであります。
ところで、今のルカ23章ですが、どうしても気になることがありました。それは43節のことですが、『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた』と書かれていることです。
どういうことかというと、「一緒にいる」のはいいのだけど、「楽園にいる」の楽園はおかしい。なぜならこれは、明治の時代から日本の聖書は、楽園ではなくパラダイスだったからです。
それでは、今はなぜパラダイスかというと、1987年、つまり今から35年前に聖書の翻訳の大改訂が行われた時に、パラダイスをやめて楽園にされたからであります。それは昭和62年のことでしたが2年後に昭和は終わっています。つまり、明治、大正、戦前戦後の昭和のほとんど、日本の聖書はパラダイスで一貫してきたのでした。「それを今さらなぜ?」なのであります。
なお、英語の聖書は西暦1611年の欽定訳から現代までずっとパラダイスです。さらに調べれば分かるはずですが、スペイン語も、フランス語も、イタリア語も、ドイツ語も、どの聖書もパラダイスのはず。さらに日本も最近まではそうでした。
けれども、これ以上の詮索は無駄でしょうからやめておきます。ただひとつだけですが、ポルトガル語聖書でもパラダイスでした。ただし、ポルトガル語ですから発音はパライゾです。このポルトガル語聖書は日本に五百年前に持ち込まれたのでした。なお、この話はあとでまたします。
ところで、パラダイスというのはペルシャ語です。大昔、ペルシャの富裕層が所有する大庭園がパラダイスと呼ばれていました。そして、それが旧約聖書にも入ってきたのでした。すなわち、創世記に出てくるエデンの園がパラダイスと呼ばれたからです。ただし、このパラダイスは普通のお庭ではありません。なぜなら、夕方刻になると造り主なる神が散歩する庭園だったからです。また禁断の木の実もありました。そして、アダムとエバも最初はそこにいたのですが、神の怒りで追放された。そこに住めなくなったことが人類の不幸の始まりでした。
しかしながら、人間にはかつてそこにいた楽園の記憶があるのでした。つまり、楽園へのあこがれがある。あるいは、危機や苦難に直面するとパラダイスが間近に感じられることもあるのでした。
ところで、ポルトガル語の聖書が日本人に伝えたパラダイスは、発音はパライゾでした。しかし、日本人の耳にはハライソと響きました。やがてハライソは天国の代名詞、キリシタンのあこがれの的となりました。
ところで、細川ガラシャは、火の手が迫りくる部屋で、家老の小笠原昌斎が抜いた刀で自決する際、その顔は幸福感で晴れ晴れとしていたと伝えられています。あきらかに、彼女の信仰の目にはクローズアップされたハライソが映っていたのでした。
しかし、ハライソすなわちパラダイスは過去だけの話ではありません。米国のデューク・メモリアル教会のウィリモン牧師は、命が終わろうとしていた老婦人に聞きました。「今、どんなお気持ちですか。怖くないですか。後悔するようなことはありませんか」。すると彼女は言う。「いいえ、こわくはありません」。牧師は言いました。「そうでしょうね。あなたは十分長生きされたし、立派に生きました。そのことが慰めになるのでしょうね」。しかし、彼女は言いました。「それもあるかも知れません。けれどももっと大きな慰めは、間もなくイエスさまと一緒になれることなのです」
ところで本日の聖書の処刑直前の男はイエスにこう言いました。「あなたの御国で私を思い出してください」。この言葉の意味は「いつの日にか思い出してください」であります。ところがイエスの返事は「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」でした。イエスの返事は、「わかった、いつの日にかあなたを思い出してあげよう」ではありませんでした。
普通、人はパラダイスを遠い将来のように思うかも知れません。永遠の命と言う言葉もありますが、それも終末の時の約束のように受け止めているかも知れません。すごく心理的距離間があって、必ずしも確実な約束とは受け止めていないかもしれないのです。
ところが、本日のイエスは「パラダイスは今日だ」という言い方をしました。たとえば、今息を引き取ろうとしている人は、完全に死んだのちにパラダイスということなのでしょうが、イエスはそのまだ息をしている内にパラダイスだと言ったのでした。
実はこれは罪の赦しと関係があるのでした。つまり、今日、十字架のイエスが共にいるから罪の赦しもある。そのことがパラダイスにほかならない。だからイエスは「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言ったと受け止めればよいのであります。なお、クリスマスは罪の赦しをもたらす神の御子イエスの誕生を祝う日であります。本日の話も、十字架から一転してクリスマスに向かうのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)