日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

1月26日

2025-01-28 14:22:30 | 日記
ネヘミヤ記8:1~3,5∼6,8∼10 コリント112:12~31a ルカ4:14~21
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月26日(日)
ある宣教師―その2
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 アンドリュー・エリス先生。彼は1926年(大正15年)10月13日にアメリカのデトロイトで生まれました。高校生の時にモード・パウラスという、日本で児童福祉の仕事をしていたのに戦争が起き、やむを得ず帰国した婦人宣教師に出会ったのがきっかけで、日本での宣教者になる決心をして神学校に入り牧師になりました。ところで、日米が戦争中のその時期、ルーテル教会の海外伝道本部は、戦争が終わったら、日本で農村伝道を始める計画を立てていました。
 さて、その農村伝道の考えは、クルマをフル活用する伝道で、当時の日本人には思いもつかない斬新なものでした。そのためすでに、特別仕様のクルマを米国の自動車会社に発注していたのでした。そして、それがちょうど完成しかけていた時に、彼が神学校を卒業しようとしていたのでした。そこで本部は彼に、日本に行く時はそのクルマを運転して行くよう指示したのでした。

 ところで、クルマは2.5トンのトラックでした。外見は、クロネコヤマトの宅急便にそっくりでしたが、もっとサイズがありました。そしてその車内は、半分が図書室であと半分が視聴覚教材室でした。そこには、映写機、幻灯機、オルガン、スピーカーが積み込まれていました。そのクルマを熊本に運び込み、誰かが運転して農村部を回り、伝道をするというものでした。日本はまだ、終戦直後の昭和20年代で、テレビも映画館もありませんでした。そこに映写機を運び込んで、映画を上映してキリスト教の伝道をする。ただ、その伝道を誰が担当するかは決まっていませんでした。
 それは新人宣教師のエリスさんも同じで、あくまで自分の役割はクルマの運び屋だったからです。ところで彼が育ったデトロイトは、当時クルマ産業の中心地で、そのせいか彼は運転技術に大変習熟していました。でも熊本にそのクルマを届けるだけと思っていた彼を、九州にいる先輩宣教師たちは楽しみにして待っていたのでした。
 はたせるかな、熊本に到着しクルマを「納品」すると、次の指示がありました。あなた自身がそのクルマで、熊本の農村伝道を行いなさいというもので、その時彼は25歳でしたが、このあとの55年間を熊本と運命と共にするような人生になろうとは、その時はまだ思ってもいませんせした。

 さて、熊本は福岡と違って、山間部が多く、その意味では偉大な田舎でした。エリス先生はその熊本をそのクルマで巡回し始めました。そこで彼は、町や村に入ると、まず小学校や中学校の校長先生を訪問し、窓から見えるそのクルマを指さしながら、「運動場をお借りして野外映画会を開きたいのですが、いかがでしょうか」とお伺いをたてました。クルマには『天地創造』ほかの劇映画、ディズニーのアニメ映画、世界の報道映画、米プロ野球の試合の映像が満載でした。そしてどの学校も「どうぞ、どうぞ、なさってください。雨の時は講堂もお使いください」という返事でした。
 こうして、エリス先生は学校の校庭での映画会を始めることにしました。ただ夜の前の明るい時間は図書室を解放、また紙芝居を見る子ども会も始めました。すると、子どもも映画会も、たくさんの子どもや大人がやってきました。家にテレビもなく、町に映画館もない人々に、エリス先生はエンターテイメントを提供し続けることになりました。集まったのは、子供会が四、五百人、夜は五百から八百人くらいでした。なおエリス先生は書いています。「キリスト教の話もしましたよ。ほんの少しですが」。

 ある日のことです。日本に帰って来て、熊本の児童福祉施設で働いていたパウラス先生が言いました。あなたのクルマに私のところの子どもたちを乗せてください。彼女が言う子どもたちは、戦争で両親を亡くした戦災孤児でしたが、その子たちを浄行寺の坂の崖のほら穴前まで連れて行ってほしいというのでした。
彼女はこうも言いました。私は子どもたちにこう言います。ほら穴には、あなたたちよりも貧しい子たちが住んでいる。あなたたちは園でもらうお小遣いから文房具など何かを買って、その子たちにプレゼントしなさい……と。この言葉に、エリス先生は、これこそが彼女の教育の心なのだと思ったのでした。
ところで、日本はテレビが急速に家庭に普及してゆき、1962年にはテレビの受信契約者数は一千万人を突破しました。ということは、映画会の活動にも潮時が訪れたということでした。そこで、9年間続いた活動も終わりにしました。けれどもその間に集まった人たちの数は計り知れないものがあります。イエスはたとえ話でこう教えています。「人が土に種をまくと、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人はしらない(マルコ4章)」。
なお、エリス先生のこの後の活動のことは、次回以降にお話ししたいと思います。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2月2日 顕現後第4主日
説教題:ある宣教師 その③
説教者:白髭義牧師

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1月19日

2025-01-22 13:49:14 | 日記
イザヤ62:1~5 コリント112:1~11  ヨハネ2:1~11
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月19日(日)
ある宣教師―その1
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 これからお話しするのは、アンドリュー・エリスという人のことです。この人はルーテル教会のアメリカ人宣教師で、熊本で長く仕事をした人です。
 さてアンドリュー・エリスは、アメリカのデトロイトで、1926(大正15)年に生まれました。父親は二十歳過ぎにイギリスからの移民、母親もスコットランドからの移民で、この二人のもとに生まれたのでした。
ところで父親はイギリス聖公会の、母親はスコットランド長老教会の信徒だったので、子どもたちは二つの教会の間を行き来しました。ところが、大工の父が家を新しい場所に新築した時、最も近い教会はルーテル教会でした。
 なお当時のルーテルは、ドイツの移民の教会で言葉もドイツ語でした。ところがそのちかくのルーテル教会は、英語で礼拝をすると分かったので、家族はその教会に移りました。以後、アンドリューは最後までルーテルの会員でした。
 さて、アンドリューが15歳になった時期,アメリカと日本は戦争を始めていたので、アメリカ人と日本人は憎み合う関係になっていました。そんな時ある女性宣教師がアンドリューの町にやってきました。彼女はパウラスさんと言い、熊本のルーテル教会の慈愛園という福祉施設で長く働いてきましたが、戦争が起きて日本にいるアメリカ人は本国に帰ることになり、彼女も帰ってきたのでした。

 さてパウラスさんはデトロイトのアンドリューの教会で、日本の話をしました。彼女は言いました。「日本人と私たちはまったく同じ人間です。戦争は残念ですが、それでも私たちは日本人をも愛するべきです。戦争はいずれ終わります。その時、日本にはたくさんの宣教師が必要になることでしょう」。
 会場には、アンドリューのような若者も多く来ていました。アンドリューは彼女の熱いまなざしが自分に向けられているような気がしました。そして、この日のことが彼の人生を大きく決定することになりました。
 なぜなら彼はこのあとアンドリューは神学校に入ったからです。そして、終戦後の1950年に按手礼を受け牧師になりましたが、自分の希望する進路を教会の本部に伝えていました。そして彼は卒業後、別の学校で一年間、日本語の勉強をしました。そしてそのあとは、実家のあるデトロイトに戻って、日本行きの準備を始めました。実はその準備にはクルマのことが関係していたのでした。
 というのも、当時のアメリカのルーテル教会の海外宣教本部は、終戦直後の日本での新しい伝道計画を立てていたからです。それは、小型トラックほどの大きさのクルマを制作し、野外で映画会が可能な映写機を装備させ、またそのクルマには絵本や児童書や紙芝居も大量に積み込んで、日本全国各地を隈なく巡回して伝道活動をするという大がかりな計画だったからです。

 ところで、その計画のために必要な車両は、デトロイトが本社のフォードかGМに作ってもらい、完成車を日本に届けることにしていました。そのためにそのクルマを運転して日本に行く担当者として、近々日本に行く新卒のエリスさんに、本部は白羽の矢を立てたのでした。
 そんなわけで、宣教師になりたてのエリスさんは、日本に行くために、客船ならぬ貨物船に、クルマといっしょに乗船しました。目指した横須賀港に到着したのは昭和26年でした。当時は朝鮮戦争の真っ最中で、巨大な戦艦が港に停泊していました。なお彼が横須賀で降ろされたのは、その貨物船が軍事機密に関わっていたからだとあとから知らされました。
 そこで彼は、そのクルマを運転して横須賀港から横浜税関まで走りました。ところで彼に与えられていた任務はそのクルマを熊本に届けることでした。しかし横浜税関は、クルマは海上輸送をするから、お前は門司港税関に受け取りに行けと言いました。つまり、門司までは運転しなくてよくなったのでした。

そこで、エリスさんは時間に余裕ができたので、日本でぜひ会いたいと思っていた人をたずねました。その人はやはりアメリカ人宣教師で、名前はスタイワルトと言いました。彼は戦時中も米国に帰るのを拒否し、日本に住み続けていました。
 さて、スタイワルト先生は、訪ねてきた新参の宣教師にこう言いました。「日本も大変ですけど、幸いなことが三つあります。まず雨です。雨はよく降ります。この国は雨が多く、陽もよく照るから野菜が豊富に出来る。あとひとつは魚です。魚とご飯。最後に果物もたくさん出来る。雨、魚、果物。これで日本は助かります。」
 日本中が空腹な思いをしていることを知っていただけに、とても印象的な言葉でした。さてこのあと、門司港に行き、クルマを熊本まで運転してようやく目的を果たしました。ところが、日本の宣教師会は、運転が上手なこの若者をまだ必要にしていました。なぜなら会は、クルマをフル活用する新しい伝道の姿を模索していたからで、それを担う柱として彼を考えていたからです。しかもその伝道の第一歩を熊本で実行することにしていたので、エリスさんはこのあとも熊本を離れるわけにはゆかなくなり、それと車の運転から解放されることもなかったのでした。(この続きは次回にします)。 (日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義

次週 1月26日 顕現後第3主日
説教題:ある宣教師 その2
説教者:白髭義 牧師
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1月12日

2025-01-16 15:04:54 | 日記
イザヤ43:1~7  使徒言行録8:14~17  ルカ3:15~17、21~22
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月12日(日)
フジコとリスト
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
  本日は、「赤ずきん」の話の予定でしたが、変更して作曲家のリストを取り上げます。というのも、NHKのテレビが「そしてまた、フジコ・ヘミングとともに」という彼女の追悼番組をやっていて、彼女の興味深い発言を紹介したからです。フジコさんは、一昨年の11月東京の自宅で二階から転げ落ちて大怪我をし、入院しました。NHKはその入院先で病床にある彼女にインタビューをしたのでした。
ところで彼女は、入院の直前までは、その春に予定されていたコンサートの準備に打ち込んでいました。演奏会の柱はリストの「ラ・カンパネラ」で、彼女への取材もリストとその作品に焦点が合わせていました。
けれども、入院中のフジコさんは痛々しい姿で、普通の会話が困難な様子でした。そこで取材する女性記者は、大きな紙にマジックインクで質問したいことを書いてフジコさんに見せていました。この女性記者はフジコさんとは気心が知れた仲のようで、けっこう遠慮のない質問をしていました。そして話題がリストになったとき、こんな質問をしました。「フジコさん。リストのお家に行ったことがあるんですって?」。リストはドイツ人ですが、ハンガリーで生まれました。だから生家もハンガリーです。フジコさんがうなずくと、その家でどんな思いがしましたかと聞いたのでした。

そこでフジコさんはこう答えました。「彼がすごく信仰にあついことが好きだった」。さらにこうも言いました。「のちに彼はお坊さんになったでしょ? 牧師になりました」。この答を聞いて驚いた人は少なくなかったかもしれません。
実はリストは、1865年、54歳の時に、イタリアのローマで修道院入りをしたのでした。修道院はカトリックですから、「牧師になりました」は変かもしれませんが、彼女は普段思っていることをそのまま言った感じでした。要するに、リストがいかに信仰深い人物だったかを強調しようとしたのでした。
さて、修道院入り前までは、華やかな社交界で人々の注目を浴びつつ暮らしていたリストですが、修道院入りして生活がガラリと変わりました。すなわち、朝6時半に起床。そのまま部屋でコーヒーをすする。8時半にミサに参加。その後は一人で聖書朗読。再び聖餐式に出席、正午に食堂で皆と食事をする。午後は庭を歩き、聖書を読み、瞑想し時間を過ごす。8時に夕食、食堂で修道院長と信仰に関する質疑応答をする。部屋に戻って10時に消灯。
このような生活を毎日守ったのち、数年後にはそれを終わりにして、再び元の生活に戻っています。そのことはどう考えたらよいのか。そのためには、彼が入った修道院のことを知る必要があるのです。
というのも、彼が入った修道会はフランチェスコ会といって、他の修道会とは違った特色があったからです。なぜならフランチェスコ会には、第三部会というセクションがあって、そこは一般市民に解放されていたからです。つまり、信仰心は篤くても、家、財産、社会的地位を捨ててまで献身は出来ない人が、一定期間修道生活をするなら、その人にも修道士という称号が与えられるのが第三部会の制度だったのでした。
この制度は大変人気があって、入会希望者が後を絶ちませんでした。リストはその第三部会に入会してフジコさんが言った「お坊さん」になったのでした。なお、この第三部会に入会する人は中産階級の経済的にもしっかりしている人たちだったので、寄付や慈善活動への協力も積極的に行いました。たとえばリストも、演奏活動で得た収益の大半をそのような目的で使っていたのでした。

ところで、あまり知られていないことですが、彼は青年時代に神学校に入学する決心をしました。つまり聖職者になろうとしたのでした。けれどもそれは父親の猛反対で実現しませんでした。この時の固い決意が、数十年後の第三部会への入会で、姿かたちこそ違えどもかなえられたのだとフジコさんが考えたのであれば、ハンガリーの生家で何を思ったかという質問に、「のちに彼はお坊さんになったでしょ? 彼がすごく信仰にあついことが好きでした」と答えたことの意味もよく見えてくるのであります。
なお、多くの日本人がリストに抱くイメージは‟女たらし”かもしれません。どの本にもそれだけはしっかり書かれているからです。その中にあってフジコさんが、リストは信仰に厚い人だったと言ったことは、大いに参考すべきだと思うのであります。
ところで、カヴァノーという伝記作家はこう書いています。「たしかに、彼はスキャンダラスな人間だった。しかし、彼は決して嫌われ者ではなかった」。ざっくばらんに言うと、リストはお金を沢山稼いだ音楽家でしたが、お金に執着しない人間でした。そのような人間性を普段見せている彼を、人々はよく知っていたからでした。そして、それに加えて彼は、第三部会に入ったほどの人だった。フジコさんは心の目でリストをみていたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週 1月19日 顕現後第2主日
説教題:大災害の子どもたち
説教者:白髭義 牧師


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1月5日

2025-01-09 13:57:09 | 日記
エレミヤ31:7~14  エファソ1:3~14  ルカ2:22~32
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二日市教会主日礼拝説教 2025年1月5日(日)
ブラームス考
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
  新年の最初の日曜日、ここ数年は大作曲家の話をしてきました。その意味で本日はブラームスなのですが、彼とキリスト教とを結びつける人はあまりいないかもしれません。それと、私自身がブラームスをそんなには聴いていないことも告白させていただかなくてはなりません。
 それはともかく私は、大学時代は博多で過ごしました。そこで、家から遠くないシャコンヌという名曲喫茶にはよく通いました。一日中クラシック音楽の店ですが、客がリクエストすればそのレコードもかけてくれました。
 その時期、『ブラームスはお好き』という新潮文庫の広告が新聞に載りました。フランスの女性作家の作品でしたが、ただ私は「お好き?」と聞かれても返事のしようがありませんでした。名曲喫茶でもブラームスを聴いた記憶がなかったからです。
 なお、この話には後日談があります。この本はフランスで映画化され、日本語版も1961年に上映されました。ところが日本語版の時の題は『ブラームスはお好き』ではなく『さよならをもう一度』でした。つまり‟ブラームス抜き“の映画になったのでした。当時の日本でブラームスの影がいかに薄かったかという話です。それに私もそういう日本人の一人なのでした。ところで、その私がブラームスを聴くようになるのは、40年もあとのことでした。ブラームスは私にとっては時間がかかる音楽家なのでした。
 時間のことで言うと、意味は違いますが、ブラームス自身も時間がかかる人間でした。なぜなら、彼の交響曲第1番が出来たのは43歳の時だったからで、ベートーベンの第1は29歳の時ですから、かなり遅かったからです。でも、そのおかげというか、彼の交響曲第一番はベートーベンの第九と並べて遜色がないと言われるようになり、「第10交響曲」と呼ばれたりもしました。遅いのは必ずしもダメではないのです。

 ところで、時間がかかるで思い出すのは、クララ・シューマンとの関係です。クララの夫ロベルト・シューマンは≪女の愛と生涯≫≪詩人の恋≫の作曲家でしたが、彼女がまだ若い時に不幸な死をとげました。その時ブラームスはシューマンの弟子だったのですが、以後は遺族の面倒を見るようになり、子どもたちが成人したのちまで面倒を見続けました。そんな彼がクララに恋をしていたとしても、少しも非難される話ではありません。なお、彼女は一流のピアニストで世界中で活躍していました。つまり、経済的には全然困窮していたわけではなく、また亡き夫に対して抱き続けた愛情は死ぬまで変わらなかった女性でした。なお、彼にも縁談めいた話は沢山ありましたが、一つも実を結びませんでした。そして、クララが先に死んだ時、彼はいつものように独身でした。
しかしこのことは、ブラームスにとって気の毒な話ではありませんでした。なぜなら彼には、独身があまりにも身につきすぎていたからです。結婚は魅力だけれど、それで自由が奪われるのはいやだ。束縛を嫌い、孤独を愛するスタイルを生涯つらぬいたのがブラームスだったからです。世間は、彼とクララをかなわぬ悲恋と呼びたがりますが、ブラームスはこの件で深い傷を負ったのではありませんでした。

なお、ブラームスは死者の霊を慰める音楽・レクイエムを作曲しています。その曲の題は『ドイツ・レクイエム』でした。なぜ「ドイツ」かというと、この合唱曲の歌詞がドイツ語だったからです。というのもレクイエムはモーツアルトやフォーレでわかるように言葉はラテン語と決まっていたからです。ブラームスはその伝統を無視したのでした。
ただこれにはわけがありました。ラテン語で歌うのはカトリック側でしたが、彼はプロテスタントなのでラテン語にこだわらなくてよかったからです。しかも合唱で使ったドイツ語はルターが翻訳したドイツ語聖書の言葉でした。つまり、彼はこの作品で、自分はプロテスタント、しかも宗教改革の流れにあることを鮮明にしたのでした。
元を正せば、彼の親がルーテル教会で、彼もそこで洗礼を受け、死ぬまでルーテルの人間であり続けました。彼は生まれつきルーテルでプロテスタントなのでした。それよりも、彼が育ったのは貧しい家庭でした。音楽を学びたいと思った時は、学費を稼ぐために居酒屋でアルバイトをしました。そこは似たような境遇の若者が集まって、歌ったり踊ったりする場所だったので、彼はそのためピアノを弾くバイトをしたのでした。

ところで彼は生涯独身だったので、食事はいつも外食で、食べに行く店もやはり居酒屋でした。居酒屋が食堂を兼ねるのは普通でした。彼も人生の後半では一流音楽家としてそれ相応の収入を得ていました。それでも食事が、一流レストランではなく、若い時から通い慣れた下町の居酒屋なのでした。すると食事中の彼に若者たちが声をかけてくることがありました。自分たちが踊る曲を、ピアノが上手なこのお年寄りに弾いてもらうためで、そのような依頼はブラームスにはお安い御用でした。そして、ずっとのちに世界中で演奏されるようになった彼の『ハンガリー舞曲は、そのルーツをさぐるなら、この下町の居酒屋にあるのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週 1月12日 主の洗礼日
説教題:赤ずきん考
説教者:白髭義 牧師
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12月29日

2025-01-03 16:31:43 | 日記
サムエル記上2:18~20,26 コロサイ3:12~17  マタイ2:16~21
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二日市教会主日礼拝説教 2024年12月29日(日)
ある母からのXmasカード
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 マタイ福音書のクリスマス物語は「ヘロデ、子供を皆殺しにする」を含んでいるという意味では、決して明るく楽しい物語とはなりえていません。クリスマス物語は世界中の画家が手がけたテーマですが、この幼児大虐殺を絵にしたいと思った絵描きはいませんでした。マタイは暗闇の中に住む民(4章)への光こそがクリスマスだと言いますが、その暗闇は誰も見たくはない人間の現実なのかも知れません。
 ところで、兵庫県姫路市にある日ノ本幼稚園の保育士・縄晶子さんは、ある日の子ども礼拝で園児に質問をしました。その日は、神さまが創られた光を話題にしていたのですが、こんな質問をしたのでした。「神様が創られた光でも照らせない所はどこでしょうか」。
 さて、この質問に子どもたちが困ったかというと、そんなことはありませんでした。なぜならすぐ「それは心や」という答えが返ってきたからです。長い年月キリスト教保育にたずさわってきた彼女と、その園に毎日通う子供たちの間だからこそ成り立つユニークなやりとりでした。彼女はこう言っています。「自信がなく暗く不安定な心に、いくら光を照らしても、心は明るくなりません。暗い心を明るくしてくれるのもやはり人の心だと思うからです。

 ところで、同じ兵庫県の仁川教会付属保育園の保育士である大塚和子さんは『こどもの苦しみと喜び』という本を書きましたが、その中で「子どもは、いつも楽しそうで喜びにあふれていると思われがち」だが、それは違うと言っています。なぜなら大人のように彼らも苦しみ、悲しみ、不安を毎日体験しているというのです。
 さてある日、大塚さんの園に、三歳児のA子が入園してきました。彼女には、一つ違いの兄がいました。A子は、3歳にしては語彙が豊富で、表現力豊かな子でした。園生活を楽しんでいたのですが、家に帰る支度をする時間は違いました。なぜなら、ガラッと態度が変わって、大泣きを始めたからです。それも毎日で、なだめてもダメ。もっと激しく泣きます。どうしてかな? いくら考えてもわかりません。
そこでもっと様子を見ることにしました。彼女は遊びに夢中の時は母親を忘れていますが、帰宅の時間に母親が姿を見せると、いきなり泣き始めることが分かってきました。しかも、その時は、靴やカバンを投げ飛ばし、色々親を困らせ、ついには親なのにあれしろこれしろと命令さえするのでした。母親を自分の意のままに動かそうとしているA子を見ながら、大塚さんはあることに気がつきました。
というのも、A子の隣の部屋には兄がいたからでした。母親を隣に行かせまいとしている。何が何でも自分に引き留めておきたいA子。そのことに大塚さんは気づいたのでした。そこでまず、母親から話を聞くことにしました。すると母親は言いました。実は彼女は、先に兄を出産したあと体調を崩しました。ところが、すぐ続いてA子を妊娠したので、乳飲み子の息子を実家に預けました。そして、A子を無事出産したのですが、家に帰ってきた長男をみて愕然としました。なぜなら、彼の顔は能面のように無表情だったからです。

母親は思いました。「これは、私が急にいなくなったためだ!」。その変化に驚いた彼女は何とかしなければという気持ちが強くなり、急速に息子のほうに心が傾いてゆきました。ところが、母親がそうなった時は、娘が母親をいちばん必要とする時だったのでした。このため、娘は反抗的になり、二人の間の心の距離が縮まらないままに、A子は大塚さんの園に入園したのでした。しかし入園後も、母と娘の間のトラブルは解消することなく、二人の距離はますます離れていたのでした。
この話をしながら母親は言いました。「あの子が愛せません」。この悲痛な言葉を聞いて、大塚さんは思いました。「A子の反抗は、自分だけの母親でいてほしいという願望の表れだ」。そこで大塚さんは母親に次の提案をしたのでした。「しばらくは、A子ちゃんの気持ちをそっくり丸ごと受け止めるだけにしてみませんか」。
これを聞いて驚いた母親でしたが、すぐ次の日から実行を始めました。しかも、黙々とでした。すると、A子のあの暴君ぶりが次第に影をひそめ始めました。それに代わるように、大きな変化も訪れてきました。なぜなら、A子の鼻歌が聞こえるようになったからです。
さて、母の日も間もなくというある日、A子は絵を描いていました。それは、父親と母親がいて、その間に自分が立っているという絵で、その自分はしっかり笑っていたのでした。大塚さんは言います。「今までとは違った力強い線でした」。こうしてA子は、あらゆる手を使って自力で、母との関係を取り戻したのでした。
さて、後日母親は大塚さんにクリスマスカードを寄こしました。それにはこう書かれていました。「今はA子を本当にいとおしく思っています。我が子ですけど、とても素晴らしい子どもだと思っています」。これを読んで思いました。「子は母に戻り、母は子に戻っていったのだ」。

 さらに本にはこう書いていました。どんな子でも、泣くには必ず理由がある。泣けることはその子がしっかり感じ、考えている証拠である。つまり、自分を愛して欲しいと言っているのだ。大人はその眼差しをしっかり受け止めたいのである。
 またこうも書いていました。大人と子どもは、強者弱者の関係ではなく、互いに助け合い、共に生きる関係を作ることが大事である。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2025年1月5日 降誕節第2主日
説教題:ブラームス考
説教者:白髭義 牧師

☆この1年 ルーテル二日市教会のブログを開いていただきありがとうございます。
 新しい年もよろしくお願いします。
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