日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

11月24日

2024-11-27 14:24:32 | 日記
ダニエル12:1~3、 ヘブライ10:11~14、19~25  ルカ15:25~32
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二日市教会主日礼拝説教 2024年11月24日(日)
「放蕩息子のたとえ その3.レンブラントの場合」☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 イエスのたとえ話「放蕩息子」の三回目です。ある父親に二人の息子がいて、弟のほうから頼んで遺産相続をしてもらい、それを金にして遠い国に行き、そこで使い果たしついに豚飼いになったのだが、極度の空腹に襲われ、それが引き金で、パンが山ほどある父親の家の帰る決意をします。帰宅するにあたり彼は、父に会った際に言うセリフを準備しました。ところが、帰るなりいきなり父親が走って来て彼を抱きしめたため、彼は言う言葉を失います。父親は無条件に弟息子を受け入れたのでした。

 ここまでが前回の話でした。本日はそのあとの15章の25節からで、兄息子の登場で始まります。さて、畑にいた兄は帰ってくると、家の外で音楽や踊りのざわめきを耳にしました。腑に落ちないので、近くにいた家の僕にわけを聞くと僕は、あなたの弟さまが無事な姿で帰ってこられたので、御父上がお祝いの宴会を始められたのでございますと、事務的に返事をしたのでした。
 僕の口の利き方で火に油を注がれた兄は烈火のごとく怒り始めました。こう書かれています。「兄は怒って家に入ろうとしなかった」。その宴会は父が弟息子の帰還の喜びの絶頂で始められたのですが、兄はそれに対して距離を置こうとしたのでした。なぜなら、弟は彼の前で土下座し謝罪をするわけではなかったからです。自分のプライドを踏みにじられ、事前に兄息子の考えを聞こうともしなかった父親が一方的に弟を赦したことになじまない兄は父に抗議しました。
 「私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。兄は、自分の目に映る父親のあまりの不公平さに我慢がならないのでした。父に対して不従順だった弟に較べてもそれ以下の扱いを受けてきたというのでした。
 そして彼は叫びました。「ところがあなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。兄は長い年月厳しい労働に耐えながら頑張ってきたのに、弟は快楽を楽しむような生活を送ってきた。この世の享楽を堪能し、ダメになると過去をチャラにしてもらおうという魂胆で帰ってきたのだ。兄のクレームははてしなく続いてゆきます。

 ところで、17世紀のヨーロッパの画家レンブラントは、放蕩息子の絵をたくさん描いています。彼は1606年に生まれて1669年に亡くなっていますが、その63年間の人生を放蕩息子そのものだととらえていたようです。そして、その最晩年に描いた絵は『放蕩息子の帰宅』という題でエルミタージュ美術館に所蔵されていますが、登場人物が等身大で描かれた大作です。
放蕩息子ですから、その絵には必ず父親も登場するのですが、どの絵も慈愛と憐みに満ちていますが、『放蕩息子の帰宅』の父親も例外ではありません。また、その前にひざまづいている弟息子はぼろをまとい、それまでの日々がいかに悲惨なだったかをリアルに思わせてくれます。
 ところで、この晩年の作品には、どうやら兄らしい人物の姿も見えています。その人物は沈黙を守り続け、背をまっすぐ伸ばし、手を固く腕組みしていて、いかにも傍観者という感じで、冷たい心の持ち主の印象を与えてしまいます。ルカ福音書15章25節以下に出てくる兄息子を、レンブラントはそのように絵にしたのでした。

 ところでこの聖書(ルカ福音書15章)は、兄息子がこのあと父親の呼びかけに応じて宴会場に入ったのかどうなのかについては書いていません。つまり、読む者が想像する以外にないのです。その意味でレンブラントも想像をめぐらし、その結果画家としての結論を絵にしたのでした。
どういうことかというと、この絵での兄息子は赤い色の外套を肩にかけているのですが、父親の肩にも赤い色の外套がかけられているからです。つまりレンブラントは、親子二人に同じ色の外套を着せることによって、二人の間にある深いつながりを暗示していたと思われるからです。
そして、この絵が彼の最晩年の作品であることは、長い人生を振り返っての感慨が絵になっていると言えるのかも知れません。なお、父と息子の外套の色が赤であることは、その色が愛、すなわち神の愛を示唆したのかも知れません。しかし、にもかかわらずこの兄は、自分の着ているものが父のと同じ色であることに気がついていないと解釈するのも絵の鑑賞の仕方として成り立つかもしれないのであります。
レンブラントが、自分自身を弟息子に重ねていたのか、それとも兄息子にか。それはともかく、誰もが神の愛に受け入れられているのだという画家の確信が、この絵から読み取れるのではないかと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週 12月1日 待降節(アドベント)第1主日
説教題:クリスマス物語 その①
説教者:白髭義牧師

クリスマス主日礼拝は12月22日10時半からです。
午後6時半より 女声合唱団クールクールによる『愛の平和のChristmasコンサートがあります。どなたもおいでください。
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11月10日

2024-11-15 14:17:02 | 日記
列王記上17:8~16、 ヘブライ9:24~28、 ルカ15:1~13
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月10日(日)
「放蕩息子のたとえ その1.反逆」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 わたしたちはこれまで、イエスのたとえ話を取り上げてきました。そのたとえ話は一つ一つが奥深いものなのですが、特に印象的なたとえ話は「放蕩息子のたとえ」だと思われます。なぜなら、多くの人がこの話を通して放蕩息子と自分を重ね合わせ、人生についてあれこれ考える経験をしてきたからです。そのとおりで、このたとえ話には、考えることがいっぱい出てきます。そこで、数回に分けて考えることにしたいと思ったのですが、とりあえず三回に分けてみたいと思います。
 さて、その第一回は、今のルカ15章の11節から16節までを取り上げます。弟息子が父親からもらった財産をお金に換え都会に出て行き、お金を使い果たして豚飼いになるまでの話です。

 それでは詳しく見てゆきます。ある父親に二人の息子がいました。ある時弟のほうが父に財産を譲ってくれるよう申し出ました。(ところが父はまだ生きている)。それなのに「お父さん、私に財産の分け前をください」と言ったのでした。この生前相続は当時も法律で認められていました。ただし、財産の三分の二は長子と定められていたので、弟の取り分は残りの三分の一でした。いずれにしても、父親の承諾が条件でした。ということは、この話の場合の父は生前贈与を承諾したことになるのです。ただし法律にはその先も書かれていました。なぜなら、子が親から生前に財産を譲渡されても、それには厳しい条件があったからです。というのも法律は、子が譲り受けたあとの財産に関する権利のことも定めていたからです。

どういうことかというと、その権利には、①所有権と②処分権の二つがあったからです。この話で言えば、相続された弟息子は財産を所有できるのだが、父が生きている間は処分が出来なかったからです。(つまり、所有権はあるが処分権はない)。当時の財産は土地でした。弟は土地の所有権は獲得したのですが、その土地を処分して換金することは禁じられていたのでした。
ところが、本日の話によると「全部を金に換えて、遠い国に旅立った」と言われていますから、弟はその土地を処分したのでした。なお、法律がそれを禁じた理由は、たとえば外国人とか得体の知れないよそ者に売ってしまったら、それはトラブルのもとになるからでした。当時の人たちの土地に対する考え方は、まかり間違えば土地は村の共同体の生存を脅かしかねないというものでした。そういうことなので法律も、生前相続の土地の処分は禁じていたのですが、例外としてそれを父親が承諾したのであれば仕方がないと考えられていました。
とはいえ一般論として、親が自分の生存中に土地売却を許すのは考えられないことでした。なぜならそれは、父親が自分の手で自分の息を止める行為に等しいと思われていたからです。それなのに、この父親はそれを承諾したのだった。いったいこの父親はいかなる父親だったのだろうか。これはたとえ話を考える上での大事なポイントの一つになります。

ところで、以上を振り返ってみれば、弟息子は人間関係の断絶ということを二重にやらかしています。どちらも彼が生まれ育った環境に関するもので、その一つが父親との関係の断絶でした。そしてもう一つ同郷の人たちとの関係の断絶でした。なぜなら、生前相続でも財産処分権を行使したのは「父親殺し」に他ならず、村の人間を無視して土地を売却したのは許されざる行為だったからです。
ところで、これは次回見ることになる18節ですが、弟息子は村に戻って言うセリフをこう準備しています。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」。この中で抜けているのは、「村の人たちに対しても」なのです。次回の話では村の人間がどう扱われているのかも大事なポイントになるのであります。
つまり、弟息子が故郷に帰って受け入れてもらえるためには、父親からだけでなく、共同体の人たちからもそうしてもらえる必要があったのでした。このことも、次回今の話の続きを読む際には忘れたくない要素になるはずです。

なお、放蕩息子の話の最大のテーマは赦しです。イエスはそのためまず「赦されるはずがない」罪を話しで取り上げています。もちろん、最終的には赦しに導かれてゆくはずなのですが、その赦しがびっくりさせられるような赦しなので、赦されるはずがない罪深さの話が先行する。これもまた、放蕩息子を読む際に心得ておきたい大事な点となるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 11月17日 聖霊降臨後第26主日
説教題:放蕩息子のたとえ ②
説教者:白髭義牧師
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11月3日

2024-11-06 13:43:29 | 日記
イザヤ25:6~9、 ヨハネ黙示録21:1~6、 マルコ5:38~43
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月3日(日)
「亡き人を覚える」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 本日は、全聖徒主日という、キリスト教関係以外の人は聞き慣れない名前です。ルーテルはそうなのですが、永眠者記念日と呼ぶ教会もあります。それはともかく、キリスト教がこの日を長い歴史の中でどうとらえていたかを見ておきます。
 さて、ポイントは聖徒という言葉です。この聖徒はイコール聖人なので、全聖人主日と呼んでもかまいません。大昔、最初のキリスト教にとっての聖人は、火あぶりされたり、猛獣の穴に投げ込まれたりした殉教者を指していました。その聖人たちを一年に一回まとめて記念する日として全聖徒主日というのが定められました。
 のちに殉教の時代は終わりましたが、尊敬に値する立派な信仰者たちが聖人と呼ばれ記念されました。そうしているうちに今度は、洗礼を受けている者は誰もが聖人であるという考えが広まりました。洗礼を受けていれば既に救われているという理屈からでした。そういう時代はもう社会全体がキリスト教になっていましたから、亡くなった人は誰でも全聖徒礼拝で記念される対象になったのでした。とは言っても、その中には泥棒もいるし、悪徳政治家もいるのですが、それは別問題と考えられました。

以上はヨーロッパでの話です。ところが時代が立つとヨーロッパやアメリカの人間が日本にキリスト教を伝えるようになりました。そして、日本人も洗礼を受けるようになるのですが、ややこしいことが起きました。なぜなら、自分が洗礼を受けても、ほかの家族や親族は誰も洗礼を受けないということになりがちだったからです。そうすると、洗礼を受けた人と受けてない人が同じ墓に入った場合どう折り合いをつけたらよいのか、色々整理がつかないことになったからです。
しかし、この問題はキリスト教国の欧米にはありませんでした。誰もが生まれてすぐ洗礼を受けクリスチャンになったからです。ところが日本人は、親も先祖もしっかり寺や神社の世話になっていました。ここでキリスト教は初めて、考えを改めるべき事態に直面したのでした。だから、それまでの欧米的キリスト教唯我独尊の考えが正されないと前進できないことも分かってきました。今日本のキリスト教はそのジレンマにいます。欧米的価値観との戦いはしばらく大変だと思います。
ところで話は変わりますが、私は12年前までは広島県のある町で牧師の仕事をしていました。ある日教会に一人の女性がたずねてきました。ひろみさんという人でしたが、彼女はそれまでの自分の身の上のことを話してくれました。結婚して、二人の年子の男の子を授かったのだが、運転していたクルマの中で、幼い二人の命を自分の手で奪ってしまった。逮捕され裁判になったが、情状酌量となり、執行猶予付きで刑に役したあと刑務所を出て、今は保護司のもとに通いながら生活を始めている。その最中に私の所に訪ねてきたのでした。
 その話をしている時、彼女は二人の子がいっしょの写真を見せてくれました。そして彼女は、キリスト教の勉強がしたいと言いました。それからの彼女は、毎週自転車で通ってくるようになりました。
ところがある時彼女は入院になりました。そこで病院を訪ねると、そこは精神科の病院でした。退院後はまた通ってくるようになりました。なお彼女の家は両親とも創価学会ということでした。しかし、彼女が教会に通うことに反対はしなかったようでした。むしろ、家で畑をしていた父親は、時おり取れたての野菜を娘に持たせて、彼女はそれを自転車のバスケットに入れてやってきました。
そして、そのうち彼女は礼拝にも出席するようになりました。ただしそれは、いちばん片隅に座り、そっときてそっと帰る感じでした。ところが、ある時彼女は、全聖徒主日のことを知り、話を持ち掛けてきました。それは、全聖徒主日の礼拝の時にズラリと並ぶ故人写真の中に、自分の子どもたちの写真をこっそりもぐりこませることは許されないでしょうかというものでした。
そこで私の判断で、写真を聖壇の布の下に入れることにしました。そうすれば誰にも分かりません。彼女は礼拝が終わるとそれをすぐ引き取って帰りました。それは彼女なりの真剣な行動でしたが、それにしては楽しそうにやっていました。
 そういうこともふくめて、彼女は約2年通ってきましたが、その内私は福岡に転勤となりました。けれども、私には一度も暗い表情など見せたことのない彼女でしたから、あまり心配もせず別れました。

けれども、福岡に移ってしばらくした時、広島の人から、彼女が死んだという情報が伝えられました。死因は自殺。自宅でした。家の人が見つけたとのこと。聞いた時私は、彼女は息子たちのあとを追ったのだと思いました。
 彼女のことは、多々考えることもありました。けれども、私の記憶にいちばん残されたのは、クリスチャンでも教会員でもない彼女が、子どもたちの写真をたずさえて、十字架の足もとの聖壇に接近した瞬間でした。その時の彼女のうれしそうな表情は、神の祝福を受けている証拠に違いありませんでした。神の愛は、区別も差別もひょいと乗り越え、自由に、自在に働きかけるからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 11月10日 聖霊降臨後第25主日
説教題:「放蕩息子のたとえ その①」
説教者:白髭義 牧師
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