イザヤ書6:1~8、ローマ8:12~17、ルカ7:36~50
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二日市教会主日礼拝説教 2024年5月26日(日)
イエスと女性たち―その5
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
「イエスと女性たち」というテーマで、聖書を読んでいます。今回は、ルカ福音書7章36節から50節までの「罪深い女を赦す」という話を取り上げます。ファリサイ派のシモンの家で起きた出来事になっていますが、まず話の背景というのを見ておきたいと思います。
イエスはガリラヤ地方を歩き、神の国の宣教を続けていました。ガリラヤは農村地帯で、町や村はその中に点在する感じでした。個々の町村の人口も、南の大都会エルサレムに較べると取るに足りないくらいわずかなものでしたが、それでもユダヤ教の会堂がどこでも見られ、人々は安息日には礼拝を守り、また田舎暮らしであっても、聖書の学びは大切にしていました。
従って、本日イエスが訪れた町にもファリサイ派がいたのでした。ファリサイ派は聖書の教えを民衆に分かりやすく解説する人たちで、どの町でも敬われていました。本日、イエスを食事に招いたのもファリサイ派の一人なのでした。
さてイエスは、招待された家に入ってゆきました。こういう場合、招待した側は、やってきた客人への挨拶を、一つも欠かさず厳密に実行したのちに、その人を食卓に案内するのでした。ところで、その場には、招待されてない町の人間も詰めかけていました。中東の家屋はその構造が開放的なので、宴会をのぞき見したいと思う者は勝手に土間に入って来たからです。そしてそういう人たちの中にいわゆる「罪深い」女もいたのでした。ところで、罪深いの意味は何だったのか。聖書はそれについては何も言いません。注解書などを見ると、彼女は娼婦であるとされています。しかし、田舎であるこの地方の町や村に娼婦がいたとは、いかにも変です。娼婦とは、女性がやむにやまれぬ事情から選択する仕事でしたが、その仕事で生計を成り立たせるためには、田舎という土地柄は不都合だったからです。
なぜなら、娼婦が生きてゆける環境はエルサレムのような大きな町、都会だったからです。そこに行けば身が寄せられる遊郭があり、薄暗い一角を目指して男たちがやってくるのでした。だから、この女をどうしても娼婦と呼ばなければならないのであれば、以前は大都会でそうだったが、今はそれを捨てこの町に住み着いている女と解するのがよいかと思われます。しかし、人々は彼女を前科者のように、罪深い女と言い慣わしていたのでした。
それはともかく、彼女も町の人たちと一緒になってシモンの家の土間で、宴席の様子を見ていました。しかし彼女がそこで見たのは、客の一人であるイエスが、主人から受けることになっているはずのもてなしの挨拶をまったく受けることが出来なかったことでした。女は憤った。「これ何なの? まるで大人のいじめじゃないの」。なお、イエスもあとでシモンにこう言っています。「あなたは足を洗う水をくれなかった、接吻の挨拶もなかった、頭に油も塗ってくれなかった」。そのあまりにも無礼な仕打ちを彼女は目撃したのでした。そこで、立ち上がり行動した。すなわち、彼の足を自分の涙で洗い、髪の毛でそれをぬぐい、その足に接吻し、オリーブ油を塗ったのでした。まさに、主人のシモンがしなかったことを、代わって彼女がしたのでした。
ところで、オリーブ油は本来頭に塗るものでした。それを彼女が足に塗ったのにはわけがありました。なぜなら、シモンの家だけでなく、宴会の客人は身を横たえて、片腕で体を支え、もう片方で食事をつまんで食べるというスタイルを取っていたからです。笹栗にあるお寺・南蔵院の巨大なお釈迦さまの涅槃像も横たわっていますが、それと同じ格好をこの時イエスもしていたのでした。だから女は近づきたくても頭のほうは無理で、やむをえず足もとに近づき油を塗ったのでした。足なら外側に突き出ていたからです。
ところで、イエスはシモンに質問しました。AとBの二人の人間がいた。二人は主人に借金をしていたが、二人とも返済が不可能だった。そこで主人は二人の借金を帳消しにした。Aは五千万円、Bは五百万だった。さてこのあと、AとBではどちらが主人を深く愛するようになったか?」そこでシモンは即座に答えた。「Aです」。イエスは言った。「あなたの答は正しい」。
さて、シモンはなぜほめられたのか。もちろんこれはひっかけ問題でした。というのも、質問された彼はファリサイ派なので、誰よりも聖書をよく知っている、書かれている神の命令も熟知していると自負する人間だったからです。従ってイエスが質問した神を愛することについても誰にも負けない自信がありました。だから、Aが主人を最も多く愛したのならAは自分のことに他ならないと思ったからです。ところが、この質問には裏がありました。なぜなら、そのAの罪はBとはくらべものにならないほど重大で悪質だったからで、それも自分であると認める結果になったからでした。いずれにしても、本日の物語のポイントはこの男の罪を明らかにすることであって、女をさらし者にすることではありませんでした。それどころか、イエスに忠誠心を示す、信仰と勇気の女性として語られていたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 6月2日 聖霊降臨後第2主日
説教題:イエスと女性たち その6
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年5月26日(日)
イエスと女性たち―その5
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
「イエスと女性たち」というテーマで、聖書を読んでいます。今回は、ルカ福音書7章36節から50節までの「罪深い女を赦す」という話を取り上げます。ファリサイ派のシモンの家で起きた出来事になっていますが、まず話の背景というのを見ておきたいと思います。
イエスはガリラヤ地方を歩き、神の国の宣教を続けていました。ガリラヤは農村地帯で、町や村はその中に点在する感じでした。個々の町村の人口も、南の大都会エルサレムに較べると取るに足りないくらいわずかなものでしたが、それでもユダヤ教の会堂がどこでも見られ、人々は安息日には礼拝を守り、また田舎暮らしであっても、聖書の学びは大切にしていました。
従って、本日イエスが訪れた町にもファリサイ派がいたのでした。ファリサイ派は聖書の教えを民衆に分かりやすく解説する人たちで、どの町でも敬われていました。本日、イエスを食事に招いたのもファリサイ派の一人なのでした。
さてイエスは、招待された家に入ってゆきました。こういう場合、招待した側は、やってきた客人への挨拶を、一つも欠かさず厳密に実行したのちに、その人を食卓に案内するのでした。ところで、その場には、招待されてない町の人間も詰めかけていました。中東の家屋はその構造が開放的なので、宴会をのぞき見したいと思う者は勝手に土間に入って来たからです。そしてそういう人たちの中にいわゆる「罪深い」女もいたのでした。ところで、罪深いの意味は何だったのか。聖書はそれについては何も言いません。注解書などを見ると、彼女は娼婦であるとされています。しかし、田舎であるこの地方の町や村に娼婦がいたとは、いかにも変です。娼婦とは、女性がやむにやまれぬ事情から選択する仕事でしたが、その仕事で生計を成り立たせるためには、田舎という土地柄は不都合だったからです。
なぜなら、娼婦が生きてゆける環境はエルサレムのような大きな町、都会だったからです。そこに行けば身が寄せられる遊郭があり、薄暗い一角を目指して男たちがやってくるのでした。だから、この女をどうしても娼婦と呼ばなければならないのであれば、以前は大都会でそうだったが、今はそれを捨てこの町に住み着いている女と解するのがよいかと思われます。しかし、人々は彼女を前科者のように、罪深い女と言い慣わしていたのでした。
それはともかく、彼女も町の人たちと一緒になってシモンの家の土間で、宴席の様子を見ていました。しかし彼女がそこで見たのは、客の一人であるイエスが、主人から受けることになっているはずのもてなしの挨拶をまったく受けることが出来なかったことでした。女は憤った。「これ何なの? まるで大人のいじめじゃないの」。なお、イエスもあとでシモンにこう言っています。「あなたは足を洗う水をくれなかった、接吻の挨拶もなかった、頭に油も塗ってくれなかった」。そのあまりにも無礼な仕打ちを彼女は目撃したのでした。そこで、立ち上がり行動した。すなわち、彼の足を自分の涙で洗い、髪の毛でそれをぬぐい、その足に接吻し、オリーブ油を塗ったのでした。まさに、主人のシモンがしなかったことを、代わって彼女がしたのでした。
ところで、オリーブ油は本来頭に塗るものでした。それを彼女が足に塗ったのにはわけがありました。なぜなら、シモンの家だけでなく、宴会の客人は身を横たえて、片腕で体を支え、もう片方で食事をつまんで食べるというスタイルを取っていたからです。笹栗にあるお寺・南蔵院の巨大なお釈迦さまの涅槃像も横たわっていますが、それと同じ格好をこの時イエスもしていたのでした。だから女は近づきたくても頭のほうは無理で、やむをえず足もとに近づき油を塗ったのでした。足なら外側に突き出ていたからです。
ところで、イエスはシモンに質問しました。AとBの二人の人間がいた。二人は主人に借金をしていたが、二人とも返済が不可能だった。そこで主人は二人の借金を帳消しにした。Aは五千万円、Bは五百万だった。さてこのあと、AとBではどちらが主人を深く愛するようになったか?」そこでシモンは即座に答えた。「Aです」。イエスは言った。「あなたの答は正しい」。
さて、シモンはなぜほめられたのか。もちろんこれはひっかけ問題でした。というのも、質問された彼はファリサイ派なので、誰よりも聖書をよく知っている、書かれている神の命令も熟知していると自負する人間だったからです。従ってイエスが質問した神を愛することについても誰にも負けない自信がありました。だから、Aが主人を最も多く愛したのならAは自分のことに他ならないと思ったからです。ところが、この質問には裏がありました。なぜなら、そのAの罪はBとはくらべものにならないほど重大で悪質だったからで、それも自分であると認める結果になったからでした。いずれにしても、本日の物語のポイントはこの男の罪を明らかにすることであって、女をさらし者にすることではありませんでした。それどころか、イエスに忠誠心を示す、信仰と勇気の女性として語られていたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 6月2日 聖霊降臨後第2主日
説教題:イエスと女性たち その6
説教者:白髭義 牧師