ネヘミヤ記8:1~3,5∼6,8∼10 コリント112:12~31a ルカ4:14~21
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月26日(日)
ある宣教師―その2
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
アンドリュー・エリス先生。彼は1926年(大正15年)10月13日にアメリカのデトロイトで生まれました。高校生の時にモード・パウラスという、日本で児童福祉の仕事をしていたのに戦争が起き、やむを得ず帰国した婦人宣教師に出会ったのがきっかけで、日本での宣教者になる決心をして神学校に入り牧師になりました。ところで、日米が戦争中のその時期、ルーテル教会の海外伝道本部は、戦争が終わったら、日本で農村伝道を始める計画を立てていました。
さて、その農村伝道の考えは、クルマをフル活用する伝道で、当時の日本人には思いもつかない斬新なものでした。そのためすでに、特別仕様のクルマを米国の自動車会社に発注していたのでした。そして、それがちょうど完成しかけていた時に、彼が神学校を卒業しようとしていたのでした。そこで本部は彼に、日本に行く時はそのクルマを運転して行くよう指示したのでした。
ところで、クルマは2.5トンのトラックでした。外見は、クロネコヤマトの宅急便にそっくりでしたが、もっとサイズがありました。そしてその車内は、半分が図書室であと半分が視聴覚教材室でした。そこには、映写機、幻灯機、オルガン、スピーカーが積み込まれていました。そのクルマを熊本に運び込み、誰かが運転して農村部を回り、伝道をするというものでした。日本はまだ、終戦直後の昭和20年代で、テレビも映画館もありませんでした。そこに映写機を運び込んで、映画を上映してキリスト教の伝道をする。ただ、その伝道を誰が担当するかは決まっていませんでした。
それは新人宣教師のエリスさんも同じで、あくまで自分の役割はクルマの運び屋だったからです。ところで彼が育ったデトロイトは、当時クルマ産業の中心地で、そのせいか彼は運転技術に大変習熟していました。でも熊本にそのクルマを届けるだけと思っていた彼を、九州にいる先輩宣教師たちは楽しみにして待っていたのでした。
はたせるかな、熊本に到着しクルマを「納品」すると、次の指示がありました。あなた自身がそのクルマで、熊本の農村伝道を行いなさいというもので、その時彼は25歳でしたが、このあとの55年間を熊本と運命と共にするような人生になろうとは、その時はまだ思ってもいませんせした。
さて、熊本は福岡と違って、山間部が多く、その意味では偉大な田舎でした。エリス先生はその熊本をそのクルマで巡回し始めました。そこで彼は、町や村に入ると、まず小学校や中学校の校長先生を訪問し、窓から見えるそのクルマを指さしながら、「運動場をお借りして野外映画会を開きたいのですが、いかがでしょうか」とお伺いをたてました。クルマには『天地創造』ほかの劇映画、ディズニーのアニメ映画、世界の報道映画、米プロ野球の試合の映像が満載でした。そしてどの学校も「どうぞ、どうぞ、なさってください。雨の時は講堂もお使いください」という返事でした。
こうして、エリス先生は学校の校庭での映画会を始めることにしました。ただ夜の前の明るい時間は図書室を解放、また紙芝居を見る子ども会も始めました。すると、子どもも映画会も、たくさんの子どもや大人がやってきました。家にテレビもなく、町に映画館もない人々に、エリス先生はエンターテイメントを提供し続けることになりました。集まったのは、子供会が四、五百人、夜は五百から八百人くらいでした。なおエリス先生は書いています。「キリスト教の話もしましたよ。ほんの少しですが」。
ある日のことです。日本に帰って来て、熊本の児童福祉施設で働いていたパウラス先生が言いました。あなたのクルマに私のところの子どもたちを乗せてください。彼女が言う子どもたちは、戦争で両親を亡くした戦災孤児でしたが、その子たちを浄行寺の坂の崖のほら穴前まで連れて行ってほしいというのでした。
彼女はこうも言いました。私は子どもたちにこう言います。ほら穴には、あなたたちよりも貧しい子たちが住んでいる。あなたたちは園でもらうお小遣いから文房具など何かを買って、その子たちにプレゼントしなさい……と。この言葉に、エリス先生は、これこそが彼女の教育の心なのだと思ったのでした。
ところで、日本はテレビが急速に家庭に普及してゆき、1962年にはテレビの受信契約者数は一千万人を突破しました。ということは、映画会の活動にも潮時が訪れたということでした。そこで、9年間続いた活動も終わりにしました。けれどもその間に集まった人たちの数は計り知れないものがあります。イエスはたとえ話でこう教えています。「人が土に種をまくと、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人はしらない(マルコ4章)」。
なお、エリス先生のこの後の活動のことは、次回以降にお話ししたいと思います。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 2月2日 顕現後第4主日
説教題:ある宣教師 その③
説教者:白髭義牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月26日(日)
ある宣教師―その2
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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アンドリュー・エリス先生。彼は1926年(大正15年)10月13日にアメリカのデトロイトで生まれました。高校生の時にモード・パウラスという、日本で児童福祉の仕事をしていたのに戦争が起き、やむを得ず帰国した婦人宣教師に出会ったのがきっかけで、日本での宣教者になる決心をして神学校に入り牧師になりました。ところで、日米が戦争中のその時期、ルーテル教会の海外伝道本部は、戦争が終わったら、日本で農村伝道を始める計画を立てていました。
さて、その農村伝道の考えは、クルマをフル活用する伝道で、当時の日本人には思いもつかない斬新なものでした。そのためすでに、特別仕様のクルマを米国の自動車会社に発注していたのでした。そして、それがちょうど完成しかけていた時に、彼が神学校を卒業しようとしていたのでした。そこで本部は彼に、日本に行く時はそのクルマを運転して行くよう指示したのでした。
ところで、クルマは2.5トンのトラックでした。外見は、クロネコヤマトの宅急便にそっくりでしたが、もっとサイズがありました。そしてその車内は、半分が図書室であと半分が視聴覚教材室でした。そこには、映写機、幻灯機、オルガン、スピーカーが積み込まれていました。そのクルマを熊本に運び込み、誰かが運転して農村部を回り、伝道をするというものでした。日本はまだ、終戦直後の昭和20年代で、テレビも映画館もありませんでした。そこに映写機を運び込んで、映画を上映してキリスト教の伝道をする。ただ、その伝道を誰が担当するかは決まっていませんでした。
それは新人宣教師のエリスさんも同じで、あくまで自分の役割はクルマの運び屋だったからです。ところで彼が育ったデトロイトは、当時クルマ産業の中心地で、そのせいか彼は運転技術に大変習熟していました。でも熊本にそのクルマを届けるだけと思っていた彼を、九州にいる先輩宣教師たちは楽しみにして待っていたのでした。
はたせるかな、熊本に到着しクルマを「納品」すると、次の指示がありました。あなた自身がそのクルマで、熊本の農村伝道を行いなさいというもので、その時彼は25歳でしたが、このあとの55年間を熊本と運命と共にするような人生になろうとは、その時はまだ思ってもいませんせした。
さて、熊本は福岡と違って、山間部が多く、その意味では偉大な田舎でした。エリス先生はその熊本をそのクルマで巡回し始めました。そこで彼は、町や村に入ると、まず小学校や中学校の校長先生を訪問し、窓から見えるそのクルマを指さしながら、「運動場をお借りして野外映画会を開きたいのですが、いかがでしょうか」とお伺いをたてました。クルマには『天地創造』ほかの劇映画、ディズニーのアニメ映画、世界の報道映画、米プロ野球の試合の映像が満載でした。そしてどの学校も「どうぞ、どうぞ、なさってください。雨の時は講堂もお使いください」という返事でした。
こうして、エリス先生は学校の校庭での映画会を始めることにしました。ただ夜の前の明るい時間は図書室を解放、また紙芝居を見る子ども会も始めました。すると、子どもも映画会も、たくさんの子どもや大人がやってきました。家にテレビもなく、町に映画館もない人々に、エリス先生はエンターテイメントを提供し続けることになりました。集まったのは、子供会が四、五百人、夜は五百から八百人くらいでした。なおエリス先生は書いています。「キリスト教の話もしましたよ。ほんの少しですが」。
ある日のことです。日本に帰って来て、熊本の児童福祉施設で働いていたパウラス先生が言いました。あなたのクルマに私のところの子どもたちを乗せてください。彼女が言う子どもたちは、戦争で両親を亡くした戦災孤児でしたが、その子たちを浄行寺の坂の崖のほら穴前まで連れて行ってほしいというのでした。
彼女はこうも言いました。私は子どもたちにこう言います。ほら穴には、あなたたちよりも貧しい子たちが住んでいる。あなたたちは園でもらうお小遣いから文房具など何かを買って、その子たちにプレゼントしなさい……と。この言葉に、エリス先生は、これこそが彼女の教育の心なのだと思ったのでした。
ところで、日本はテレビが急速に家庭に普及してゆき、1962年にはテレビの受信契約者数は一千万人を突破しました。ということは、映画会の活動にも潮時が訪れたということでした。そこで、9年間続いた活動も終わりにしました。けれどもその間に集まった人たちの数は計り知れないものがあります。イエスはたとえ話でこう教えています。「人が土に種をまくと、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人はしらない(マルコ4章)」。
なお、エリス先生のこの後の活動のことは、次回以降にお話ししたいと思います。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 2月2日 顕現後第4主日
説教題:ある宣教師 その③
説教者:白髭義牧師