日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

10月20日

2024-10-23 15:43:19 | 日記
イザヤ53:4~12、 ヘブライ5:1~10 ルカ12:35~38
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月20日(日)
腰に帯を締める主人のたとえ
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 イエスのたとえ話。予定を変更して「腰に帯を締める主人のたとえ」にいたしました。その聖書の個所はルカ福音書12章35節以下の「目を覚ましている僕(しもべ)」になりますが、「腰に帯を締める主人」のほうがいいと思ったからです。
 ところで、聖書は「目を覚ましている僕」の見出しで、40節までを話の一区切りとしていますが、39節と40節はいきなり泥棒の話なので、それは切り離したほうがいいと思い、本日は取り上げません。
 なお新約聖書は、イエスの死後色々な人たちが自分の考えで編集したものなので、本来のイエスの考えとは違う要素が入ってしまうことはよくありました。だから、今の泥棒の話も、従来は別の位置にあったのが今の形になったのでした。従って私たちは、本来のイエスの話や考えがどうなっていたかを考える必要があるのです。二千年の時を経ていま私たちが手にしている聖書ですから、そういうことにも頭を巡らせなければならない。そうしないと聖書は奇妙なへんてこりんな書物であるとみなされかねませんから、たとえば本日取り上げる話も注意して読んでゆくようにしたいと思います。

 さてその観点で、本日の個所を整理してみると、35節から38節までで話は一区切りになっていて、39節以下の泥棒の話はイエスが別の機会に話した、その意味で私たちが本日取り上げる話といっしょくたにしてはならないのであります。
 ところで話を元に戻しますが、この35節から38節を読んで、これもイエスのたとえ話だと思っている人は少ないかも知れません。あまりにも短いし、色々なたとえ話を読んできたあとならなおさらそんな気がするかも知れないからです。ところがこの短い話は、しっかりしたストーリーを備えているのであります。
 さて、この短いたとえ話の主役は主人と呼ばれている人物です。なおこのたとえ話は、ストーリーの前に35節の「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」という言葉がありますが、この言葉の意味はあとで分かるようになっています。
そこで、ストーリー開始の36節以下を見ます。家の主人がどこかで開かれていた結婚披露宴の会場から戻ってくることから話は始まります。中東では結婚披露宴は夜間に行われました。昼間は猛暑なので行わない。二千年後の今も同じです。それに結婚披露宴は真夜中から明け方まで、夜を徹して行われるのが普通なので、最後まで付き合う人もいれば、途中で帰る人もいました。本日の話の主人もその一人でした。

こういうことが日常茶飯事なので、家に残っている人たちはいつ帰って来るか分からない主人を帰るまで24時間待つのは非現実的でした。だからと言って全員が眠りに入っていることも非現実的。なぜなら、玄関は厳重に錠前が降ろされていたからです。この家の主人は資産家だったので、防犯対策を厳重にするのが普通で、たとえ主人といえども玄関をするりと潜り抜けて家に入ることは出来ないようになっていました。だから、全員が起きている必要はなかったけれど、いつも起きている人間がいなくてはなりませんでした。
そういうことだったので、主人は自分の家なのに玄関のドアをノックしたのでした。そしてそのあと言われたことは、「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのをみられる僕たちは幸いだ」でした。それは、眠りこけていたがノックの音で目が覚めたという意味ではなく、主人が帰るまでいつも起きていたという意味です。
ところで、いま僕たちという言葉が出てきましたが、これは正確には奴隷と訳したほうがよい言葉です。主人の家には大勢の雇人がいるのですが、雇人たちにも身分があって、一番下の身分が奴隷でした。その僕たちは必ず目を覚ましている。だから僕たちは幸いなのだとも書かれていました。

ところで、家での主人は三つの奇妙な行動を始めています。第一は「帯を締めた」ことです。当時の身分の高い人間は衣服の上から帯を締めることはしませんでした。そうするのは、使用人クラスの人間、もちろん奴隷も含めて家内労働に従事する者たちに限られていたからです。おそらくこの主人は家に帰ると大至急着ていた服を脱ぎ捨て、家の者たちが着る作業着を身につけ帯を締めたのでした。
そして二番目の奇妙な行動は、「この僕たちを食事の席に着かせた」ことだったと書かれています。これは誰が見ても日常とは正反対の行動で、私たちはこの段階に達して、「これはイエスのたとえ話だったのだ」と思い直すのであります。しかし、このあとの三番目の奇妙な行動が、食事の席に着いた僕たちのそばに来て、主人自ら給仕をしてくれたことだと知って、このたとえ話はあまり出来がよくないとかんじてしまうのであります。
なぜなら、この家には給仕するご馳走など残っているわけがなかったからです。ご主人は他家の婚宴で満腹して帰って来るに決まっていたからです。ところが僕たちの前にご馳走が並べられたというのですから、嘘だと思われても仕方ありません。
ところが、主人は宴会の途中で抜け出してきたのでした。それは宴会場に山盛りされていたご馳走を用意していったケータリング用の大きな袋に詰め込んで家に持ち帰るためだった。こうして主人から給仕してもらえることになった僕たちはさいわいであると、イエスは、話の締めくくりの38節で言ったのでした。従ってこの話も短くても深いメッセージがある神の国のたとえ話だったのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 10月27日 宗教改革主日
説教題:「宗教改革と日本人」
説教者:白髭義牧師
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10月13日

2024-10-17 13:17:25 | 日記
アモス5:6~7,10∼15、 ヘブライ4:12~16 ルカ15:8~10
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月13日(日)
「失われた銀貨」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 これまで、イエスのたとえ話を考えてきましたが、本日はルカ15章の「無くした銀貨」のたとえ話を考えたいと思います。
さてめずらしいことに、このたとえ主人公は一人の女性です。彼女は、持っていた10枚の銀貨の内1枚を無くしたので、部屋を必死になって探しました。その結果見つかったので、近所の人や友達を招いてお祝いをしたという話でした。
ところで、このたとえ話の前と後にはあと二つのたとえ話があります。前が「見失った羊」で、あとは「放蕩息子」ですが、この三つには共通点が認められます。それは、「見失った」「無くした」「死んでいた」という言葉が出てくるように、人間は失われたも同然の存在なので、神に見い出されることで救われるのだという考えで共通しているからです。
なお私たちが考えたい「無くした銀貨」は特に前の「見失った羊」とよく似ています。見つけ出すのは羊飼いと女性という違いはありますが、真剣になって探したこと、見つかってお祝いをしたという点は同じだからです。

このように、無くした銀貨は見失った羊の直後にあって話が似通っていたせいか、見失った羊ほどは大事にされない傾向がありました。それに「見失った羊」の話がとても印象的だったので、次の「無くした銀貨」は簡単に軽く読まれるか、あるいは読まれないで素通りされる傾向もありました。
さて、その結果どういうことが起きたかというと、一番目の「見失った羊」の羊飼いと三番目の放蕩息子の父親のことはすごく心に残るのですが、銀貨をさがした女性のことはそれほど印象深くはないままに終わっていたのでした。そしてさらに、たとえ話を聞いた人は、一番目の羊飼いと三番目の父親から神をイメージすることができたのですが、二番目の女性から神をイメージするのは困難だったということがあったと思われるのです。
そして、その女性は神ではないのでということから、教会はこれを、ぼんやりしてるから無くした貨幣は大した額ではないのに大騒ぎして探すみっともない女のたとえ話のように説明するようになったのでした。いずれにしても、長い時代にわたって無視同然の扱いを受けて来た「無くした銀貨」だったのですが、最近になって風向きが変わってきたのでした。

 それは、この女性を神のイメージでとらえる人が増え始めているということです。もっとも、神を女性のイメージで語るというのは、聖書の伝統にも見られるもので、たとえば旧約のイザヤ書ですが、42章の13には神の言葉として「私は陣痛の女のように叫ぶ」というのがあり、66章の10以下には「母が子を慰めるように私はあなたを慰めよう」というのが、また「巡礼者は母エルサレムの乳房から呑み、膝の上であやされる幼子だ」という言葉もあるほどです。
 しかし、そのような聖書の伝統にもかかわらず、銀貨の持ち主の女が神のイメージに結びつかないのは、彼女があまりにもありふれた庶民の一人のように語られたからかも知れません。
 けれどもそのことよりも、今見た聖書の伝統を無視するかのように、キリスト教が、神のイメージを女性で語ることを敬遠してきたため、キリスト教徒もこのたとえの女性に神を見ることが思い及ばなくなっていたこともあるのでした。

さて、それはさておきますが、ここであらためて見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子の三つを並べてみれば、無くした銀貨だけの特殊性が見えてくるかと思われます。なお、見失った羊と放蕩息子の話の最大のテーマは悔い改めです。ただ迷い出た羊にしても見知らぬ土地をさまよう息子にしても、それを見ている立場の者としては、そのふらふらした姿に神の確かな救いを確かめることはまだ出来ません。したがって、間違いなく見つかり悔い改めに導かれるという確信は持てないのです。
ところが、銀貨の場合は話が違ってきます。これはワンルーム・マンションのような狭い空間の中だけで起きる話なので、誰だって念入りに探せば間違いなく見つかる銀貨の話だからです。もちろん、銀貨は死んだり生き返ったりしないし、悔い改めることもしません。また探す側の人間も、必ずこの部屋にあるという確信だけはゆらぐことがありません。
つまり、この三つを、神による救いのたとえ話という観点でとらえるなら、二番目こそがダントツに目立ってくるのです。というのも人はよく、わたしは迷える羊なのかもとか、オレの人生は放蕩息子そのものと言ったりしがちですが、その言葉を口にする時の心には救いの確信はおとずれてないと思われます。
もちろん、わたしは失われた銀貨よと言う人は一人もいません。銀貨は主人公にはなれないからで、スポットライトは最初から最後までこの女性に当てられ続けているたとえ話なのです。つまり、この話の女性は、失われても必ず見つけ出す神というイメージで登場していたキャラクターなのです。
以上のように、見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子の三つはワンセットであり、それぞれの角度から神の救いを説明しているのです。そして、羊や息子がともすれば心もとないという印象を抱かせるのに対して、銀貨の話は、人々を神の救いという港に導き、確かな錨を降ろさせる役割を引き受けているのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次週 10月20日 聖霊降臨後第22主日
説教題:放蕩息子のたとえ ①
説教者:白髭義 牧師
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10月6日

2024-10-09 12:26:03 | 日記
創世記2:18~24 ヘブライ1:1~4,2:5~12 ルカ16:22~31
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月6日(日)
金持ちとラザロ―その2:死後☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 イエスのたとえ話シリーズで、ルカ16章の金持ちとラザロを2回にわたって取り上げることにし、前回は、登場人物の金持ちと貧乏人のラザロの生前のことを取り上げました。今回はその続きで、死後のことを取り上げますが、それは16章22節以下です。22節に、「この貧しい人は死んだ」、「金持ちも死んで葬られた」と書かれているからです。

 ところで、彼らの死後を考えるには、生前のことを知る必要もありそうです。特にこの二人、生前と死後が180度違っているからです。ラザロの生前はどう見ても悲惨でしたが、死ぬとすぐ天使に伴われてアブラハムのもとに連れて行かれました。一方金持ちは毎日きれいなものを着て、おいしいものを食べて贅沢三昧の暮らしでしたが、死後は陰府つまり地獄の炎でもだえ苦しむ羽目になったからです。
 しかし聖書には、金持ちだったら誰でも地獄に行くという考えはありません。そうではなく生前の行いで決まるのです。問題点がいっぱいある生き方をしたから地獄行きになるのです。けれども、金持ちの生前が出ている22節を読んでも、彼が何か悪いことをしていたとは思えません。いい服、ごちそうの日々は世間の妬みの対象にはなっても、だから地獄行きとはならないからです。従って、金持ちの罪はむしろ彼の死後の言動から読み取る必要があるのです。

そこでまず見ておきたいのは、24節に書かれている金持ちのアブラハムに向かっての発言です。なぜなら、彼はアブラハムにラザロの地獄への派遣を要請したからです。「私は炎の中でもだえ苦しんでいる。冷たい水を飲ませてくれるよう言ってください。」しかしこの発言は、激怒を招く性質のものでした。なぜなら、神の代理人である人物に、あれをしろ、これをしろと指図することが許されない不遜な行為だったからです。
 しかも、アブラハムに大事にされているラザロを召使いよばわりしたのですから、金持ちが生前からいかに高慢だったかが知れるというものです。しかしながら、温厚で忍耐強いアブラハムは激怒するのでなく、むしろ丁寧に金持ちに対応しました。すなわち、あなたのおっしゃりたいことは理解しましたが、でも残念なことにラザロはそちらには行けないのです。なぜなら、私たちとあなた方の間には、越すに越されぬ深い淵があるからです。
つまり、ラザロがそこに行くのは物理的に不可能というわけですが、普通に考えても、越すに越されぬ深い淵のことは、今さら言われなくても誰でも知っていることです。まあ、金持ちだけが暑さで頭がおかしくなっていたので、ラザロが水を自分の所にもってくるなんて簡単なことだと思っていたのでした。
 しかし、口にしなくても誰でも知っていることを、アブラハムがあえてここで口にしたのにはわけがある、と考えてよさそうです。そのことはあとで考えますが、この発言のあと金持ちは、またまたラザロの派遣の要請をしています。今度は、自分の家の用事を口実に行かせようとしたのでした。まずしく、全身ができものだらけだったラザロを最後の最後までこき使おうとしたのでした。

 さて、アブラハムと金持ちが会話をしていた時、ラザロはどうしていたかというと、沈黙を守っていました。ところが、そう見えてラザロは、とんでもない行動を取ろうとしていた。なぜなら、金持ちのところに行こうとしていたからでした。冷たい水を飲ませるために。それに気づいたアブラハムが「行こうとしても超えられない淵がある」のだよと、ラザロに聞こえるようにくぎを刺したのでした。
 ということは、ラザロは金持ちの地獄に行くことは出来たのでした。要するに、天国から地獄への道はいつも開かれている。希望する人がいればの話ですが、今まで希望する人は一人もいなかった。ところが、一人あらわれた。それがラザロだったのでした。
以上は、地獄という「下方向」の方に降りて行こうとしたラザロと、生前から貧乏人や(アブラハムさえも)押しのけて「上方向」に心が向いていた金持ちの、実に対照的で、強烈に印象的な話でした。なお、イエスのたとえ話は、実生活の参考になったり、信仰心の鼓舞してくれたり、犯した罪の悔い改めに導いたりすることは全然目的になっていません。だから、何か役に立つ教訓が引っ張り出せなかったとがっかりする必要もないのです。とにかくじっくり味わうことさえできれば、イエスの目的はもう達成されているからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次回 10月13日 聖霊降臨後第21主日
説教題:失われた銀貨
説教者:白髭義 牧師
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