日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

1月29日の説教

2023-01-31 12:20:01 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年1月29日(日)
顕現後第4主日
ミカ6:1~8,Ⅰコリ1:18~31,マタイ5:1~12
悲しむ人はなぜ幸いか
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日の福音はマタイによる福音書の5章1節から12節まででした。私たちは、この中から「幸い」で始まっている3節以下のイエスの教えを見てゆきたいと思います。ところでこの箇所は、「幸いである」という言葉が繰り返し出てきましたので、幸福について考えたい人にはお勧めかもしれません。ただ本当の幸福は寝転んでいてもやってくるものではありません。イエスはどう考えていたのでしょうか。
さてそう思うと、「心の貧しい人は幸い」と聞いても、すぐ賛成とはいかないかも知れません。貧しいのが幸せなんて、社会の常識ではないからです。それでもイエスが正しいのなら、ぜひそれを証明してほしい。まあ、それはともかく、貧しい心とはどういう心なのか。むつかしい問題ではあります。
そこでまず、「心」のことを考えてみたいと思います。それでは、英語では心は何と言うか。中学生向け和英辞典が手元にあるので、それで調べました。すると「心」の英語は二つあることが分かりました。一つは「ハート」だそうで、「彼女は優しい心の持ち主だ」の心はハートである。あと一つはマインドである。「私には彼女の心が分からない」の場合の心はマインドが適切である。
そういう感じでしたが、もう少し調べたいと思いました。なぜならイエスも言っている「心の貧しい人々」はどんな英語なのか。その中での「心」はどんな単語になっているのか知りたいと思ったからです。そこで、英語の聖書を調べてみました。そして分かったことは、「心の貧しい」の心は、ハートでもマインドでもないことでした。なぜならスピリットになっていたからです。
そこで、今度は大人向けの英和辞典でスピリットを調べてみました。すると、スピリットは「霊」あるいは「霊魂」だが、心という意味もあるとなっていました。「彼は心の中では苦しんでいた」を英語で言うとき、心をハートあるいはマインドにするのは感心しない。そういう場合はスピリットを使いなさいと書かれていました。ということは、同じ英語の「心」には、ハート、マインド、そしてイエスが口にしたスピリットがある。以上が分かったのでした。
ところでまったく話は変わりますが、ある本が昭和3年に発行されました。それは薄っぺらな詩集で、そういうのはごく少数の人にしか読んでもらえないものです。ところがこの詩集は95年後の今も売れているのです。
その作者は八木重吉です。詩集の題は『貧しき信徒』でした。重吉は明治31年、今の東京町田市に生まれました。学校の先生を養成する師範学校で学んでいる時に、内村鑑三の影響を受けキリスト教徒になりました。卒業後教員となり、結婚もし、二人の子どもを授かりましたが、結核になり療養生活に入り、闘病ののち三十歳で亡くなりました。
重吉の詩は生前はそれほどでもなく、死後注目され始めます。ことに戦争が終わってからもっと注目されるようになり、筑摩書房が『八木重吉全集全三巻』という立派なのを出したほどで、彼は「日本のキリスト教詩人」と呼ばれました。しかし、その作品はむしろ、声高にキリスト教を口にするでなく、むしろ自然界や人間界を平易な言葉で表現。それなのに大変大胆で豊かなことばづかいが特色でした。こういう詩もあります。
裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまずきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれども妻と子をすてることだけはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(あがない)である
これからは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
これらはわたしの血をあびている
手をふれることもできぬほど淡淡(あわあわ)しくみえても
かならずあなたの肺腑(はいふ)へくいさがって涙を流す                    
ところで重吉の詩集の題、『貧しき信徒』とイエスの「心の貧しい人々」は無関係ではないのかも知れません。
ところで、旧約聖書の詩編には「貧しい」という言葉が何度も出てきます。詩編34編7節もそうで、こう書かれています。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった」。
ところで、覚えておきたいことは、詩編の「貧しい人」とは、神に近く、神に喜ばれている人だということです。貧しいと言われている人は「神に頼っている、貧しい無力な人」なのです。あるいは、イエスが貧しい人を幸いと呼ぶのは、生きるもとが自分の中にはないので、助けを神に見る人のことです。
以上のように考えてくると、「貧しい人」の次の教え、「悲しむ人々は幸いである」の意味もよく見えてまいります。なぜなら、イエスがここで言う悲しみは、死者を悼む人が、愛する者を慕って激しく嘆く悲しに近いからです。ただ、しかし、悲しみというものは実に多種多様なので、この5章4節の場合は
3節の「心の貧しい人は幸い」に直結させて考えるほうがよいのです。ということは、「自分の罪と無価値を、絶望するほどに悲しむ者は幸いである」というようにであります。
以上私たちは本日イエスの教えの「幸い」を考えてきました。そして、そのことからもう一つ、自分に執着するほどに、イエスの祝福からは遠ざかるということも学びたいと思うのであります。
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1月22日の説教

2023-01-22 12:41:17 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年1月22日(日)
顕現後第3主日
イザヤ8:23~9;3,Ⅰコリ1:10~18,マタイ4:12~23
弟子になる
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日の福音はマタイによる福音書の4章12節から23節まででしたが、イエスが湖の畔で仕事中の漁師を見て、彼らを最初の弟子にしたという話になっていました。ところで、イエスの弟子になるとはどういうことなのか、本日はそのことについて考えてみたいと思います。
さて、イエスが漁師を弟子にしたことで、私たちは弟子とは何かを考えさせられると思います。というのも釣りが好きな人はすぐ賛成してくれると思いますが、ベテランの漁師は魚から身を隠す達人だからです。何が言いたいかというと、優秀な弟子ほど人の前で自分を目立たせないものだということです。なぜなら、弟子の務めとは人をイエスに会わせることですから、イエスの邪魔をして自分がしゃしゃり出ることは弟子としては失格だからです。
ところで、今までイエスの弟子になった人たちにはさまざまなパターンがありました。その一人ですが、いま聖書朗読で読まれたコリントの信徒への手紙を書いたパウロもそうでした。まず彼は漁師ではありませんでした。現代なら東大かハーバードの大学者だったからです。その立場でキリスト教を異端であると見なし、それを弾劾する側の一人として活動していました。
なお、パウロがキリスト教を問題視したのは、キリスト教が信仰の対象を十字架につけられ殺されたイエスとしていたからで、そういう人間を崇拝すれば神に呪われると思ったパウロですから、自己の信念で動いていたのですが、いきなり彼の前に復活のイエスが出現するという体験をしてしまったのでした。その結果、今の今まで攻撃していた十字架のイエスを、今度は伝道するという立場に替えられてしまった。パウロは、すぐれた学者でしたが、研究の積み重ねの結果としてではなく、自分の意志に反してイエスの弟子になったのでした。
話は変わりますが、私は先週松崎保育園で子どもたちに、「オフェロと悪魔とイエスさま」というお話をしました。こんな話です。
  むかしむかしあるところに、オフェロという人がいました。オフェロは力持ちでしたが、自分よりも強い人の家来になりたいと思い、お城に行って王様の家来になりました。ある日、王様は皆が悪魔の話をするのを聞いてぶるぶる震え出しました。それを見たオフェロは、悪魔は王様より強いのだと思って、悪魔の家来になりました。
ある日のこと、悪魔がオフェロと歩いていると、道の前にイエスさまの十字架が立っていました。すると悪魔はそれを見てぶるぶる震え出しました。それでオフェロは、イエスさまが悪魔より強いと思って、イエスさまの家来になろうと思いましたが、イエスさまは探しても、どこにもいませんでした。
そこでオフェロは、川のそばに家を建ててそこに住むことにしました。ところがその川はとても大きくて、旅をする人は川の向こうに渡れないでに困っていました。そこでオフェロは、旅をする人を肩車して向こう岸にまで渡してあげるお仕事を始めました。
ある日のこと、ものすごい嵐になました。そこでお仕事をお休みにしていると、外でと誰かが、戸をドンドン叩き始めました。そこで戸を開けてみると一人の少年が立っていて、今日中に川を渡りたいと言いました。オフェロがダメと言ってもどうしてもと言うので、仕方なく肩車して川を渡り始めました。
ところが、少年の体はどんどん重くなってゆきました。歯を食いしばって向こう岸に行ったオフェロはぐったりとなりました。そこで「お前は何て重いんだ」と言うと、少年は「だって世界の人の苦しみを背負っているんだから」と言いました。そう言うと少年の姿は見えなくなりました。するとオフェロは、今のはイエスさまだったと気がついて、家の屋根に十字架を立てました。そして、それからもオフェロは、困っている人を助けるお仕事を続けましたとさ。
以上が、「オフェロと悪魔とイエスさま」という話ですが、これももしかしたら、「イエスの弟子になる」の子ども版になるかもしれません。
ところで話はまた変わりますが、ライオンという会社を創業したのは小林富次郎です。操業は明治24年、39歳の時でした。生活に役立つものをと考え、開発に取り組んだライオン歯磨きは、発売と同時に大評判になりました。
富次郎は36歳の時に受洗しましたが、事業が成功してからも、聖書を毎朝読む習慣は欠かしませんでした。世間の人は「キリスト教で本当に商売ができるのか」と言いました。当時の日本は粗製乱造、二重価格が横行し「嘘をつかずに商売するのは不可能」と思われていました。だから富次郎も最初は、商売とキリスト教の両立は難しいと思っていたのが、彼がクリスチャンだと知られるにつれて、同業者仲間で多大な信用を博するに至ったのでした。
なお、小林富次郎は、社会の利益は気の毒な人たちのために使うよう神が命じておられると信じていた経営者でした。生涯多額の福祉事業への寄付を続けた富次郎のライオンは、今でも「わが社は愛の精神の実践を経営の基本にし、人々の幸福と生活の向上に寄与する」を社是としております。
同志社女子大の山下智子准教授によると、明治時代にはこの他にも多くのクリスチャン実業家がいました。日本で最初のドライクリーニングを成功させ、会社の経営目標を「自分にしてもらいたいことは他人にもそのようにしなさい」に掲げていた白洋舎の五十嵐健治、「善い人が良い糸を作る」をモットーとしていたグンゼの波多野鶴吉、社長を辞めたあと全国を伝道のために巡回した森永製菓の森永太一郎。そして山下教授はこう書いていました。彼らにとっての信仰は個人の内面の問題に留まらず、理想の社会の実現のために必要不可欠なのだった。
以上、私たちはイエスの弟子となることについて、色々なことを考えてきました。どんな道を歩むかは各自の問題ですが、自分の信仰の内容を点検する機会としてみたいと思うものです。
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1月15日の説教

2023-01-17 13:55:35 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年1月15日(日)
顕現後第2主日
イザヤ49:1~7,Ⅰコリ1:1~9,ヨハネ1:29~42
自分の役割を明確に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日礼拝の最後で歌う「主われを愛す」は、明治の生まれで「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰も幼い頃歌いました。7つ上の姉がキリスト教の学校で習ったのを家でも歌ったので呂律の回らぬ弟も覚えたからです。ただ姉の「主われを」は英語だったので、実に奇妙な物真似となり、家中いつも大爆笑でした。

さて、本日の福音はヨハネによる福音書1章29節から42節まででした。話が二つあり、最初がイエスとバプテスマのヨハネ、もう一つはイエスと弟子たちの話でしたが、全体的にはヨハネが目立つ内容でした。
ところで、ヨハネは預言者でした。そして預言者たちの本来の場所は旧約聖書なのです。けれども聖書が旧約から新約になるとき、その間に断絶があってはならないので、ヨハネが橋渡し役として登場したのでした。
ところで、バプテスマのヨハネがなした最大のことは、イエスに洗礼を授けたことでした。ただしそのため、後世の人に良くない印象を与えました。というのも、洗礼を授けた人は洗礼を受けた人よりも偉いと考えがあり、そうなるとイエスに洗礼を授けたヨハネがイエスより上になりますが、それはとんでもないと腹を立てる人が出てきたからです。
しかしそういう「どっちが偉い」の議論は、イエスが禁止しており、「人の上になりたい者は他者に仕える者になれ」と教えていました。それに本日のヨハネもイエスは「私にまさる」と言っています。二人は自分の役割をよくわきまえ、「どっちが」の論争に首を突っ込むことはしませんでした。

ところで、今読んだのはヨハネ福音書でした。このヨハネ福音書は先週の西日本新聞でも取り上げられました。8日の日曜版ですが、その記事の見出しは「苦難と希望―私を支えた言葉」でした。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんに新聞記者がインタビューした際のお話を載せたもので、記事にはさらに、大きな活字で聖書の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」というイエスの言葉も載せていました。
ところで、拉致事件なら日本の人は誰でも知ることですが、新聞のテーマは「私を支えた言葉」で、事件当事者の横田さんを困難の中で支えた言葉にスポットライトを当てていました。つまり彼女は「それはヨハネによる福音書の9章3節にあるイエスさまの言葉です」と答えたので、新聞もその言葉「この人が罪をおかしたからでもなく、両親が罪を犯したからでもない」を大きく紹介したのでした。ただそれだけでは一般読者はピンと来ませんから、横田さん自身の解説も載せたのでした。
それによると、早紀江さんは、めぐみさんの失踪直後は日本海に身を投げて死ぬことばかり考える日々でした。娘は寒空の下で生きているのか死んでいるのか。毎日胸が締め付けられていたが、そうい時期彼女を次々と訪ねてきたのが宗教団体の人たちで、「ご先祖の祭りかたが足りない」、「因果応報だ」と言うので、それが彼女の胸をえぐるのでした。
しかしある日娘の友人の母親が教えてくれた聖書が、イエスとの出会いのきっかけとなります。そこでは、イエスの弟子たちが、路上の生まれつきの盲人を指して「盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞いたとき、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」と言っていました。
早紀江さんはこの言葉で「めぐみの罪でもない、私の罪でもない」という励ましを受け、不思議ななぐさめと喜びを得ます。そして後日夫の滋さんと共に洗礼を受けました。でも、めぐみさんの事件以来四十年以上、今も解決していません。それでも早紀江さんは「悲嘆と自責の念に駆られる日々に触れた聖書は心の支えになっている」とインタビューに答えたのでした。
ところで人は何か不幸があると、それを「神の罰」に結び付けたり「何々のたたり」とか「何とかの呪い」と責めたりする傾向があります。しかし、考えてみればそれらはどれも解釈に過ぎません。なのに思い込みがすごくなると絶対的な解釈になり、周囲も巻き込み、抜け出せなくなります。
ところで、早紀江さんのヨハネ福音書9章2節では、弟子たちが世間を代表するように「生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、両親が罪を犯したためか」を口にしました。しかし、それは今考えたように一つの解釈、ただ当時の大多数がその考えだったから、絶対的な解釈となっていました。早紀江さんに、「ご先祖の祭りかたが足りない」「因果応報だ」と言う宗教団体の人間も同じで、それを言うので当事者はますます苦しめられたのでした。
そのような、問題だらけの解釈の中で、イエスは自分の新しい解釈を示したのでした。それが今のヨハネ9章3節にある「神の業がこの人に現れるためである」でした。横田さんは正直な人で「その言葉の意味は理解できなかった」と言っています。そんなことより、イエスが彼女を呪いやたたりから解き放っでくれたことのほうが大事でした。
つまり、呪いやたたりを説く人たちが早紀江さんの苦しみを倍増させたのに対して、イエスは「神のわざ」という解釈で彼女と対面したのでした。その対面は彼女の人生に新しい解釈をもたらし、立ち直らせました。言葉自体の意味がよくわからなくても、彼女が立ち直ってしまったことのほうが重要だと言えるのです。イエスとの出会いとはそういうことなのです。
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説教

2023-01-17 13:47:40 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年1月15日(日)
顕現後第2主日
イザヤ49:1~7,Ⅰコリ1:1~9,ヨハネ1:29~42
自分の役割を明確に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日礼拝の最後で歌う「主われを愛す」は、明治の生まれで「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰も幼い頃歌いました。7つ上の姉がキリスト教の学校で習ったのを家でも歌ったので呂律の回らぬ弟も覚えたからです。ただ姉の「主われを」は英語だったので、実に奇妙な物真似となり、家中いつも大爆笑でした。

さて、本日の福音はヨハネによる福音書1章29節から42節まででした。話が二つあり、最初がイエスとバプテスマのヨハネ、もう一つはイエスと弟子たちの話でしたが、全体的にはヨハネが目立つ内容でした。
ところで、ヨハネは預言者でした。そして預言者たちの本来の場所は旧約聖書なのです。けれども聖書が旧約から新約になるとき、その間に断絶があってはならないので、ヨハネが橋渡し役として登場したのでした。
ところで、バプテスマのヨハネがなした最大のことは、イエスに洗礼を授けたことでした。ただしそのため、後世の人に良くない印象を与えました。というのも、洗礼を授けた人は洗礼を受けた人よりも偉いと考えがあり、そうなるとイエスに洗礼を授けたヨハネがイエスより上になりますが、それはとんでもないと腹を立てる人が出てきたからです。
しかしそういう「どっちが偉い」の議論は、イエスが禁止しており、「人の上になりたい者は他者に仕える者になれ」と教えていました。それに本日のヨハネもイエスは「私にまさる」と言っています。二人は自分の役割をよくわきまえ、「どっちが」の論争に首を突っ込むことはしませんでした。

ところで、今読んだのはヨハネ福音書でした。このヨハネ福音書は先週の西日本新聞でも取り上げられました。8日の日曜版ですが、その記事の見出しは「苦難と希望―私を支えた言葉」でした。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんに新聞記者がインタビューした際のお話を載せたもので、記事にはさらに、大きな活字で聖書の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」というイエスの言葉も載せていました。
ところで、拉致事件なら日本の人は誰でも知ることですが、新聞のテーマは「私を支えた言葉」で、事件当事者の横田さんを困難の中で支えた言葉にスポットライトを当てていました。つまり彼女は「それはヨハネによる福音書の9章3節にあるイエスさまの言葉です」と答えたので、新聞もその言葉「この人が罪をおかしたからでもなく、両親が罪を犯したからでもない」を大きく紹介したのでした。ただそれだけでは一般読者はピンと来ませんから、横田さん自身の解説も載せたのでした。
それによると、早紀江さんは、めぐみさんの失踪直後は日本海に身を投げて死ぬことばかり考える日々でした。娘は寒空の下で生きているのか死んでいるのか。毎日胸が締め付けられていたが、そうい時期彼女を次々と訪ねてきたのが宗教団体の人たちで、「ご先祖の祭りかたが足りない」、「因果応報だ」と言うので、それが彼女の胸をえぐるのでした。
しかしある日娘の友人の母親が教えてくれた聖書が、イエスとの出会いのきっかけとなります。そこでは、イエスの弟子たちが、路上の生まれつきの盲人を指して「盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞いたとき、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」と言っていました。
早紀江さんはこの言葉で「めぐみの罪でもない、私の罪でもない」という励ましを受け、不思議ななぐさめと喜びを得ます。そして後日夫の滋さんと共に洗礼を受けました。でも、めぐみさんの事件以来四十年以上、今も解決していません。それでも早紀江さんは「悲嘆と自責の念に駆られる日々に触れた聖書は心の支えになっている」とインタビューに答えたのでした。
ところで人は何か不幸があると、それを「神の罰」に結び付けたり「何々のたたり」とか「何とかの呪い」と責めたりする傾向があります。しかし、考えてみればそれらはどれも解釈に過ぎません。なのに思い込みがすごくなると絶対的な解釈になり、周囲も巻き込み、抜け出せなくなります。
ところで、早紀江さんのヨハネ福音書9章2節では、弟子たちが世間を代表するように「生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、両親が罪を犯したためか」を口にしました。しかし、それは今考えたように一つの解釈、ただ当時の大多数がその考えだったから、絶対的な解釈となっていました。早紀江さんに、「ご先祖の祭りかたが足りない」「因果応報だ」と言う宗教団体の人間も同じで、それを言うので当事者はますます苦しめられたのでした。
そのような、問題だらけの解釈の中で、イエスは自分の新しい解釈を示したのでした。それが今のヨハネ9章3節にある「神の業がこの人に現れるためである」でした。横田さんは正直な人で「その言葉の意味は理解できなかった」と言っています。そんなことより、イエスが彼女を呪いやたたりから解き放っでくれたことのほうが大事でした。
つまり、呪いやたたりを説く人たちが早紀江さんの苦しみを倍増させたのに対して、イエスは「神のわざ」という解釈で彼女と対面したのでした。その対面は彼女の人生に新しい解釈をもたらし、立ち直らせました。言葉自体の意味がよくわからなくても、彼女が立ち直ってしまったことのほうが重要だと言えるのです。イエスとの出会いとはそういうことなのです。
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説教

2023-01-17 13:38:58 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年1月15日(日)
顕現後第2主日
イザヤ49:1~7,Ⅰコリ1:1~9,ヨハネ1:29~42
自分の役割を明確に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日礼拝の最後で歌う「主われを愛す」は、明治の生まれで「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰も幼い頃歌いました。7つ上の姉がキリスト教の学校で習ったのを家でも歌ったので呂律の回らぬ弟も覚えたからです。ただ姉の「主われを」は英語だったので、実に奇妙な物真似となり、家中いつも大爆笑でした。

さて、本日の福音はヨハネによる福音書1章29節から42節まででした。話が二つあり、最初がイエスとバプテスマのヨハネ、もう一つはイエスと弟子たちの話でしたが、全体的にはヨハネが目立つ内容でした。
ところで、ヨハネは預言者でした。そして預言者たちの本来の場所は旧約聖書なのです。けれども聖書が旧約から新約になるとき、その間に断絶があってはならないので、ヨハネが橋渡し役として登場したのでした。
ところで、バプテスマのヨハネがなした最大のことは、イエスに洗礼を授けたことでした。ただしそのため、後世の人に良くない印象を与えました。というのも、洗礼を授けた人は洗礼を受けた人よりも偉いと考えがあり、そうなるとイエスに洗礼を授けたヨハネがイエスより上になりますが、それはとんでもないと腹を立てる人が出てきたからです。
しかしそういう「どっちが偉い」の議論は、イエスが禁止しており、「人の上になりたい者は他者に仕える者になれ」と教えていました。それに本日のヨハネもイエスは「私にまさる」と言っています。二人は自分の役割をよくわきまえ、「どっちが」の論争に首を突っ込むことはしませんでした。

ところで、今読んだのはヨハネ福音書でした。このヨハネ福音書は先週の西日本新聞でも取り上げられました。8日の日曜版ですが、その記事の見出しは「苦難と希望―私を支えた言葉」でした。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんに新聞記者がインタビューした際のお話を載せたもので、記事にはさらに、大きな活字で聖書の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」というイエスの言葉も載せていました。
ところで、拉致事件なら日本の人は誰でも知ることですが、新聞のテーマは「私を支えた言葉」で、事件当事者の横田さんを困難の中で支えた言葉にスポットライトを当てていました。つまり彼女は「それはヨハネによる福音書の9章3節にあるイエスさまの言葉です」と答えたので、新聞もその言葉「この人が罪をおかしたからでもなく、両親が罪を犯したからでもない」を大きく紹介したのでした。ただそれだけでは一般読者はピンと来ませんから、横田さん自身の解説も載せたのでした。
それによると、早紀江さんは、めぐみさんの失踪直後は日本海に身を投げて死ぬことばかり考える日々でした。娘は寒空の下で生きているのか死んでいるのか。毎日胸が締め付けられていたが、そうい時期彼女を次々と訪ねてきたのが宗教団体の人たちで、「ご先祖の祭りかたが足りない」、「因果応報だ」と言うので、それが彼女の胸をえぐるのでした。
しかしある日娘の友人の母親が教えてくれた聖書が、イエスとの出会いのきっかけとなります。そこでは、イエスの弟子たちが、路上の生まれつきの盲人を指して「盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞いたとき、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」と言っていました。
早紀江さんはこの言葉で「めぐみの罪でもない、私の罪でもない」という励ましを受け、不思議ななぐさめと喜びを得ます。そして後日夫の滋さんと共に洗礼を受けました。でも、めぐみさんの事件以来四十年以上、今も解決していません。それでも早紀江さんは「悲嘆と自責の念に駆られる日々に触れた聖書は心の支えになっている」とインタビューに答えたのでした。
ところで人は何か不幸があると、それを「神の罰」に結び付けたり「何々のたたり」とか「何とかの呪い」と責めたりする傾向があります。しかし、考えてみればそれらはどれも解釈に過ぎません。なのに思い込みがすごくなると絶対的な解釈になり、周囲も巻き込み、抜け出せなくなります。
ところで、早紀江さんのヨハネ福音書9章2節では、弟子たちが世間を代表するように「生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、両親が罪を犯したためか」を口にしました。しかし、それは今考えたように一つの解釈、ただ当時の大多数がその考えだったから、絶対的な解釈となっていました。早紀江さんに、「ご先祖の祭りかたが足りない」「因果応報だ」と言う宗教団体の人間も同じで、それを言うので当事者はますます苦しめられたのでした。
そのような、問題だらけの解釈の中で、イエスは自分の新しい解釈を示したのでした。それが今のヨハネ9章3節にある「神の業がこの人に現れるためである」でした。横田さんは正直な人で「その言葉の意味は理解できなかった」と言っています。そんなことより、イエスが彼女を呪いやたたりから解き放っでくれたことのほうが大事でした。
つまり、呪いやたたりを説く人たちが早紀江さんの苦しみを倍増させたのに対して、イエスは「神のわざ」という解釈で彼女と対面したのでした。その対面は彼女の人生に新しい解釈をもたらし、立ち直らせました。言葉自体の意味がよくわからなくても、彼女が立ち直ってしまったことのほうが重要だと言えるのです。イエスとの出会いとはそういうことなのです。
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