23年10月22日:聖霊降臨後第21主日
イザヤ45:1~7,Ⅰテサ1:1~10,マタイ22:15~22
「主の祈り⑮雪の女王の主の祈り」
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主の祈りについて考えてきた私たちは、今回は童話における主の祈りということで考えたいとおもいます。その童話はアンデルセンの『雪の女王』のことです。なお、雪の女王と言うとディズニーの『アナと雪の女王』になりそうですが、両者は内容的には無関係です。ディズニーはアンデルセンの『雪の女王』からインスピレーションをもらったにすぎないからです。
それでは、童話『雪の女王』の話を見ておきます。なお岩波文庫のアンデルセン童話では、これは57頁もあります。「マッチ売りの少女」が5頁、「みにくいあひるのこ」が17頁であることを思えばかなりの長編です。
さて話は、悪魔がとんでもない鏡を作ったことから始まります。この鏡に映すと美しいものは醜く、醜いものはもっと醜く見えるのでした。ところが鏡はうっかり割れて粉々になり、破片が世界中に飛び散ることになります。すると、カイという男の子の心臓にもそれが刺さりました。カイにはゲルダという仲良しの女の子がいるのですが、彼女がいない時一人で雪の中を遊んでいると、雪の女王がソリに乗って、カイを連れ去ろうとします。彼はとっさに主の祈りを唱えて自分を守ろうとしますが、頭に浮かぶのは算数の九九ばかり。彼はあっけなく拉致されました。
カイがいないのを悲しんだゲルダは、春になるとその捜索の旅に出ました。途中で見事な花園に魅了されるなど道草もしますが、われに返って再び進むと親切な王子と王女に出あい、素晴らしい馬車を与えられ、それに乗って旅を続けました。ところが豪華な馬車が山賊にねらわれ殺されかけました。その時山賊の娘が助けてくれ、ゲルダの気持を知った娘は頭のいいトナカイを与えて、それで最北の雪の女王の所に行くよう言いました。
こうしてお城が目前の所まで来ると、雪の軍団が襲ってきました。しかしゲルダがとっさに主の祈りを唱えると、彼女の吐く真っ白な息が膨れ上がり天使の軍団になり敵を打ち負かします。こうして彼女はお城の中に入りました。
お城は、雪の女王は外出中でカイ一人でした。しかし彼の心臓は氷の塊そのもの、その彼をゲルダが抱きしめ、目から熱い涙を流すと、彼の心臓に刺さった鏡の破片が飛び出しました。こうしてカイは本来のカイに戻り、二人は手をつないでお城を出て、なつかしい故郷へと帰りつきます。家の戸口から階段を上って部屋に入るドアを通過した時、自分たちはもう大人だと気がつきます。
以上が、アンデルセンの『雪の女王』の話です。長編なので読み進むにつれおやっと思うことがたくさん出てくると思いますが、本日の私たちはその中のキリスト教的なものに的を絞りたいと思います。
ところで、この童話で興味深いことは、主人公たちが賛美歌を何度も歌うことです。歌詞は「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」でした。賛美歌ですが、デンマークの子どもたちもよく知っていたのでしょう。
ところで、これは私たちもよく知っているのです。なぜなら、日本人はこれを「エッサイの根よりおいいでたる」で歌っているからです。しかし、童話を読んでもそういうことまでは気がつかない。残念な気がします。
なお、童話では、この歌は賛美歌と呼ばれていますが、教会の礼拝で歌う歌ではなく、教会の外で歌われたクリスマスキャロルなのでした。だから『雪の女王』を読む子どもにもお馴染みなのでした。ところで、アンデルセンはこのキャロルを物語の隠し味のように用いています。
さて、この童話で宗教的色彩が濃厚なのは、悪魔の鏡の話です。今もみたように、人がこの鏡に映されると、美しい人も醜く映り、醜い者はもっとひどい人間に映るのでした。ところがある日その鏡は粉々に砕け、破片が世界中を飛び回るようになります。だから、二人が住む町にもそれは飛んできました。そしてその破片がカイの心臓に刺さったので大変なことになりました。カイは言った。「あ、痛い。胸のところがチクリとしたよ」。それを聞くとゲルダは泣き出した。カイは言う、「なぜ泣いているの。そんないやな顔をして。ボクはもう何ともない」。そして言います。「そこのバラは虫に食われてらあ。あっちのはねじれている。きたならしいバラばかりだなあ」。カイはバラをむしり取ってしまった。また、ゲルダが絵本を持ってくると「そんなの赤ん坊が読む本だ」と言い、彼を心から愛しているゲルダをからかうようになりました。
ところが、そのカイを拉致するために女王が現れたとき、身を守ってくれるはずの主の祈りが思い出せなかったため、女王はいとも簡単に彼を連れ去れたのでした。しかし、少女ゲルダの場合は、反対のことが起きます。恐るべき雪の軍勢が襲撃してきた時、彼女の口をついて出たのは主の祈りだったからです。このようにアンデルセンは主の祈りがいかに大事かを子どもたちに伝えたのでした。
ところで、最後の場面でもういちど「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」が言われ、家のおばあさんの聖書朗読の声が流れます。「汝ら、もし、おさなごのごとくならずば、神の国に入ることを得じ(マルコ10:15)」。でもカイもゲルダももう大人でした。だからこそ、二人で昔歌った歌、そしておばあさんが朗読する聖書のことが書かれ、人はどんな大人になればいいのかをアンデルセンは指し示していたのでした。
このように『雪の女王』は大人にもメッセージを伝えてくれます。それにしても、主の祈りが童話の世界にもあったなんて驚きであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)
次週 10月29日 宗教改革主日
説教題:主の祈り⑯ 主の祈りとアヴェマリア
説教者:白髭 義牧師
イザヤ45:1~7,Ⅰテサ1:1~10,マタイ22:15~22
「主の祈り⑮雪の女王の主の祈り」
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主の祈りについて考えてきた私たちは、今回は童話における主の祈りということで考えたいとおもいます。その童話はアンデルセンの『雪の女王』のことです。なお、雪の女王と言うとディズニーの『アナと雪の女王』になりそうですが、両者は内容的には無関係です。ディズニーはアンデルセンの『雪の女王』からインスピレーションをもらったにすぎないからです。
それでは、童話『雪の女王』の話を見ておきます。なお岩波文庫のアンデルセン童話では、これは57頁もあります。「マッチ売りの少女」が5頁、「みにくいあひるのこ」が17頁であることを思えばかなりの長編です。
さて話は、悪魔がとんでもない鏡を作ったことから始まります。この鏡に映すと美しいものは醜く、醜いものはもっと醜く見えるのでした。ところが鏡はうっかり割れて粉々になり、破片が世界中に飛び散ることになります。すると、カイという男の子の心臓にもそれが刺さりました。カイにはゲルダという仲良しの女の子がいるのですが、彼女がいない時一人で雪の中を遊んでいると、雪の女王がソリに乗って、カイを連れ去ろうとします。彼はとっさに主の祈りを唱えて自分を守ろうとしますが、頭に浮かぶのは算数の九九ばかり。彼はあっけなく拉致されました。
カイがいないのを悲しんだゲルダは、春になるとその捜索の旅に出ました。途中で見事な花園に魅了されるなど道草もしますが、われに返って再び進むと親切な王子と王女に出あい、素晴らしい馬車を与えられ、それに乗って旅を続けました。ところが豪華な馬車が山賊にねらわれ殺されかけました。その時山賊の娘が助けてくれ、ゲルダの気持を知った娘は頭のいいトナカイを与えて、それで最北の雪の女王の所に行くよう言いました。
こうしてお城が目前の所まで来ると、雪の軍団が襲ってきました。しかしゲルダがとっさに主の祈りを唱えると、彼女の吐く真っ白な息が膨れ上がり天使の軍団になり敵を打ち負かします。こうして彼女はお城の中に入りました。
お城は、雪の女王は外出中でカイ一人でした。しかし彼の心臓は氷の塊そのもの、その彼をゲルダが抱きしめ、目から熱い涙を流すと、彼の心臓に刺さった鏡の破片が飛び出しました。こうしてカイは本来のカイに戻り、二人は手をつないでお城を出て、なつかしい故郷へと帰りつきます。家の戸口から階段を上って部屋に入るドアを通過した時、自分たちはもう大人だと気がつきます。
以上が、アンデルセンの『雪の女王』の話です。長編なので読み進むにつれおやっと思うことがたくさん出てくると思いますが、本日の私たちはその中のキリスト教的なものに的を絞りたいと思います。
ところで、この童話で興味深いことは、主人公たちが賛美歌を何度も歌うことです。歌詞は「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」でした。賛美歌ですが、デンマークの子どもたちもよく知っていたのでしょう。
ところで、これは私たちもよく知っているのです。なぜなら、日本人はこれを「エッサイの根よりおいいでたる」で歌っているからです。しかし、童話を読んでもそういうことまでは気がつかない。残念な気がします。
なお、童話では、この歌は賛美歌と呼ばれていますが、教会の礼拝で歌う歌ではなく、教会の外で歌われたクリスマスキャロルなのでした。だから『雪の女王』を読む子どもにもお馴染みなのでした。ところで、アンデルセンはこのキャロルを物語の隠し味のように用いています。
さて、この童話で宗教的色彩が濃厚なのは、悪魔の鏡の話です。今もみたように、人がこの鏡に映されると、美しい人も醜く映り、醜い者はもっとひどい人間に映るのでした。ところがある日その鏡は粉々に砕け、破片が世界中を飛び回るようになります。だから、二人が住む町にもそれは飛んできました。そしてその破片がカイの心臓に刺さったので大変なことになりました。カイは言った。「あ、痛い。胸のところがチクリとしたよ」。それを聞くとゲルダは泣き出した。カイは言う、「なぜ泣いているの。そんないやな顔をして。ボクはもう何ともない」。そして言います。「そこのバラは虫に食われてらあ。あっちのはねじれている。きたならしいバラばかりだなあ」。カイはバラをむしり取ってしまった。また、ゲルダが絵本を持ってくると「そんなの赤ん坊が読む本だ」と言い、彼を心から愛しているゲルダをからかうようになりました。
ところが、そのカイを拉致するために女王が現れたとき、身を守ってくれるはずの主の祈りが思い出せなかったため、女王はいとも簡単に彼を連れ去れたのでした。しかし、少女ゲルダの場合は、反対のことが起きます。恐るべき雪の軍勢が襲撃してきた時、彼女の口をついて出たのは主の祈りだったからです。このようにアンデルセンは主の祈りがいかに大事かを子どもたちに伝えたのでした。
ところで、最後の場面でもういちど「バラの花、かおる谷間に、仰ぎまつるおさなごエスきみ」が言われ、家のおばあさんの聖書朗読の声が流れます。「汝ら、もし、おさなごのごとくならずば、神の国に入ることを得じ(マルコ10:15)」。でもカイもゲルダももう大人でした。だからこそ、二人で昔歌った歌、そしておばあさんが朗読する聖書のことが書かれ、人はどんな大人になればいいのかをアンデルセンは指し示していたのでした。
このように『雪の女王』は大人にもメッセージを伝えてくれます。それにしても、主の祈りが童話の世界にもあったなんて驚きであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)
次週 10月29日 宗教改革主日
説教題:主の祈り⑯ 主の祈りとアヴェマリア
説教者:白髭 義牧師