日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

10月22日

2023-10-24 13:53:25 | 日記
23年10月22日:聖霊降臨後第21主日
イザヤ45:1~7,Ⅰテサ1:1~10,マタイ22:15~22
「主の祈り⑮雪の女王の主の祈り」

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主の祈りについて考えてきた私たちは、今回は童話における主の祈りということで考えたいとおもいます。その童話はアンデルセンの『雪の女王』のことです。なお、雪の女王と言うとディズニーの『アナと雪の女王』になりそうですが、両者は内容的には無関係です。ディズニーはアンデルセンの『雪の女王』からインスピレーションをもらったにすぎないからです。

それでは、童話『雪の女王』の話を見ておきます。なお岩波文庫のアンデルセン童話では、これは57頁もあります。「マッチ売りの少女」が5頁、「みにくいあひるのこ」が17頁であることを思えばかなりの長編です。

さて話は、悪魔がとんでもない鏡を作ったことから始まります。この鏡に映すと美しいものは醜く、醜いものはもっと醜く見えるのでした。ところが鏡はうっかり割れて粉々になり、破片が世界中に飛び散ることになります。すると、カイという男の子の心臓にもそれが刺さりました。カイにはゲルダという仲良しの女の子がいるのですが、彼女がいない時一人で雪の中を遊んでいると、雪の女王がソリに乗って、カイを連れ去ろうとします。彼はとっさに主の祈りを唱えて自分を守ろうとしますが、頭に浮かぶのは算数の九九ばかり。彼はあっけなく拉致されました。

カイがいないのを悲しんだゲルダは、春になるとその捜索の旅に出ました。途中で見事な花園に魅了されるなど道草もしますが、われに返って再び進むと親切な王子と王女に出あい、素晴らしい馬車を与えられ、それに乗って旅を続けました。ところが豪華な馬車が山賊にねらわれ殺されかけました。その時山賊の娘が助けてくれ、ゲルダの気持を知った娘は頭のいいトナカイを与えて、それで最北の雪の女王の所に行くよう言いました。
こうしてお城が目前の所まで来ると、雪の軍団が襲ってきました。しかしゲルダがとっさに主の祈りを唱えると、彼女の吐く真っ白な息が膨れ上がり天使の軍団になり敵を打ち負かします。こうして彼女はお城の中に入りました。

お城は、雪の女王は外出中でカイ一人でした。しかし彼の心臓は氷の塊そのもの、その彼をゲルダが抱きしめ、目から熱い涙を流すと、彼の心臓に刺さった鏡の破片が飛び出しました。こうしてカイは本来のカイに戻り、二人は手をつないでお城を出て、なつかしい故郷へと帰りつきます。家の戸口から階段を上って部屋に入るドアを通過した時、自分たちはもう大人だと気がつきます。

以上が、アンデルセンの『雪の女王』の話です。長編なので読み進むにつれおやっと思うことがたくさん出てくると思いますが、本日の私たちはその中のキリスト教的なものに的を絞りたいと思います。

ところで、この童話で興味深いことは、主人公たちが賛美歌を何度も歌うことです。歌詞は「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」でした。賛美歌ですが、デンマークの子どもたちもよく知っていたのでしょう。
ところで、これは私たちもよく知っているのです。なぜなら、日本人はこれを「エッサイの根よりおいいでたる」で歌っているからです。しかし、童話を読んでもそういうことまでは気がつかない。残念な気がします。
なお、童話では、この歌は賛美歌と呼ばれていますが、教会の礼拝で歌う歌ではなく、教会の外で歌われたクリスマスキャロルなのでした。だから『雪の女王』を読む子どもにもお馴染みなのでした。ところで、アンデルセンはこのキャロルを物語の隠し味のように用いています。

さて、この童話で宗教的色彩が濃厚なのは、悪魔の鏡の話です。今もみたように、人がこの鏡に映されると、美しい人も醜く映り、醜い者はもっとひどい人間に映るのでした。ところがある日その鏡は粉々に砕け、破片が世界中を飛び回るようになります。だから、二人が住む町にもそれは飛んできました。そしてその破片がカイの心臓に刺さったので大変なことになりました。カイは言った。「あ、痛い。胸のところがチクリとしたよ」。それを聞くとゲルダは泣き出した。カイは言う、「なぜ泣いているの。そんないやな顔をして。ボクはもう何ともない」。そして言います。「そこのバラは虫に食われてらあ。あっちのはねじれている。きたならしいバラばかりだなあ」。カイはバラをむしり取ってしまった。また、ゲルダが絵本を持ってくると「そんなの赤ん坊が読む本だ」と言い、彼を心から愛しているゲルダをからかうようになりました。

ところが、そのカイを拉致するために女王が現れたとき、身を守ってくれるはずの主の祈りが思い出せなかったため、女王はいとも簡単に彼を連れ去れたのでした。しかし、少女ゲルダの場合は、反対のことが起きます。恐るべき雪の軍勢が襲撃してきた時、彼女の口をついて出たのは主の祈りだったからです。このようにアンデルセンは主の祈りがいかに大事かを子どもたちに伝えたのでした。

ところで、最後の場面でもういちど「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」が言われ、家のおばあさんの聖書朗読の声が流れます。「汝ら、もし、おさなごのごとくならずば、神の国に入ることを得じ(マルコ10:15)」。でもカイもゲルダももう大人でした。だからこそ、二人で昔歌った歌、そしておばあさんが朗読する聖書のことが書かれ、人はどんな大人になればいいのかをアンデルセンは指し示していたのでした。

このように『雪の女王』は大人にもメッセージを伝えてくれます。それにしても、主の祈りが童話の世界にもあったなんて驚きであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)


次週 10月29日 宗教改革主日
説教題:主の祈り⑯ 主の祈りとアヴェマリア
説教者:白髭 義牧師
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10月15日

2023-10-17 12:34:42 | 日記
23年10月15日:聖霊降臨後第20主日
イザヤ25:1~9,フィリピ4:1~9,マタイ22:1~14
「主の祈り⑭阿蘇の山と主の祈り」
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わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 主の祈りの学びを続けてまいりましたが、本日は今までとは違った観点からそれを考えてみたいと思います。
ところで、2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起きたその日、私は卒業論文に取り組んでいました。その時私は59歳でしたが、それまでの社会人生活に区切りをつけ、東京のルーテルの神学校に入学していました。
 卒論は神学生にとっての一大事業で、それを提出しなければ牧師になれません。でも何について書いたらよいか、これは大いに迷います。ただ私の基本的考えは、どうせ書くなら聖書に関連したものがいい、それなら牧師になってから役に立つかもしれないからということでした。しかし、漠然と聖書といっても幅がありすぎます。テーマは無数にあるわけで、目移りがしてなりません。
 そういうわけで、ああでもない、こうでもないと迷っていた時、神学校のある授業でとても興味深いことを知りました。それは、マタイ福音書についてでしたが、その中の山上の説教が考えに考え抜かれた見事な内容になっているということでした。つまり、精密な設計図をもとに作られた見事な建築物が山上の説教だというのです。マタイ福音書の山上の説教は新約の第6頁から12頁までですが、百パーセント、イエスの教えです。しかも、ノンクリスチャンでもよく知っている教えの言葉もたくさんあります。それらをピックアップしてみると、こういうのがあります。
「心の貧しい人々は幸いである」、「あなたがたは地の塩である、世の光である」、「兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける」、「悪人に手向かってはならない」「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、「汝の右手がしていることを左手には知らせるな」、「自分の命のことで、何を食べよう、何を着ようと思い煩うな」、「明日のことは明日みずからが思い悩む」、「人を裁くな、自分も裁かれないためである」等々ですが、そういうのがいっぱいの宝石箱みたいなものかも知れません。

 けれどもその宝石箱が、素敵な宝石を適当に詰め込んだものなのか、それとも一つ一つの宝石の収まる場所が考えられた箱なのか。もし、ただ漫然とした感じで入れられているのでないのなら、具体的にはどんな配列になっているのか。私はそれまで、そういうことは考えたことがありませんでした。そこで、卒業論文のテーマも山上の説教にしてみようと思いついたのでした。
 けれども、それを書くためには、それがどのような設計図・見取り図に基づいているのかを理解しなくてはなりません。実はそれを明らかにすることは一筋縄では行きませんでした。何せ、重要な宝石がひしめきあっているのですから、取り扱いも慎重でなければなりません。ところが、あることが分かって、それが突破口になったのでした。それは、山上の説教の中心は主の祈りであるということでした。

 なお、中心という意味には、二つがあります。まず一つですが、山上の説教のマタイ5章1節から7章の29節までめくってみれば、たしかに主の祈りがその真ん中にあることが分かると思います。つまり、物理的に中心なのです。ただそういうことが分かってもあまり意味はありません。むしろあと一つの中心が大事です。
なおそれを考えるためには、「敵を愛せよ」とか「裁いてはならない」のような教えの一つ一つを吟味し直す必要があるのです。なぜなら、イエスのこれらの教えを実行に移すことでの困難さを覚える人が少なくないからです。ある意味で、山上の説教は、実行不可能な教えがわんさかあって、それらの中心に主の祈りがあると言えるのです。
つまり、教えには、実行可能な教えと実行不可能な教えがあるのです。実行可能なら少し頑張れば実行可能ですが、実行不可能ならどんなに努力しても、逆立ちしても、結局実行不可能なのです。それほど面倒な教えなら無視してしまえばよいという考えもあるかもしれませんが、イエスの教えは、それを無視しては人生自体がやってゆけなくなるくらい重要なものばかりです。
つまり、そういう教えに取り囲まれるようにして、主の祈りが中心に置かれているのです。それは何のためかというと、主の祈りは「われらの罪を赦したまえ」があるように罪の赦しのための祈りだからです。そして、実行不可能と思われたのは、それを自分の罪が邪魔をしているからなのです。そして、これが山上の説教の基本構造なのです。

ところで私は自分の卒業論文に一枚の絵を書き添えました。それは、簡単に言うと二重丸の絵でした。外側に大きな円を描いて、内側に小さな円を描いた絵で、小さいのが主の祈り、大きいのが山上の説教の全体でした。実はそれだけでは、退屈な平面図ですが、私はそれを立体的に見せようと努力しました。あまり成功したとは言えないかもしれませんが、言いたかったことは、イエスの教えを実行できなくて悩んでいる人たちが、主の祈りつまり罪の赦しをめざして登ってくる。山上の説教ガイドという感じで描いた絵でした。
ところで、私がこの卒業論文を終えて神学校を卒業し、最初に赴いたのが熊本の教会でした。熊本には雄大な阿蘇があり、外輪山にある大観峰に立った時、ここから山上の説教が見渡せると思ってしまいました。そして、そこから見える中心部で噴煙を上げているのが主の祈りだと思えるのは実に楽しいことです。熊本時代は、阿蘇は何度も行きました。そのせいか、卒業論文で山上の説教を取り上げてよかったなあと思えるようになったのでした。
以上のことから、主の祈りの核心部は罪の赦しであることを、あらためて肝に銘じたいと思うものであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週10月22日 聖霊降臨後第21主日
説教題:主の祈り⑮雪の女王の主の祈り
説教者:白髭義牧師
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10月8日

2023-10-12 12:26:09 | 日記
23年10月8日:聖霊降臨後第19主日
イザヤ5:1~7,フィリピ3:4b~14,マタイ21:33~46
「主の祈り⑬「アーメン」を考える」

 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。
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 主の祈りの学びを続けてきました。本日はその最終部の「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」について考えます。なお、順は逆になりますが、アーメンから始めたいと思います。

 ところで、日本ではアーメンはキリスト教の代名詞のように見られてきました。それは間違いではないのですが、同時にアーメンは、ユダヤ教にもイスラム教にもあることは押さえておきたいと思います。学者はこの三つの宗教をアブラハムの宗教と呼びます。どれもアブラハムを信仰の大先達として尊敬するからです。なお、アブラハムは旧約聖書の人物ですが、旧約はユダヤ教もイスラム教も聖典としています。

それはともかく、日本のキリスト教にはアーメンに関する特殊な習慣があります。それは、讃美歌の終わりにアーメンを歌うという習慣です。これほどまで「讃美歌即アーメン」なのは世界でも日本だけです。ひとつ例で示すと、三つの外国の讃美歌つまりアメリカとイギリスとドイツの讃美歌にある「きよしこの夜」の曲にはどれもアーメンがありませんが、日本の讃美歌の「きよしこの夜」にはアーメンがあるからです。

言いかえるなら、「きよしこの夜」には本当はアーメンがなかったのに、日本に伝わってきたあとアーメン付きになったのでした。ただしこれにはわけがありました。なぜなら、明治になってキリスト教を伝えに来たアメリカ人宣教師たちが、讃美歌はかならずアーメンで終わるのですと教えていたからです。というのも、彼らの母国アメリカでは当時讃美歌にはどんどんアーメンを付ける、のが流行していたからで、明治時代に誕生した日本語の讃美歌もほとんどがアーメンで終わることになったのです。ところが、その宣教師たちが定年で帰国した時にはその流行はもうすたれていたのでした。しかし、そんなことを知らない日本はアーメン主義を大事に温存してきたのでした。

しかし最近は、そういう傾向は見直そうという機運になってきています。けれども、アーメンがどの讃美歌にはよいのか、よくないのか、しろうとの私たちには、さっぱり見分けがつきません。だから、その問題は音楽の専門家のご努力を待つことになるのですが、その問題に直面する私たちは、「それではアーメンって何だろう?」と初めて考えるようになるのかも知れないのであります。

ところで、日本のクリスチャンの中には、「きよしこの夜でアーメンも歌うのは、それなりに良い習慣かも知れない。今までどおりでもよいのでは」と考える人もいるかもしれません。それも間違った考えとは言えないのですが、ここで考えるべきなのは音楽著作権のことなのです。どういうことかというと、「きよしこの夜」にも作詞者と作曲家がいるということです。この歌が作られた時点でその楽譜にアーメンがなかったとするなら、後世の誰かが勝手にアーメンを付け加えれば、それは著作権に抵触した行為になるからです。もっとも、「きよしこの夜」は三百年も前に出来た曲ですから、もう著作権は消滅しています。しかし、ここ数十年間に生まれた新しい讃美歌(それにも必ず作詞者と作曲者という著作権者がいる)にはアーメンがあったかなかったのか、そういうことに無知のまま慣習的にアーメンをやってしまうと、それはクレームの対象になりかねないのです。

そこで考えられることは、アメリカもイギリスもドイツも、そこの教会はオーストリア生まれの「きよしこの夜」には最初からアーメンがないことを知っていたということです。(知らぬはジャパンばかりなり?)もっと別の言い方をするなら、欧米の讃美歌関係者はアーメンにとても敏感だったということです。

さてここで、主の祈りのアーメンに話を戻します。アメリカの神学者・ウィリアム・ウィリモンという人は、主の祈りの「国と力と栄えとは」を危険で物騒な言葉だと言っています。なぜなら、国にしても力にしても栄えにしても、権力者たちが命がけで手に入れようとしているものだからである。(現代世界の権力者たちも?) それは、主の祈りのイエスの時代、トップの権力者ローマ皇帝も例外ではなかった。また、人民の大多数も国と力と栄えが最もふさわしいのは皇帝陛下だと考えていた。そういう、絶対的とも言える背景がありながらイエスは、国と力と栄えは神のものだ、つまり皇帝のものではないという教えをしていたからなのです。

そういうイエスはそのあと、ローマの官憲によって国家反逆(転覆)罪で逮捕され、裁かれ十字架につけられました。主の祈りどころか、イエス自体が危険で物騒な存在だったのでした。そういうことを知っている人は、「国と力と栄えとは神のもの」すなわちは皇帝のものではないと言い切りアーメンを発した主の祈りは危険かつ物騒なしろものとその目に映るのでした。

ところで、アーメンといえばアーメンコーラスです。それはヘンデルの『メサイア』のいちばん最後にある合唱曲です。ただ、『メサイア』と聞けば、誰でもすぐ思い出す合唱曲はハレルヤコーラスです。このハレルヤは『メサイア』の真ん中で出てくるのですが。そそっかしい人はそれで『メサイア』は終了と勘違いします。ところが曲はまだまだ続き、いよいよラスト、本当の最後の場面がアーメンコーラスなのです。
要するに『メサイア』には二大合唱曲があって、ひとつがハレルヤでもうひとつがアーメンなのです。そして、ヘンデルはまぶしいくらいのスポットライトをハレルヤに当てたにもかかわらず、メサイアの一本締めはアーメンで行ったといえるのです。だからでしょうか、このアーメンは並みのアーメンと違って、力強く印象的なのです。

そして、この力強さは主の祈りの今のアーメンにも通じています。なぜなら、「国と力と栄えとは神のもの(皇帝のものではない)」は、考えようによっては命がけの言葉でしたから、このあとイエスに押し寄せてくる受難と十字架の予感のようなものが彼にあったと考えることが出来そうだからです。

ところで、アーメンというヘブライ語は、「今の自分の言葉は本物である」という意味で、昔の日本人の「武士に二言はござらぬ」に近いものがあります。それがイエスの口から出たのですから、それは私たちにも影響があるはずです。少なくとも、「主の祈りをのんべんだらりと唱えるのはおそれ多い」となるのかも知れないのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次回10月15日 聖霊降臨後第20主日
説教題:主の祈り⑭ 阿蘇と主の祈り
説教者:白髭 義

※10月29日(宗教改革主日)の礼拝後にミニコンサートを予定いたしております。お楽しみに。
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10月1日

2023-10-06 12:27:41 | 日記
23年10月1日:聖霊降臨後第18主日
エゼキエル18:1~4,25~32,フィリピ2:1~13,マタイ21:23~32
「主の祈り⑫悪について」
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。
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 主の祈りの学び、今回は「悪より救い出したまえ」について考えます。そして、本日特に考えたいのは、これが幼い子どもたちの祈りでもあるとするなら、その意味することは何であろうかということです。そこで、それを明らかにするために、フレーベルのことを考えてみたいと思うのであります。

 ところで、フレーベルと聞いたらアンパンマンを連想する人もいるかも知れません。というのも、アンパンマンの絵本はフレーベル館から出されているからです。なおフレーベル館は、幼稚園や保育園に幼児教育の教材や遊具も提供しています。そういうのもまたフレーベルのイメージなのです。
 けれども、彼についての様々なことはとりあえず脇に置いて、これだけは絶対忘れたくないことは、彼の「幼児や少年を最初に悪くするのは大人である」という彼の言葉であります。それでは、なぜフレーベルがそのような発言をしたのか、当時の社会背景をも見ながら考えたいと思います。

 さて、フレーベルはドイツ人で、1782年に生まれました。その3年後に生まれたのは、グリム童話のグリム兄弟の兄ヤーコブでした。又、フレーベルが7歳の時には隣の国でフランス革命が起きています。
なおその時期の世界で、もっとも先進的だったのはイギリスで、ヴィクトリア朝の時代大繁栄をとげていました。ところが、その時代に活躍した小説家の一人であるキングスリーは、その作品で当時の典型的な母親を登場させ、その息子に彼女のことをこう語らせました。
「わたしの母は、規則通りに、神の掟に従って行動した。彼女はめったに微笑もしなかった。彼女が二度命じ必要が生じたるときは、必ず罰が伴った。彼女はわが子にも愛情を抱かなかったが、それは子どもがいまだに悪魔の子であると信じていたからだ」。
 あるいは、もう一人の作家バトラーは、その小説で、アーネストという主人公に父親のことをこう語らせています。「まだ、はいはいもうまくできないうちから、アーネストはひざまづくことを教えられた。少しでも気が散ると、『それ、そのたちの悪い雑草は早くつみとってしまわなければはびこってしまう』と言うのだった。雑草の摘み取りの方法は、鞭で打つか、戸棚に閉じ込めることであった」。

 ところで、同じ時期のドイツに、シュレーバーという教育学者がいました。彼の書く本はよく売れ、ヨーロッパ中に読者がいました。教育学者としてのシュレーバーの考えは、ひと口で言うと、子どもは生まれながらの罪人であるというものでした。彼はこう書きました。
「子どもたちの気分は、理由もなく金切り声をあげ、泣き叫ぶことでわかる。その金切り声は、気まぐれそのもので、人が最初にしめすわがままである。ゆえに、大人は、厳しい言葉やおどしを用いたり、ベッドをたたくなど、寝入るまで繰り返す。親は永久に子どもの支配者である。あとは、ひとにらみするだけで子どもを支配できる」。こういうことを書くシュレーバーの本がベストセラーになるのでした。

さて、このシュレーバーに真っ向から対立する形で立ち上がったのがフレーベルでした。彼は、世界で初めて幼稚園を創設した実践家としても知られていますが、こう書きました。
「幼児や少年を最初に悪くするのは大人である。教育者にもそういう救われがたい人間がいる。なぜなら彼らは幼児や少年の中に、意地の悪い、陰険な、人の欠点ばかりあら捜しする小悪魔をしか見てないからである。彼らが、罪のない子どもたちを罪深い者にしてしまうのだ。言い換えるなら、子どもを精神的に殺すのである。大人は神に対して犯す罪の何倍の罪を、子どもたちに対して犯している」。
さらにこうも言います。「大人そして教育者は、子どもが天国に入るには、体に染みこんだ罪を洗浄せねばならぬと信じている。それが出来たらあとは神が善へと導いてくれ、信仰深くなれるのだ、とも信じている」。

ところで、フレーベルがこれを書いたのはもう二百年前のことです。そういうのは現代には役に立たないと思う人もいるかも知れません。しかし、キリスト教主義の大学で教えているフレーベル研究者の畠山祥正(よしまさ)さんはこう言います。「二百年前だが、いまの子どもをめぐる諸問題は解決どころか、虐待に見るようにむしろ深刻さを増しているのだ」。
あるいは、兵庫県にいるベテラン保育士の大塚和子さんもこう書いています。「私は長い間、こどもを取り巻く環境を見つめてきた。家庭、幼児教育の現場、学校・社会等をも眺めてきた。その環境は急速に悪化の一途をたどっており、健全な成長に必要なものほど失われてゆく。何故そうなるのかの。疑問が頭をもたげていった。こどもの心とからだがむしばまれている、無防備でしかも言葉で言い表せないこどもたち。生きる力を失いつつある、こどもは悲鳴を上げている。大人が早く気がつかねばこどもはキレてしまう……。」

さらに、「核家族、遊び場不足、仲間不足。これらが乳幼児の環境に影響を与え、いじめ、心身症、非行の要因になりかねない。それに、育児情報の氾濫、過剰な教育熱、父親の育児放棄が母親を追い詰め、育児ノイローゼ、虐待も増加している。」
また、クリスチャンでもある彼女はこうも言います。「神は人間を、互いに愛し合うためにお造りになられた。その意味では私たちにも責任がある。責任とは、間違った管理、強制、服従の強制のことではなく、自発性、自主性を尊重し、一個の尊い人格として接することである。」

これは、フレーベルも強調したことでした。従って、主の祈りがまだよくしゃべれない幼い子どもの祈りでもあるとするのなら、「悪より救い出したまえ」は、「ぼくたち、わたしたちを悪くする者たちから、ぼくたち、わたしたちを守ってください」となるのではないか。主の祈りを教えたイエスの心に分け入ってみたいと思う次第です。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次回10月7日 聖霊降臨後第19主日
説教題:主の祈り⑬『アーメン』を考える
説教者:白髭 義
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