イザヤ53:4~12、 ヘブライ5:1~10 ルカ12:35~38
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月20日(日)
腰に帯を締める主人のたとえ
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。予定を変更して「腰に帯を締める主人のたとえ」にいたしました。その聖書の個所はルカ福音書12章35節以下の「目を覚ましている僕(しもべ)」になりますが、「腰に帯を締める主人」のほうがいいと思ったからです。
ところで、聖書は「目を覚ましている僕」の見出しで、40節までを話の一区切りとしていますが、39節と40節はいきなり泥棒の話なので、それは切り離したほうがいいと思い、本日は取り上げません。
なお新約聖書は、イエスの死後色々な人たちが自分の考えで編集したものなので、本来のイエスの考えとは違う要素が入ってしまうことはよくありました。だから、今の泥棒の話も、従来は別の位置にあったのが今の形になったのでした。従って私たちは、本来のイエスの話や考えがどうなっていたかを考える必要があるのです。二千年の時を経ていま私たちが手にしている聖書ですから、そういうことにも頭を巡らせなければならない。そうしないと聖書は奇妙なへんてこりんな書物であるとみなされかねませんから、たとえば本日取り上げる話も注意して読んでゆくようにしたいと思います。
さてその観点で、本日の個所を整理してみると、35節から38節までで話は一区切りになっていて、39節以下の泥棒の話はイエスが別の機会に話した、その意味で私たちが本日取り上げる話といっしょくたにしてはならないのであります。
ところで話を元に戻しますが、この35節から38節を読んで、これもイエスのたとえ話だと思っている人は少ないかも知れません。あまりにも短いし、色々なたとえ話を読んできたあとならなおさらそんな気がするかも知れないからです。ところがこの短い話は、しっかりしたストーリーを備えているのであります。
さて、この短いたとえ話の主役は主人と呼ばれている人物です。なおこのたとえ話は、ストーリーの前に35節の「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉がありますが、この言葉の意味はあとで分かるようになっています。
そこで、ストーリー開始の36節以下を見ます。家の主人がどこかで開かれていた結婚披露宴の会場から戻ってくることから話は始まります。中東では結婚披露宴は夜間に行われました。昼間は猛暑なので行わない。二千年後の今も同じです。それに結婚披露宴は真夜中から明け方まで、夜を徹して行われるのが普通なので、最後まで付き合う人もいれば、途中で帰る人もいました。本日の話の主人もその一人でした。
こういうことが日常茶飯事なので、家に残っている人たちはいつ帰って来るか分からない主人を帰るまで24時間待つのは非現実的でした。だからと言って全員が眠りに入っていることも非現実的。なぜなら、玄関は厳重に錠前が降ろされていたからです。この家の主人は資産家だったので、防犯対策を厳重にするのが普通で、たとえ主人といえども玄関をするりと潜り抜けて家に入ることは出来ないようになっていました。だから、全員が起きている必要はなかったけれど、いつも起きている人間がいなくてはなりませんでした。
そういうことだったので、主人は自分の家なのに玄関のドアをノックしたのでした。そしてそのあと言われたことは、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのをみられる僕たちは幸いだ」でした。それは、眠りこけていたがノックの音で目が覚めたという意味ではなく、主人が帰るまでいつも起きていたという意味です。
ところで、いま僕たちという言葉が出てきましたが、これは正確には奴隷と訳したほうがよい言葉です。主人の家には大勢の雇人がいるのですが、雇人たちにも身分があって、一番下の身分が奴隷でした。その僕たちは必ず目を覚ましている。だから僕たちは幸いなのだとも書かれていました。
ところで、家での主人は三つの奇妙な行動を始めています。第一は「帯を締めた」ことです。当時の身分の高い人間は衣服の上から帯を締めることはしませんでした。そうするのは、使用人クラスの人間、もちろん奴隷も含めて家内労働に従事する者たちに限られていたからです。おそらくこの主人は家に帰ると大至急着ていた服を脱ぎ捨て、家の者たちが着る作業着を身につけ帯を締めたのでした。
そして二番目の奇妙な行動は、「この僕たちを食事の席に着かせた」ことだったと書かれています。これは誰が見ても日常とは正反対の行動で、私たちはこの段階に達して、「これはイエスのたとえ話だったのだ」と思い直すのであります。しかし、このあとの三番目の奇妙な行動が、食事の席に着いた僕たちのそばに来て、主人自ら給仕をしてくれたことだと知って、このたとえ話はあまり出来がよくないとかんじてしまうのであります。
なぜなら、この家には給仕するご馳走など残っているわけがなかったからです。ご主人は他家の婚宴で満腹して帰って来るに決まっていたからです。ところが僕たちの前にご馳走が並べられたというのですから、嘘だと思われても仕方ありません。
ところが、主人は宴会の途中で抜け出してきたのでした。それは宴会場に山盛りされていたご馳走を用意していったケータリング用の大きな袋に詰め込んで家に持ち帰るためだった。こうして主人から給仕してもらえることになった僕たちはさいわいであると、イエスは、話の締めくくりの38節で言ったのでした。従ってこの話も短くても深いメッセージがある神の国のたとえ話だったのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 10月27日 宗教改革主日
説教題:「宗教改革と日本人」
説教者:白髭義牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月20日(日)
腰に帯を締める主人のたとえ
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。予定を変更して「腰に帯を締める主人のたとえ」にいたしました。その聖書の個所はルカ福音書12章35節以下の「目を覚ましている僕(しもべ)」になりますが、「腰に帯を締める主人」のほうがいいと思ったからです。
ところで、聖書は「目を覚ましている僕」の見出しで、40節までを話の一区切りとしていますが、39節と40節はいきなり泥棒の話なので、それは切り離したほうがいいと思い、本日は取り上げません。
なお新約聖書は、イエスの死後色々な人たちが自分の考えで編集したものなので、本来のイエスの考えとは違う要素が入ってしまうことはよくありました。だから、今の泥棒の話も、従来は別の位置にあったのが今の形になったのでした。従って私たちは、本来のイエスの話や考えがどうなっていたかを考える必要があるのです。二千年の時を経ていま私たちが手にしている聖書ですから、そういうことにも頭を巡らせなければならない。そうしないと聖書は奇妙なへんてこりんな書物であるとみなされかねませんから、たとえば本日取り上げる話も注意して読んでゆくようにしたいと思います。
さてその観点で、本日の個所を整理してみると、35節から38節までで話は一区切りになっていて、39節以下の泥棒の話はイエスが別の機会に話した、その意味で私たちが本日取り上げる話といっしょくたにしてはならないのであります。
ところで話を元に戻しますが、この35節から38節を読んで、これもイエスのたとえ話だと思っている人は少ないかも知れません。あまりにも短いし、色々なたとえ話を読んできたあとならなおさらそんな気がするかも知れないからです。ところがこの短い話は、しっかりしたストーリーを備えているのであります。
さて、この短いたとえ話の主役は主人と呼ばれている人物です。なおこのたとえ話は、ストーリーの前に35節の「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉がありますが、この言葉の意味はあとで分かるようになっています。
そこで、ストーリー開始の36節以下を見ます。家の主人がどこかで開かれていた結婚披露宴の会場から戻ってくることから話は始まります。中東では結婚披露宴は夜間に行われました。昼間は猛暑なので行わない。二千年後の今も同じです。それに結婚披露宴は真夜中から明け方まで、夜を徹して行われるのが普通なので、最後まで付き合う人もいれば、途中で帰る人もいました。本日の話の主人もその一人でした。
こういうことが日常茶飯事なので、家に残っている人たちはいつ帰って来るか分からない主人を帰るまで24時間待つのは非現実的でした。だからと言って全員が眠りに入っていることも非現実的。なぜなら、玄関は厳重に錠前が降ろされていたからです。この家の主人は資産家だったので、防犯対策を厳重にするのが普通で、たとえ主人といえども玄関をするりと潜り抜けて家に入ることは出来ないようになっていました。だから、全員が起きている必要はなかったけれど、いつも起きている人間がいなくてはなりませんでした。
そういうことだったので、主人は自分の家なのに玄関のドアをノックしたのでした。そしてそのあと言われたことは、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのをみられる僕たちは幸いだ」でした。それは、眠りこけていたがノックの音で目が覚めたという意味ではなく、主人が帰るまでいつも起きていたという意味です。
ところで、いま僕たちという言葉が出てきましたが、これは正確には奴隷と訳したほうがよい言葉です。主人の家には大勢の雇人がいるのですが、雇人たちにも身分があって、一番下の身分が奴隷でした。その僕たちは必ず目を覚ましている。だから僕たちは幸いなのだとも書かれていました。
ところで、家での主人は三つの奇妙な行動を始めています。第一は「帯を締めた」ことです。当時の身分の高い人間は衣服の上から帯を締めることはしませんでした。そうするのは、使用人クラスの人間、もちろん奴隷も含めて家内労働に従事する者たちに限られていたからです。おそらくこの主人は家に帰ると大至急着ていた服を脱ぎ捨て、家の者たちが着る作業着を身につけ帯を締めたのでした。
そして二番目の奇妙な行動は、「この僕たちを食事の席に着かせた」ことだったと書かれています。これは誰が見ても日常とは正反対の行動で、私たちはこの段階に達して、「これはイエスのたとえ話だったのだ」と思い直すのであります。しかし、このあとの三番目の奇妙な行動が、食事の席に着いた僕たちのそばに来て、主人自ら給仕をしてくれたことだと知って、このたとえ話はあまり出来がよくないとかんじてしまうのであります。
なぜなら、この家には給仕するご馳走など残っているわけがなかったからです。ご主人は他家の婚宴で満腹して帰って来るに決まっていたからです。ところが僕たちの前にご馳走が並べられたというのですから、嘘だと思われても仕方ありません。
ところが、主人は宴会の途中で抜け出してきたのでした。それは宴会場に山盛りされていたご馳走を用意していったケータリング用の大きな袋に詰め込んで家に持ち帰るためだった。こうして主人から給仕してもらえることになった僕たちはさいわいであると、イエスは、話の締めくくりの38節で言ったのでした。従ってこの話も短くても深いメッセージがある神の国のたとえ話だったのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 10月27日 宗教改革主日
説教題:「宗教改革と日本人」
説教者:白髭義牧師