日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

7月21日

2024-07-26 11:03:38 | 日記
エレミヤ23:1~6、エフェ2:11~22、ルカ12:13~21
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2024年7月21日(日)
イエスのたとえ話 「富める愚か者」 
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日はルカ福音書12章の「愚かな金持ち」を取り上げます。なお、金持ちなら誰でも愚かだというわけではないことは後半で考えたいと思います。いずれにせよ本日の金持ちは、神から直接愚か者と言われたので、何が愚かだったのかを考えたいと思います。
 けれどもこの話の金持ちは、一見は愚かではありません。あえて言うなら、十分な蓄えが出来た時、「これからは食べたり飲んだりして楽しむぞ」と言ったことが愚かなのかなと思ったりしますが、それは誰でもそうなれば抱く自然な欲望に過ぎません。聖書もコヘレトの言葉2章のように、「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ」と言っていますから、金持ちの気持ちを愚かとするのは無理かも知れません。
 けれども神は、金持ちに「愚かな者よ」と言ったのでした。しかも、「今夜、お前の命は取り上げられる」、さらに「お前の物は、誰の物になるのか」と畳みかけたのでした。なお、たとえ話は神のこの言葉で終わっています。一体何が問題だったのか。彼の何が、「愚かな者」と言われても仕方なかったのか。このたとえ話の興味深い点は、それが簡単には分からないことにあるのです。

  そこで、この問題を解決する手段として、話を子ども向けの紙芝居にしてみることをお勧めしたいと思います。ある話を絵にする時は、話には出てこなかったことも描く必要が生じます。桃太郎なら、おじいさん、おばあさんの家の中の様子とか、鬼ヶ島がどんな所だったかまで描くことになるからです。だから、愚かな金持ちも、聖書には全く出てこないディティールも絵にしなければならなくなるのです。
 たとえば、金持ちの畑が豊作になる。畑は麦畑ですが、これは絵でも表現できるはずです。それと、彼は自分の倉を壊してより大きいのを新たに建てます。そこも絵で表す必要がありますが、建物の取り壊しと新倉庫の建築には沢山の人手が必要です。それに大きな倉でないと入りきらない小麦を畑で収穫した大勢の人たちも絵の対象になってきます。
これだけたくさん土地の人間が働くことになったその作業現場と対照的に、最後は金持ちがたった一人きりになっているラストの様子も描いてあげれば、この金持ちがどんな人間だったかの察しが子どもたちにもついてくるかもしれません。
子どもたちのそばで一緒に見ている大人たちも、この金持ちが自ら畑に出て汗を流す農夫ではないこと、大勢の人間が働いてくれたのに彼らと喜びをともにしようとしないタイプなのだと理解いたします。なぜなら、金持ちがねぎらったのは自分自身だけだったからです。ところで、むつかしいのは紙芝居の終わらせ方です。なぜなら、話は「お前の命は今晩取り上げられる」という神の声で終わりだからです。
 しかし、神の声にはあと一つ、「お前が残す物は誰の物になるのだ」があります。実はこれなのです! 後継者も遺産相続の家族も親族もゼロな金持ちが残す穀物はそれ以外の人々の物になったのでした。よかったですね、めでたし、めでたしで、たとえは終わっていたのでした。

 ところで、同じ金持ちでもカーネギーという人は違う道を歩みました。アンドリュー・カーネギーは1835年にスコットランドの貧しい家庭に生まれ、13歳の時に両親がアメリカに移住することを決めたため、以後アメリカでその生涯を送りました。職を得て最初に働いたのは綿織物工場で1日12時間、6日間働き、週給は1ドル20セントでした。当時はアメリカも産業革命のあおりで急激に変化している最中でしたが、カーネギーは転職を重ね、ある時から電信局の電報配達の仕事に就きました。週給は2ドル50セント。この会社の従業員はタダで劇場に入れたので、かれはすっかりシェークスピア劇の虜になりました。また自由閲覧が許されていた図書館で本を読みまくり生涯の本好きになりました。
 その後の彼のキャリアは目を見張らされるものがあり、28歳でペンシルバニア鉄道に週給4ドルで引き抜かれ、以後この会社が米国屈指の大企業になるまでの立役者として働きました。その内南北戦争が起き、北軍が武器と兵器の大量輸送の必要に迫られると、それを鉄道事業の面で協力し北軍の勝利に貢献しましたが、戦争に必要な工業製品の需要の高まりに着目し、鉄鋼業に転身しました。こうして、カーネギーは今に至るまで鉄鋼王と呼ばれる道をばく進しますが、50歳でようやく結婚し一息つけたのでした。

 その後彼は66歳の時、引退を考え準備に入ります。そしてモルガン銀行に会社を買収してくれるよう頼みますが、売却金額は4億8千万ドルで世界中を驚かせました。なお彼はすでに33歳の時に書いたものの中で「蓄財は偶像崇拝の種の一つである。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書いており、54歳の時に書いた本では「裕福な人はその富を浪費するのではなく、社会がより豊かになるために使うべきだ」と書いていました。あるいは、遺産相続には強く反対し、多額の遺産を子どもに残すのは、社会に還元できるはずの富を浪費するだけと信じていました。
 カーネギーは1919年の8月に気管支肺炎のために亡くなりました。その時残っていた遺産の最後の3000万ドルも社会奉仕の事業団体に寄贈されたのでした。
このように、カーネギーの話を聞いたあと「愚かな金持ち」のたとえ話を読むなら、イエスの心がストレートに見えてくるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 7月28日 聖霊降臨後第10主日
説教題:イエスのたとえ話「大宴会」
説教者:白髭義 牧師
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月7日

2024-07-11 15:14:48 | 日記
2024 7/7 聖霊降臨後第7主日説教  二日市教会 池谷考史
日課:エゼキエル 2: 1~ 5  2コリント 12: 2~10 マルコ 6: 1~13
説教題:「神の恵みを携えて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さんの上にありますように。

 今お読みした福音書は、イエスさまと弟子たちの宣教を伝える話でした。
言うまでもないことですが、イエスさまは人を救うために、命を捨ててまで仕えた方でした。そういう人は普通、周囲から感謝されたり、褒めたたえられるものではないでしょうか。現代でも、マザーテレサのように、見知らぬ人のために身を惜しまず働く人がおりますし、他にも命も惜しまず人に尽くす人の話を聞くことがあります。こういう人たちは多くの人から「あの人は立派だ」と称賛されて、好意的に受け入れられるものですが、イエス様は必ずしもそうではなかったようです。
今日の聖書は、イエスさまは故郷のナザレの人々からは受け入れられなかったことを伝えています。ナザレの人々にとって、イエスさまは大工のヨセフの息子として幼いころから成長を見てきたのですから、ひとりの人間でした。そんなイエスさまがまるで神さまからの権威を持つ者のように、会堂で知恵に満ちた言葉を語り、癒しなどの奇跡を行ったことなどを見聞きしたナザレの人たちは称賛するどころか、なぜ大工のヨセフの息子が、あんなことができるのか、理解が追いつかず戸惑ったのです。当然、イエスさまに神さまの愛や、救いの力を見ることはできなかったのです。
福音書は、イエスさまはナザレの人々の前で、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけだったこと、そして、人々の不信仰に驚いたことを伝えています。
そのように、福音書は、イエスさまですら宣教は常にうまくいくことばかりではなかったことを伝えているのです。

だからと言ってイエスさまは宣教をやめられません。神さまの救いを待っている人はたくさんいるのです。ですから、ナザレを離れ、宣教の場を付近の村へと移します。ここでイエスさまはご自身もそこを巡り歩いて宣教しつつ、12人の弟子たちを、二人ずつ組にして、宣教に遣されています。
ここで目を引くのは、弟子たちが持っていくことが許された持ち物のことです。こう書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」(7-9節)。
何とも心もとない持ち物です。でもイエスさまは、宣教にはたくさんの物は不要だとか、清貧が必要だ、などという意味でおっしゃったのではないでしょう。
確かに、弟子たちはほとんど何も持たずに宣教に赴きましたが、わたしたちがここで、目を向けたいことは、むしろ彼らが持っているもの、持たされたものです。彼らには、宣教にあたって持たされた大切なものがあります。それは、汚れた霊に対する権能でした。

この汚れた霊に対する権能ということについて、すぐ前に、イエス様がこの権能を用いて、汚れた霊に苦しむ人からそれを追い出し救った、という話が出てきます。
現代人のわたしたちには汚れた霊(これは悪霊とも言います cf.マルコ5:18)を理解することは難しいかもしれませんが、当時の人にとってそれは罪や死の力のように、人間を苦しめる恐ろしい力として現実的なものでした。この汚れた霊は例えば、不治の病など目に見える形で人を苦しめました。
しかも悪いことに、この霊に取りつかれたと見做された人は、神さまに見捨てられた人と考えられたので、周囲から助けの手を差し伸べられるどころか、誰からも親しい交わりすら拒まれたのです。二重の苦しみを課されることになったのです。この人々を救うため、イエスさまは汚れた霊を追い出したのでした。イエスさまは人間としての力や知恵でなく、神さまからの力によって、人々に救いを現す宣教を行ったのです。

話を戻しましょう。ここで、イエスさまが弟子たち汚れた霊に対する権能を授けたということは、彼らを、「人間の力による宣教」ではなく、「神さまの力による宣教」に送り出したということなのです。
宣教は神さまのなさる業ですから、宣教の為に必要なものは、たくさんの持ち物でもなければ、弟子たちの能力や資質ですらないのです。そういう人間的なものではなく、神さまの働きと力のみによるのです。
宣教は神さまの働きによって成し遂げられて行くものです。弟子たちを通して、神さまが働かれるのです。わたしたちの宣教もそうでしょう。
わたしたちのなす業は小さいかもしれません。人目を引かないかもしれません。でも、問題はそこではないのです。その小さなことに神さまが働かれることを信じて、それを為すだけです。

弟子たちは二人ずつ、救いを待つ人のところへ遣わされていったのですが、それは楽な働きではなかったでしょう。宣教はとても難しいことです。行った先には、いろんな人がおります。彼らを喜んで受け入れない人もいます。イエスさまですらナザレでは受け入れられなかったのです。
ですから、イエスさまはあらかじめ言うのです。
「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11節)。
足の裏の埃を払い落としなさい、とは、絶縁を意味する行為ですが、これは、裁きは神のものとして、弟子たちは救いを待つ人たちのところへ向かうという指示です。

イエスさまと弟子たちが宣教のために人々のところへ赴いたという話です。
こうした話を読むと、時代こそ違いますが、私たちのことと重ね合わせて考えるのではないかと思います。わたしたちもイエスさまの弟子の一人として、世に遣わされているからです。
わたしたちは、イエスさまの弟子のように村々を巡り歩いて宣教することはないのですが、いわば、教会からそれぞれの場所へ遣わされていって、日常生活でたくさんの人々とまじわりを持っています。それは、神さまの愛を分かち合う一人として、遣わされていると言えるのでしょう。
当時の弟子たちは、物もお金も、ほとんど何も持つことなく、ただイエスさまから授けられた汚れた霊に対する権能だけをもって遣わされたのでした。それは宣教が神さまの為される業だからで、その意味で、たくさんの物を必要としないのです。
わたしたちは宣教に役立つ何を持っているでしょうか?何かを持っていると思い当たる人も、誇れるものは何も持っていないと思う人もいるかもしれません。しかし、何も持っていなくても、神さまの働きを信じて、わたしたちが出会う人に、神さまからいただいた愛の片鱗を、自分の言葉や行いを通して届けることができるなら、それは私たちの宣教なのだと思います。そんな一人として、それぞれの場所にかえっていきたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、みなさんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

次週 7月14日 聖霊降臨後第8主日
説教題:善きサマリア人④
説教者:白髭義 牧師
※7日は白髭牧師入院中のため、池谷牧師の説教を代読しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月30日

2024-07-04 17:31:11 | 日記
哀歌3:22~33、コリントⅡ8:7~15、ルカ10:30~35
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2024年6月30日(日)
「イエスのたとえ話 善きサマリア人③」
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 「善いサマリア人」というイエスのたとえ話について考えてきました。なお、私たちは「善いサマリア人」よりも「善きサマリアびと(人)」の言い方に長期間なじんできた関係、ここも「善きサマリアびと」でゆきたいと思います。
 ところで前回は、山の道で旅人が強盗に襲われ、身ぐるみを剝がされ、死人のように道に転がされたこと、そしてその旅人の目の前を、祭司とレビ人が何事もなかったかのように通り過ぎたこと、さらに第三の人物がやってきたという話まで見てきました。

なお、第一・第二は祭司とレビ人でした。つまり神に奉仕する聖職者たちでした。そのことは着ていた衣服で分かったのですが、そんな立派なのを身にまとって聖なるお務めをする専門家が、今大至急の救助が必要な人間を見て見ぬふりをしたのですから、もうスキャンダルにほかなりませんでした。
けれどもそのことは、旅人を襲った強盗たちが、まだ近くに身を潜めているかも知れない。その思いになれば、誰でも必死になって逃げだすのは当然でした。だから二人が神に仕える職業だったことはあまり意味がなく、逃げ出したと誹謗中傷するのは的外れなのでした。だから、私たちも子どもに、「祭司やレビ人は良くない人間だね」と説明しないのが賢明なのかもしれません。

ところで、道端に横たわっていた旅人は、体の自由こそまったく利きませんでしたが、見るという行為だけは出来ました。だから一番目と二番目の通行人はその服装から判別して聖職者だと把握出来ました。そしてそうだと知ったとたん、すっかり安心したのでした。なぜなら、助けてくれる人間として最も確実な人がやって来たからです。ところが、その確固たる確信が目の前で崩れ去ったのでした。なぜならその祭司もレビ人も行ってしまったのですが、まだあきらめるのは早すぎると思いました。なぜなら「坊主や宗教家があてにならないことは珍しくはない」と思ったからで、しかし、それ以外にも手を差しのべてくれる人は必ずいると希望をつないだからでした。
ところが彼は、第三の人物の衣服を見て、奈落の底に落とされたのでした。よりにもよって、ユダヤ人が憎んでいるサマリア人だとわかったからです。しかし、このサマリア人は、彼の前に膝をかがめると、まるで野戦病院の看護兵のように、持っていた医学と看護学の知識とスキルをフルに活用しながら、最後に包帯までし終ると、旅人をロバに乗せて、いわゆる医療搬送まで始めたのでした。

しかし、旅人は助けてくれる人を自分で選んだのではありませんでした。そこが、このたとえ話のポイントの一つになります。手足の自由を奪われ、口を利くことも出来ず、自己表現が不可能だった旅人は、ただただサマリア人に自分をゆだねる以外に、出来ることはなにもありませんでした。そのままロバで宿屋に運ばれたのですが、イエスのこのたとえ話を聞いていた群衆は「これはやばいことになったぞ」と思ったのでした。
なぜなら、まず、宿屋がヤバかったからです。なぜなら、当時の宿屋は、今のホテルや旅館とは違って、常にきな臭い空気がただよっていたからです。だから一般人はまず泊まりませんでした。客はといえば、サマリア人のような旅の人だけでなく、やくざ者とか博徒とか犯罪者とかうさんくさい人間が宿泊していたからです。
なお、この話から推測すると、サマリア人は商売人で、各地を渡り歩いていました。お金の話も出てきますが、宿屋の主人との宿泊費の交渉は見事で、一泊して朝になると、デナリオンというお金をあまり多くない程度の金額だけ主人に手渡し、「このお金でこの人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに必ず払います」、つまりこの何倍も支払うと約束して宿を出て行きました。

というのも当時の宿屋は、病人やお金がない人を、奴隷市場に売ることを平気でしていたからでした。だから前金は少しにして、あとは帰りがけに気前よく払ってくれるのなら、旅人の身の安全はとりあえずキープできたからです。
けれども、サマリア人の命をエリコの町の住民が狙っているのは確かなことでした。つまり彼をリンチにかける。米合衆国南部でひんぱんだった、白人たちによる黒人のリンチと同じことがサマリア人に対して行われていたのでした。サマリア人はそれを警戒して、旅人を町のはずれでおろして行ってしまうべきだったのに、この人はそれをしなかった。そのことこそがたとえ話の中核になるのであります。つまり、このあとサマリア人はユダヤ人たちから殺された―かも知れない。
イエスのこのたとえ話を聞き終わった人たちは、その予感に襲われた。だからこそ、この話に甘くて心地の良いメッセージを期待することは不可能だった。
次回は、その続きということでさらに考えてみたいと思うものです。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 7月7日 聖霊降臨後第7主日
説教題:善きサマリア人④
説教者:白髭義 牧師
※白髭牧師体調を崩し入院のため池谷牧師の説教に代わる予定です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする