二日市教会主日礼拝説教 2023年4月23日(日)
復活節第3主日
使徒2:14a、36~41、Ⅰペトロ1:17~23、ルカ24:13~35
「イエスと赤ずきん」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日のルカ福音書24章の「エマオで現れる」は、復活したイエスが旅の途中の二人の弟子と一緒に歩いたという話でした。しかし二人は暗い顔をしていた。復活のイエスなら前途を照らす希望の光の存在だったはずなのに。聖書は、それは彼らの物分かりが悪く、心が鈍かったためだったと書かれていました。私たちにとっても考えさせられることが色々ある話でした。
話は変わりますが、私は以前あるキリスト教主義の高等学校で、礼拝の話を頼まれたことがあります。男女共学校ですが、私はグリム童話の話をしました。ところがあとから学校の理事長さんが、グリム童話の話はしないでほしいと言ったのでした。でも生徒たちはすごく熱心に聞いているのに……。しかしも学校側の要望ですから、それ以後グリムの話はやめました。
ところで、今の時代童話という言葉はあまり流行らず、メルヘンという言葉に取って代わられています。それはただ日本語を外国語に置き換えただけということではなく、対象を子どもに限定しなくなったからだと思います。たしかに、最近の大人はグリムをけっこうよく読んでいるのです。それはなぜなのか、考えてみる価値がありそうです。
ところで理事長さんが言いたかったことは、高校生に童話というのは幼稚すぎるというよりも、キリスト教の礼拝の場にグリム童話はふさわしくないということだったと思います。メルヘンの世界とキリスト教の真理は、水と油の関係。相容れないからであるということだったのでしょう。
以下はヨーロッパの話ですが、カトリックはメルヘンに対しては鷹揚な態度を示しているが、プロテスタントはメルヘン嫌いのようです。家庭でも子どもたちに昔話をすることさえ禁じているのがプロテスタントである。ではなぜ、プロテスタントはそうなのか。カトリックはメルヘンからでも信仰は学べるという考えなのに対して、プロテスタントは、信仰は神の言葉つまり聖書以外からは学べないという立場で、メルヘンは反キリスト的な考えや価値観を植え付けると警戒しているみたいなのです。
でも本当にそうなのか。メルヘンは、上手にお付き合いすればキリスト教のよいお友だちになるのではないか。そんなことを考えながら、「赤ずきん」のことを考えてみたいと思うのであります。
さて、「赤ずきん」のお話はこう始まっています。「むかし、小さいかわいらしい女の子がおりました。だれでも、ひとめ見ただけで、この子が好きになりましたが、一ばんかわいがっていたのは、おばあさんでした。おばあさんは、この子に何をやったらいいか、わからないくらいでした。あるとき、おばあさんは、赤いびろうどの頭巾をこの子にやりました。それがたいへんよく似合ったのでこの子は赤ずきんと呼ばれるようになりました。ある日、お母さんが赤ずきんにいいました。「さあ、赤ずきんや、ここにおかしとぶどう酒のびんがあるから、これをおばあさんのところに持っておいで・・・」。
おばあさんは、村から半時間ほどはなれた森の中に住んでいました。さて、赤ずきんが森にはいると、オオカミに会いました。それがどんなに悪いけだものか、赤ずきんは知らなかったので、オオカミをこわがりませんでした。
ところで彼女の母親は娘に、森の中はまっすぐ歩くこと、横道にそれてはならないと言い聞かせていました。けれどもオオカミは、横道にそれるならどんなに素敵な世界が広がっているかを教え、赤ずきんはその誘惑に乗ってしまいます。一方オオカミは先回りしておばあさんの家に飛んでゆき、森の一軒家を訪ね、おばあさんをぺろりとのみこんで、赤ずきんが来るのを待ち構えました。はたせるかな、赤ずきんがやってきたので、オオカミは赤ずきんをもぺろりとひとのみし、グウグウいびきをかいて眠ってしまいました。
ところがその時、「猟師が通りかかり、そのいびきのすごさに驚いて、家に入ってみると、ベッドに寝ているのはおばあさんではなくてオオカミでした。「こんなところにいやがったのか。こんちくしょうめ。漁師は鉄砲の狙いをさだめましたが、おばあさんを食べているかもしれないと思い直し、ハサミを取ってオオカミのおなかを切り裂き始めたのでした。
ところで、「赤ずきん」のテーマは「死んで生き返る」です。実はメルヘン全体のテーマが「死んで生き返る」なのですが、今それはさておきます。ところで、オオカミのお腹の中は真っ暗、死の世界でした。ところが、そこから赤いずきんの女の子が飛び出してきてこう叫んだのでした。「ああ、びっくりしちゃった。オオカミのお腹の中って、真っ暗よ」
さて私たちは、横道にそれて花に夢中な赤ずきんを見るとハラハラします。でも彼女のそれは、若さ、思春期の特徴かもしれません。しかし、赤ずきんはとにかく生まれ変わるのでした。思春期とは、途方にくれたり、やけになったり、精神をわずらったりと、それまでの少年、少女らしさが急速に崩れてゆき、問題が次々と起こる時期であります。従ってそれはまた、改めて自分を築く時期でもあり、人はそのようにして大人になるのです。そして大人になるとは、外見が変わることではなく内面の変化のことなので、オオカミのお腹から飛び出すのにも似ているのです。
ところで話はもう少しあって、赤ずきんは、大きな石をオオカミのお腹にと詰め込むという大仕事を開始いたします。このように、見事大人になった赤ずきんはこれで成人式を終えたも同然でした。ところで、「死んで生き返る」はキリスト教のメッセージでもあります。そうだったら、メルヘンは少しも反キリスト的ではないと思われてくるのです。
ところでイエスは、ある時ヤイロの家に行き、死にそうな子どもの手を取り、「少女よ、起きなさい」と言った。すると少女はすぐ起き上がり元気に歩き始めた。このマルコ6章の話と今の赤ずきんの話はまるで姉妹関係にある気がいたします。メルヘンは、もっと考えてみる価値がありそうであります。
復活節第3主日
使徒2:14a、36~41、Ⅰペトロ1:17~23、ルカ24:13~35
「イエスと赤ずきん」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日のルカ福音書24章の「エマオで現れる」は、復活したイエスが旅の途中の二人の弟子と一緒に歩いたという話でした。しかし二人は暗い顔をしていた。復活のイエスなら前途を照らす希望の光の存在だったはずなのに。聖書は、それは彼らの物分かりが悪く、心が鈍かったためだったと書かれていました。私たちにとっても考えさせられることが色々ある話でした。
話は変わりますが、私は以前あるキリスト教主義の高等学校で、礼拝の話を頼まれたことがあります。男女共学校ですが、私はグリム童話の話をしました。ところがあとから学校の理事長さんが、グリム童話の話はしないでほしいと言ったのでした。でも生徒たちはすごく熱心に聞いているのに……。しかしも学校側の要望ですから、それ以後グリムの話はやめました。
ところで、今の時代童話という言葉はあまり流行らず、メルヘンという言葉に取って代わられています。それはただ日本語を外国語に置き換えただけということではなく、対象を子どもに限定しなくなったからだと思います。たしかに、最近の大人はグリムをけっこうよく読んでいるのです。それはなぜなのか、考えてみる価値がありそうです。
ところで理事長さんが言いたかったことは、高校生に童話というのは幼稚すぎるというよりも、キリスト教の礼拝の場にグリム童話はふさわしくないということだったと思います。メルヘンの世界とキリスト教の真理は、水と油の関係。相容れないからであるということだったのでしょう。
以下はヨーロッパの話ですが、カトリックはメルヘンに対しては鷹揚な態度を示しているが、プロテスタントはメルヘン嫌いのようです。家庭でも子どもたちに昔話をすることさえ禁じているのがプロテスタントである。ではなぜ、プロテスタントはそうなのか。カトリックはメルヘンからでも信仰は学べるという考えなのに対して、プロテスタントは、信仰は神の言葉つまり聖書以外からは学べないという立場で、メルヘンは反キリスト的な考えや価値観を植え付けると警戒しているみたいなのです。
でも本当にそうなのか。メルヘンは、上手にお付き合いすればキリスト教のよいお友だちになるのではないか。そんなことを考えながら、「赤ずきん」のことを考えてみたいと思うのであります。
さて、「赤ずきん」のお話はこう始まっています。「むかし、小さいかわいらしい女の子がおりました。だれでも、ひとめ見ただけで、この子が好きになりましたが、一ばんかわいがっていたのは、おばあさんでした。おばあさんは、この子に何をやったらいいか、わからないくらいでした。あるとき、おばあさんは、赤いびろうどの頭巾をこの子にやりました。それがたいへんよく似合ったのでこの子は赤ずきんと呼ばれるようになりました。ある日、お母さんが赤ずきんにいいました。「さあ、赤ずきんや、ここにおかしとぶどう酒のびんがあるから、これをおばあさんのところに持っておいで・・・」。
おばあさんは、村から半時間ほどはなれた森の中に住んでいました。さて、赤ずきんが森にはいると、オオカミに会いました。それがどんなに悪いけだものか、赤ずきんは知らなかったので、オオカミをこわがりませんでした。
ところで彼女の母親は娘に、森の中はまっすぐ歩くこと、横道にそれてはならないと言い聞かせていました。けれどもオオカミは、横道にそれるならどんなに素敵な世界が広がっているかを教え、赤ずきんはその誘惑に乗ってしまいます。一方オオカミは先回りしておばあさんの家に飛んでゆき、森の一軒家を訪ね、おばあさんをぺろりとのみこんで、赤ずきんが来るのを待ち構えました。はたせるかな、赤ずきんがやってきたので、オオカミは赤ずきんをもぺろりとひとのみし、グウグウいびきをかいて眠ってしまいました。
ところがその時、「猟師が通りかかり、そのいびきのすごさに驚いて、家に入ってみると、ベッドに寝ているのはおばあさんではなくてオオカミでした。「こんなところにいやがったのか。こんちくしょうめ。漁師は鉄砲の狙いをさだめましたが、おばあさんを食べているかもしれないと思い直し、ハサミを取ってオオカミのおなかを切り裂き始めたのでした。
ところで、「赤ずきん」のテーマは「死んで生き返る」です。実はメルヘン全体のテーマが「死んで生き返る」なのですが、今それはさておきます。ところで、オオカミのお腹の中は真っ暗、死の世界でした。ところが、そこから赤いずきんの女の子が飛び出してきてこう叫んだのでした。「ああ、びっくりしちゃった。オオカミのお腹の中って、真っ暗よ」
さて私たちは、横道にそれて花に夢中な赤ずきんを見るとハラハラします。でも彼女のそれは、若さ、思春期の特徴かもしれません。しかし、赤ずきんはとにかく生まれ変わるのでした。思春期とは、途方にくれたり、やけになったり、精神をわずらったりと、それまでの少年、少女らしさが急速に崩れてゆき、問題が次々と起こる時期であります。従ってそれはまた、改めて自分を築く時期でもあり、人はそのようにして大人になるのです。そして大人になるとは、外見が変わることではなく内面の変化のことなので、オオカミのお腹から飛び出すのにも似ているのです。
ところで話はもう少しあって、赤ずきんは、大きな石をオオカミのお腹にと詰め込むという大仕事を開始いたします。このように、見事大人になった赤ずきんはこれで成人式を終えたも同然でした。ところで、「死んで生き返る」はキリスト教のメッセージでもあります。そうだったら、メルヘンは少しも反キリスト的ではないと思われてくるのです。
ところでイエスは、ある時ヤイロの家に行き、死にそうな子どもの手を取り、「少女よ、起きなさい」と言った。すると少女はすぐ起き上がり元気に歩き始めた。このマルコ6章の話と今の赤ずきんの話はまるで姉妹関係にある気がいたします。メルヘンは、もっと考えてみる価値がありそうであります。