二日市教会主日礼拝説教 2023年1月29日(日)
顕現後第4主日
ミカ6:1~8,Ⅰコリ1:18~31,マタイ5:1~12
悲しむ人はなぜ幸いか
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日の福音はマタイによる福音書の5章1節から12節まででした。私たちは、この中から「幸い」で始まっている3節以下のイエスの教えを見てゆきたいと思います。ところでこの箇所は、「幸いである」という言葉が繰り返し出てきましたので、幸福について考えたい人にはお勧めかもしれません。ただ本当の幸福は寝転んでいてもやってくるものではありません。イエスはどう考えていたのでしょうか。
さてそう思うと、「心の貧しい人は幸い」と聞いても、すぐ賛成とはいかないかも知れません。貧しいのが幸せなんて、社会の常識ではないからです。それでもイエスが正しいのなら、ぜひそれを証明してほしい。まあ、それはともかく、貧しい心とはどういう心なのか。むつかしい問題ではあります。
そこでまず、「心」のことを考えてみたいと思います。それでは、英語では心は何と言うか。中学生向け和英辞典が手元にあるので、それで調べました。すると「心」の英語は二つあることが分かりました。一つは「ハート」だそうで、「彼女は優しい心の持ち主だ」の心はハートである。あと一つはマインドである。「私には彼女の心が分からない」の場合の心はマインドが適切である。
そういう感じでしたが、もう少し調べたいと思いました。なぜならイエスも言っている「心の貧しい人々」はどんな英語なのか。その中での「心」はどんな単語になっているのか知りたいと思ったからです。そこで、英語の聖書を調べてみました。そして分かったことは、「心の貧しい」の心は、ハートでもマインドでもないことでした。なぜならスピリットになっていたからです。
そこで、今度は大人向けの英和辞典でスピリットを調べてみました。すると、スピリットは「霊」あるいは「霊魂」だが、心という意味もあるとなっていました。「彼は心の中では苦しんでいた」を英語で言うとき、心をハートあるいはマインドにするのは感心しない。そういう場合はスピリットを使いなさいと書かれていました。ということは、同じ英語の「心」には、ハート、マインド、そしてイエスが口にしたスピリットがある。以上が分かったのでした。
ところでまったく話は変わりますが、ある本が昭和3年に発行されました。それは薄っぺらな詩集で、そういうのはごく少数の人にしか読んでもらえないものです。ところがこの詩集は95年後の今も売れているのです。
その作者は八木重吉です。詩集の題は『貧しき信徒』でした。重吉は明治31年、今の東京町田市に生まれました。学校の先生を養成する師範学校で学んでいる時に、内村鑑三の影響を受けキリスト教徒になりました。卒業後教員となり、結婚もし、二人の子どもを授かりましたが、結核になり療養生活に入り、闘病ののち三十歳で亡くなりました。
重吉の詩は生前はそれほどでもなく、死後注目され始めます。ことに戦争が終わってからもっと注目されるようになり、筑摩書房が『八木重吉全集全三巻』という立派なのを出したほどで、彼は「日本のキリスト教詩人」と呼ばれました。しかし、その作品はむしろ、声高にキリスト教を口にするでなく、むしろ自然界や人間界を平易な言葉で表現。それなのに大変大胆で豊かなことばづかいが特色でした。こういう詩もあります。
裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまずきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれども妻と子をすてることだけはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(あがない)である
これからは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
これらはわたしの血をあびている
手をふれることもできぬほど淡淡(あわあわ)しくみえても
かならずあなたの肺腑(はいふ)へくいさがって涙を流す
ところで重吉の詩集の題、『貧しき信徒』とイエスの「心の貧しい人々」は無関係ではないのかも知れません。
ところで、旧約聖書の詩編には「貧しい」という言葉が何度も出てきます。詩編34編7節もそうで、こう書かれています。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった」。
ところで、覚えておきたいことは、詩編の「貧しい人」とは、神に近く、神に喜ばれている人だということです。貧しいと言われている人は「神に頼っている、貧しい無力な人」なのです。あるいは、イエスが貧しい人を幸いと呼ぶのは、生きるもとが自分の中にはないので、助けを神に見る人のことです。
以上のように考えてくると、「貧しい人」の次の教え、「悲しむ人々は幸いである」の意味もよく見えてまいります。なぜなら、イエスがここで言う悲しみは、死者を悼む人が、愛する者を慕って激しく嘆く悲しに近いからです。ただ、しかし、悲しみというものは実に多種多様なので、この5章4節の場合は
3節の「心の貧しい人は幸い」に直結させて考えるほうがよいのです。ということは、「自分の罪と無価値を、絶望するほどに悲しむ者は幸いである」というようにであります。
以上私たちは本日イエスの教えの「幸い」を考えてきました。そして、そのことからもう一つ、自分に執着するほどに、イエスの祝福からは遠ざかるということも学びたいと思うのであります。
顕現後第4主日
ミカ6:1~8,Ⅰコリ1:18~31,マタイ5:1~12
悲しむ人はなぜ幸いか
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日の福音はマタイによる福音書の5章1節から12節まででした。私たちは、この中から「幸い」で始まっている3節以下のイエスの教えを見てゆきたいと思います。ところでこの箇所は、「幸いである」という言葉が繰り返し出てきましたので、幸福について考えたい人にはお勧めかもしれません。ただ本当の幸福は寝転んでいてもやってくるものではありません。イエスはどう考えていたのでしょうか。
さてそう思うと、「心の貧しい人は幸い」と聞いても、すぐ賛成とはいかないかも知れません。貧しいのが幸せなんて、社会の常識ではないからです。それでもイエスが正しいのなら、ぜひそれを証明してほしい。まあ、それはともかく、貧しい心とはどういう心なのか。むつかしい問題ではあります。
そこでまず、「心」のことを考えてみたいと思います。それでは、英語では心は何と言うか。中学生向け和英辞典が手元にあるので、それで調べました。すると「心」の英語は二つあることが分かりました。一つは「ハート」だそうで、「彼女は優しい心の持ち主だ」の心はハートである。あと一つはマインドである。「私には彼女の心が分からない」の場合の心はマインドが適切である。
そういう感じでしたが、もう少し調べたいと思いました。なぜならイエスも言っている「心の貧しい人々」はどんな英語なのか。その中での「心」はどんな単語になっているのか知りたいと思ったからです。そこで、英語の聖書を調べてみました。そして分かったことは、「心の貧しい」の心は、ハートでもマインドでもないことでした。なぜならスピリットになっていたからです。
そこで、今度は大人向けの英和辞典でスピリットを調べてみました。すると、スピリットは「霊」あるいは「霊魂」だが、心という意味もあるとなっていました。「彼は心の中では苦しんでいた」を英語で言うとき、心をハートあるいはマインドにするのは感心しない。そういう場合はスピリットを使いなさいと書かれていました。ということは、同じ英語の「心」には、ハート、マインド、そしてイエスが口にしたスピリットがある。以上が分かったのでした。
ところでまったく話は変わりますが、ある本が昭和3年に発行されました。それは薄っぺらな詩集で、そういうのはごく少数の人にしか読んでもらえないものです。ところがこの詩集は95年後の今も売れているのです。
その作者は八木重吉です。詩集の題は『貧しき信徒』でした。重吉は明治31年、今の東京町田市に生まれました。学校の先生を養成する師範学校で学んでいる時に、内村鑑三の影響を受けキリスト教徒になりました。卒業後教員となり、結婚もし、二人の子どもを授かりましたが、結核になり療養生活に入り、闘病ののち三十歳で亡くなりました。
重吉の詩は生前はそれほどでもなく、死後注目され始めます。ことに戦争が終わってからもっと注目されるようになり、筑摩書房が『八木重吉全集全三巻』という立派なのを出したほどで、彼は「日本のキリスト教詩人」と呼ばれました。しかし、その作品はむしろ、声高にキリスト教を口にするでなく、むしろ自然界や人間界を平易な言葉で表現。それなのに大変大胆で豊かなことばづかいが特色でした。こういう詩もあります。
裸になってとびだし
基督のあしもとにひざまずきたい
しかしわたしには妻と子があります
すてることができるだけ捨てます
けれども妻と子をすてることだけはできない
妻と子をすてぬゆえならば
永劫の罪もくゆるところではない
ここに私の詩があります
これが私の贖(あがない)である
これからは必ずひとつびとつ十字架を背負うている
これらはわたしの血をあびている
手をふれることもできぬほど淡淡(あわあわ)しくみえても
かならずあなたの肺腑(はいふ)へくいさがって涙を流す
ところで重吉の詩集の題、『貧しき信徒』とイエスの「心の貧しい人々」は無関係ではないのかも知れません。
ところで、旧約聖書の詩編には「貧しい」という言葉が何度も出てきます。詩編34編7節もそうで、こう書かれています。「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった」。
ところで、覚えておきたいことは、詩編の「貧しい人」とは、神に近く、神に喜ばれている人だということです。貧しいと言われている人は「神に頼っている、貧しい無力な人」なのです。あるいは、イエスが貧しい人を幸いと呼ぶのは、生きるもとが自分の中にはないので、助けを神に見る人のことです。
以上のように考えてくると、「貧しい人」の次の教え、「悲しむ人々は幸いである」の意味もよく見えてまいります。なぜなら、イエスがここで言う悲しみは、死者を悼む人が、愛する者を慕って激しく嘆く悲しに近いからです。ただ、しかし、悲しみというものは実に多種多様なので、この5章4節の場合は
3節の「心の貧しい人は幸い」に直結させて考えるほうがよいのです。ということは、「自分の罪と無価値を、絶望するほどに悲しむ者は幸いである」というようにであります。
以上私たちは本日イエスの教えの「幸い」を考えてきました。そして、そのことからもう一つ、自分に執着するほどに、イエスの祝福からは遠ざかるということも学びたいと思うのであります。