日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月25日

2024-02-29 14:03:14 | 日記
 創世記6:1~14、7:6~9、ロマ4:13~25、マルコ8:31~38
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月25日(日)
四旬節第2主日
「ノアの洪水―その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 旧約聖書の創世記をずっと読んでまいりました。先週は4章の「カインとアベル」でしたが、今回からノアの洪水の話になります。創世記の6章から9章までですが、かなり長いので、前半と後半に分け、本日は前半をやります。前半は6章の1節から7章の最後までです。さて、前半はこんな話です。
 神は、地上にふえた人間たちのあまりの悪さに愛想をつきるようになり、人間を造ったことを後悔し、これを滅ぼそうと考えた。しかし、その中にノアというとても正しい人がいたので、神はノアとその家族、それからすべての生き物の一つがいだけは滅ぼさないことにした。そこで神はノアに、三階建ての大きな箱舟をつくり、彼の家族と生き物を箱舟に入れるよう命じた。そこで、ノアは箱舟をつくり、命じられたように家族と動物を中に入れた。すると神が言ったとおり、地上には大雨が四十日四十夜降り続いた。そしてそのあと洪水が発生し、それが百五十日間も続き、地上の人間と動物は滅んでしまった。

 以上が、前半までのあらすじです。ところで、この洪水の話が始まる前に、奇妙な話がありました。1節から4節までですが、これはネフィリム伝説とも呼ばれる話です。すなわち、地上に人が増えた頃、神の子らは人間の娘たちの美しさに惹きつけられ、各自が好みの娘を妻にした。するとネフィリムという巨人が生まれ、勇猛な戦士となった。……大昔は世界中に巨人伝説がありました。ジプリの宮崎監督もその伝説をアニメ映画に取り込んだ感がします。
 そのような巨人伝説がノアの洪水にもあるのですが、それと洪水とどう関係するのか、首をかしげる人もいると思います。ところが関係はあるのです。それを知るためには、この創世記を書いた人のことを考える必要があります。ただし、その人の名前は分かっていませんから、仮にAという名前にしておきたいと思います。

ところで著者のAは、ノアの洪水の話を書くにあたって、巨人伝説を取り込んでみようと考えました。というのも、彼が生きたのは、強大な権力を持つ王たちが国を治めていた時代だったからです。そしてそれらの王は皆一夫多妻主義者でした。たとえば、列王記上の11章8節によると、ソロモンという王には七百人の妻がいたと書かれています。七百人の妻なんて、力ずくで王宮に連れて来られたに決まっています。Aは、これらの王は神の厳しい裁きの対象になると考えていました。するとそのあとに洪水の話が続くわけで、創世記の洪水物語の隠されたポイントは、女性や弱者を踏みつけにしていた権力者が批判されていたことにあるのでした。
 さて、このあとノアは箱舟を作り、地上の生き物たちを、神の指示に従って雄と雌一つがいずつ箱舟に入れてゆきます。実は、この「一つがい」にも洪水物語の隠されたメッセージがあるのです。洪水物語は繰り返し、一つがいの動物は雄と雌だったことを強調しています。それによって、著者のAは、人間も一人の夫と一人の妻で夫婦となるべきだと言っていたのでした。聖書は創世記のエデンの園で神が、「男と女は父母を離れて結ばれ、二人は一体となる」と言っていますし、新約聖書でもイエスが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言いました。正しい夫婦の在り方の教えが、動物たちの姿を借りて言われていたのでした。

 ところで、洪水の話自体は6章の5節から始まります。「主は、地上の人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計っているのを見て、人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。世界的な神学者、北森嘉蔵は『神の痛みの神学』という本を書きましたが、彼はノアの洪水に心を痛める神が出てくるのに驚きました。なぜなら、彼の考える神の痛みはキリストの十字架関連の話だったからです。もちろん、それは新約聖書での話ですから、十字架よりもはるか前の旧約の創世記にもう出ていたからです。
なお北森が書いている神の痛みとは、神の愛を人間が裏切ったことから来ています。神の愛と人間の裏切りは水と油の関係なのに、その二つが交わりあってしまった。その場所が十字架である。そのため神に激しい痛みが生じた。なぜなら、裏切は断固として罰なのに、愛の神は罰をためらう。しかし、神の罰はどうしても必要だった。そこでキリストが人間に代わって罰を受けた。これが十字架で、神の痛みの考えなのです。
だから、北森にとっては、新約ではない創世記に神の痛みが出てくるのは早すぎるのです。けれども、ものは考えようで、洪水の場面での神の痛みには別の理由があったと考えればよいのです。というのも今の創世記では「地上に悪が増し、常に悪いことばかりだった(6:5)」とか、「この地は堕落し、不法に満ちていた(6:11)」とか書かれ、言われている人間の罪も、決して悶々として悩んでいる人の個人の罪のことではなく、悪は悪でも巨悪の悪、堕落も社会を崩壊に落とし込むような堕落を神が言っていたと思えるからです。
だから、著者Aも、洪水を世界的な規模で描くことで巨悪に対応させた、つまり悪や堕落の源である権力が意識されていたと考えたいのです。
ところで、ノアの洪水の話は子どもたちにはいつも大人気です。それは動物たちのオンパレードが楽しめるからなのですが、それにしても、二千年以上も前に書かれた聖書という書物が今でも現役で活躍中ということには、改めて驚かされるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次回3月3日 四旬節第3主日
説教題:ノアの洪水 その2
説教者:白髭義牧師
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2月18日

2024-02-21 15:50:10 | 日記
創世記4:13~16、Ⅰペトロ3:18~22、マルコ1:9~15
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月18日(日)
四旬節第1主日
「カインとアベル―その3」
「カインのしるし」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一同にありますように。
 さて私たちは、先週と先々週、カインとアベルについて考えました。そして本日も引き続きそれを考えたいと思います。ところで、本日のテーマは「カインのしるし」にします。そのカインのしるしのことは創世記4章15節に書かれていますが、そこでは、神がカインにしるしを付けたと書かれています。それではどんなしるしだったのか、私たちとは何か関係があるのかを考えてみたいと思うのです。

 ところで、カインとアベルの話は、人類史上最初の殺人、あるいは初の兄弟殺しとして人々によく知られています。創世記4章がその話なのですが、それによると、カインとアベルはアダムとエバの間に出来た子どもたちでした。2人は成長すると自分の仕事を持ちますが、各自が献げものを神の前に持参しました。ところが神は、アベルのは気に入りましたが、カインのには目もくれませんでした。
 ここで聖書は書いています。「カインは激しく怒って顔を伏せた」。そのカインに神は言います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔をあげられるはずではないか」。この時カインが己を律して怒りを抑制していれば、殺人は起きなかったはずでした。しかし、彼は弟を誘い、野原に連れて行ったあげく、襲って殺したのでした。このこと自体重大な犯罪でしたが、彼はそれに輪をかけるようなことをさらにしてしまいます。
 というのも、神が「弟のアベルはどこか」と聞いた時、「知りません。私は弟の番人でしょうか」と口答えをしたからです。聞かれてすぐ自分の非を認めたのではないカインに神は言いました。「何ということをしたのか。弟の血が私に向かって叫んでいる。今お前は呪われる者となった。今後は地上をさまよい、さすらう者となるであろう」。

 カインは、神のその言葉で初めて、罪に対する罰がどんなに怖いものかを悟って、「私の罪は重すぎて負いきれない。地上をさまよい、さすらえば、見ず知らずの者がたちまち襲ってくる」という意味のことを言ったのでした。あたかも野獣がうろうろしている密林に丸裸のまま投げ込まれた感じなのでした。
 なお兄弟殺しは、今の時代でも厳しく糾弾されますが、それだけにカインへの罰がどんなに大きくても、私たちは驚かないかもしれません。けれども、カインへの罰は、彼の想像をはるかに超えていたので、「その罰は重すぎて負いきれない」と言ったのでした。ただ、ただ恐怖しかない罰のすごさ、そういうのには絶対耐えられないという自分を赤裸々にさらけだしたのでした。

ところでこれは、決して赦されない兄弟殺しの話なのですが、これを読む人は心理的に揺れてしまうかも知れません。なぜなら、殺人事件の事の発端は、神がカインの捧げものを拒否したことに始まっているからです。だから読む人は、カインの罪を憎むというよりも、同情のほうが強くなってしまうわけで、「神はえこひいきをした。それはよくない」という思いをひきずりながらカインを見てしまうからです。
つまり、ほかの殺人事件ならひとごとのように思えるのに、カインの場合はそうは出来ない。それどころか、カインはこのあとどうなるのか。いかなる人生を送るのかまで心配してしまう。考えようによっては、カインとアベルはおかしな話なのであります。

ところで、13節と14節に繰り返し出てきた「さまよい、さすらう」の言葉は、今の社会を生きる現代人が抱えている何かと共通性があるのかもしれません。それはともかく、アベル殺しの重大さが分かったカインの心には得体の知れない不気味な不安と恐怖が生まれ、弟に対して抱いていた殺意を、今度は他者に投影・転嫁し、転嫁された殺意の前で自身がおののくという、精神分析の対象になるかもしれない複雑な心理状態が聖書で言われていたのでした。

以上は、14節までの内容ですが、15節に入ると雰囲気がガラリと変わります。なぜなら、不安を訴えるカインに神が耳を貸したからです。その時神が言ったことは、今後はカインを保護する、それも徹底的に保護するということでした。彼を脅かす者は7の7倍仕返しを受けるであろう・・・。
ただし注意すべきは、カインの殺人の罪を赦されたわけではないということです。それでも神は「誰も攻撃出来ないしるしをお前に付ける」と言ったのでした。これが「カインのしるし」なのです。このため昔から学者たちは、それはどんなしるしだったかで議論してきました。しかし、結論は得られていません。ただ一つだけはっきりしているのは、そのしるしがあるため誰も彼を攻撃出来ないということでした。それだけのことかも知れませんが、カイン本人は、得体の知れない攻撃の恐怖から解放されたのでした。

ところで、神がカインの殺人罪を赦してないことは、16節でわかります。なぜなら、カインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」からです。これは追放です。彼は罰として追放されたのでした。それは犯した罪の結果でした。しかし、それにもかかわらず、彼には神のしるしがあったのでした。たとえ追放であっても、それで神が見棄てたということではない。カインはそのことが理解できたのでした。
さて、この物語を読む人の中には、「自分にもカインのしるしが?」と思う人がいるかもしれません。その人は、いつかこの世をさまよい、さすらうことがあるとしても、それは決して神に見捨てられたことではない・・・。この小さくてもゆるがない確信が人生を支えることは大いにありうるのです。
以上のことは、創世記をさらに読み進めることでますます明らかになってゆくと思われます。次回はその意味でノアの話を考えたいと思います。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次回2月25日 四旬節第2主日
説教題:ノアの洪水
説教者:白髭義 牧師
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2月11日

2024-02-15 13:08:00 | 日記
創世記4:6~16、Ⅱコリ4:3~16、マルコ9:2~9
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月11日(日)
主の変容日
「カインとアベル―その2」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 先週に引き続きカインとアベルのことを考えたいと思います。聖書は創世記の4章です。さてカインとアベルの二人で名前がよく知られているのはカインです。「カインの末裔」という小説もあったほどで、こういう題からも言えることは、カインの問題は人間全体の問題であるということです。聖書の話を読んだ人は、自分もカインの末裔かもしれない思ったりもする。末裔とは子孫のことです。
 カインと比較するとアベルはそれほど重視されてはいない感じです。従って、人はアベルの末裔とはあまり言いません。ところが、このアベルに光を当てた人がいました。それは北森嘉蔵という神学者です。北森は熊本の出身で、最初はルーテル教会の牧師になりましたが、のちに日本キリスト教団の牧師になった人です。神学者としての立場はルター神学です。この北森嘉蔵がこう言ったのでした。「我々は、カインの末裔ではあるが同時にアベルの末裔でもあるのだ」。つまり、アベルもカイン同様、人間全体の問題を示すケースだというのでした。

 ところで、聖書の「カインとアベル」は、カインが弟アベルに「さあ、野原に行こう」と誘い、野でそれを殺したという話でした。北森は、カインをそうさせたのは競争心と嫉妬心だったと書いています。さてこの時神が登場し、カインに「弟アベルはどこにいるのか」と聞くとアベルは「知りません、私は彼の番人でしょうか」と答えたのでした。このあとが物語の核心部になります。というのも神が、「お前は何をしたのだ。弟の血が土の中から私に向かって叫び声を上げている」と言ったからです。アベルの死体から流れる血が叫び声を上げていたので、その叫びが神の耳にも届いたのでした。 
ではアベルは何と叫んでいたのか。でも聖書はそれについては何も書いてないのです。しかし北森は言います。誰でも推測くらいは出来るのではないか。それは恨みと呪いの叫びだったからだ。北森によると、その手の叫びはかなり根が深いのでした。人間の本性から出るものだからです。だから激しくて強烈で、いつまでも消え去らないのだ。北森はアベルの叫びをそう見ていました。
ところで北森はここで、聖書にあるもう一つの叫びを紹介します。それは十字架上でのイエスの叫びです。さて、この叫びも激しく強烈であった。その点ではアベルとイエスはよく似ているかも知れないが、同一視することはできない。なぜならイエスのは神の子の絶望的な叫びだったのに対して、アベルのは恨みと怨念と呪いの叫びだったからである。
ここで北森はもうひとつ付け加えます。我々の人間の叫びとイエスの叫びも同一視は出来ない。けれども、アベルと私たちの叫びなら同列に並べることが出来る。それではもう一度考えるが、イエスとアベルの叫びはまったく無関係だと言い切れるのだろうか。

北森は、無関係ではないと考えています。なぜならまず、殺されたアベルの血の叫びが激しく強烈であったように、イエスの叫びも激しく強烈であったからだ。しかし、両者の違いがあるとするなら、イエスの叫びはアベルと較べようがないほど激しくて強烈であったことだ。
たしかに、アベルのはドロドロとしているのに対して、イエスのはそうではないという言い方は出来るのですが、北森が言いたいことは、このイエスの叫びは、人間のあらゆる叫びを抱きかかえるほどのものだったのです。だから、人が十字架の足もとまで引きずってきた恨みも怨念も呪いも、イエスが十字架上で引き受けて死んでくれたので、そこに救いがあるということでした。
北森は、聖書は立体的に見るとよいと言います。アベルとイエスは一見結びつきませんが、北極と南極も一見結びつかないが地球の大きな軸で一つであるようなものなのだと言うのです。
ところで北森は、カインについてもこういうことを言っています。「カインはかわいそうな被害者である」。言われてみれば思い当たることがあります。なぜならカインは、アベルと並んで捧げものをしたのに、神はアベルの捧げものは受け取り、カインのには目もくれなかったからです。創世記4章ですが、これはあきらかに神のえこひいき、多くの人がそう感じるのです。
これについては、色々な学者が、それはえこひいきではなかったと説明してきましたが、説得力に欠いていました。とにかくカインは頭にきたのでした。私たちも同情せざるを得ません。だから「カインはかわいそうな被害者」なのですが、ただ彼がそのことに固執し続けるなら次第に論点がずれてゆくのです。では憤りの中に留まり続けることがなぜダメかというと、そうしているかぎりは罪の意識は生じないからです。つまり留まり続けることは、相手を責め続けることだからです。

つまりカインは、相手を責めるのをやめて、自分自身を責める方に転換しなければならなかった。ところがそれに失敗したのでアベルを殺してしまった。しかし、このあとの聖書を読むと、カインは遅まきながら方向転換に転じています。それはカインの「私の罪は重すぎて負いきれない」と言葉がそうでした。4章13節ですが、北森は、遅まきであってもカインのそこに注目してほしいと言います。なぜならこの13節になるとカインは、弟も、親も、神をも責めてはいないからです。こののちカインは追放されますが、それを罪に対する罰とカインは受けとめていると北森は書いています。

以上みたように、カインとアベルも優れた神学者の手引きに従うと、色々なことに気づかされるのでした。なお、北森嘉蔵は世界的な神学者で、彼の書いた『神の痛みの神学』という本は世界の各国語に翻訳されています。
さて、「カインとアベル」は次回もう一度取り上げます。エデンの園から追放された人間はいかに生きるのか、考えさせられることが多いからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2月18日 四旬節第1主日
説教題:カインとアベル その3
説教者:白髭義 牧師
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2月4日

2024-02-07 14:25:50 | 日記
創世記4:1~9、Ⅰコリ9:16~23、マルコ1:29~39
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月4日(日)
顕現後第5主日
「カインとアベル―その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
私たちはいま、旧約聖書の創世記を読んでいるところです。前回までは、エデンの園の中での出来事を見ましたが、今回は創世記4章の「カインとアベル」を取り上げます。カインとアベルは、人類史上最初の殺人事件として有名ですが、この話の解釈は一つにとどまらず、人によって全然 正反対の意見を言う人もいて、だからそれだけ関心を抱く人が多いということなのです。

そこで私たちも、複数の人の解釈に目を通したいと思うのですが、今週は三浦綾子がどう解釈していたかを見ます。さて、『氷点』や『塩狩峠』で知られる作家三浦綾子は大正11年(1922年)に北海道の旭川で生まれました。道内の小学校で教員をしていた時に肺をやられ、24歳の時から13年にわたる闘病生活に入りました。この入院中の30歳の時、札幌北一条教会の洗礼を受けています。
さて、病床にあった彼女のもとをたずねていた人たちの中に、西村久蔵というキリスト教徒がいました。その時彼は50代でしたが、二百人の従業員が働く製パン工場の経営者であり、札幌市内でたくさんの洋菓子店や喫茶店も手がけていました。そのように多忙だった西村久蔵が親しく通ってきてくれたのでした。
その彼が彼女にこう言いました。「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある人たちです。神さまがそう託されたからです」。この言葉は彼女の胸に深くしまい込まれました。ところがその彼は間もなく帰らぬ人となったのでした。葬儀には800人以上もの人が詰めかけ、中に入りきれない人が多く出ました。

ところでこの西村久蔵は若い頃、キリスト教のある集会で、説教者がキリストの十字架の話をするのを聞いて、十字架のイエスの痛々しい様子が心に焼き付けられ、「この神の子を十字架につけたのは私にほかならない」と思うようになり、今後自分はイエスが流した血に清められるような生き方をすると決心しました。
この西村は綾子の目にはなよなよしたクリスチャンではありませんでした。むしろ語気あらく彼女を𠮟りとばしたほど、炎のように激しい人でした。しかしその人物が彼女のその後の人生に大きな影響を与えたのでした。「久蔵の生涯は、キリストの十字架を見上げながら歩んだ生涯であった」と彼女は書いています。
ところでその後日、彼女が病床で旧約聖書を読んでいた時、あの西村の言葉がよみがえってきました。「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある人たちです。神さまがそう託されたからです」。それはカインとアベルの話を読んでいた時のことでした。なぜなら、兄のカインが弟のアベルを殺した直後、神がカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」と質問したからです。今さっき殺して土に埋めてきたばかりのカインはしかし、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と言い返したのでした。ここを読んだ時、久蔵の言葉を思い出したからです。
さて彼女は考えました。「あなたの弟はどこにいるのかとたずねられた時、わたしだったら何と答えるのだろうか」。なぜなら、弟という言葉は、もっとも近くてもっとも親しい存在を指しているからです。それほどの存在である人なのに、その人はいまどこにいるのかと問われた時、わたしは本当に責任をもって答えることができるというのだろうか。
彼女はさらに考えました。自分は殺人者ではないのだが、それでも自分はアベルの側ではなく、カインの側に立つ人間なのだ。また興味深いことも言っていました。「わたしは、加害者タイプ、殺害者タイプの人間かと思う。わたしはものの言い方の強さによって、どれほど人を傷つけてきたかはわからない。つまり自分はカインの末裔なのだ。少なくともアベルの末裔ではない」。

だから彼女は殺人者カインのその後の人生に関心を抱いたのでした。というのも(4章12節で)神はカインに「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言ったからでした。これが殺人者がたどるべき運命なのだなと思いつつ読んでいると、神はいきなりその殺人者カインを徹底的に保護すると言い始めます。弟を殺した人間を神が赦すはずがないのにこれは変だ、いや腹立たしい。何が正義の味方の神だ。こんなに悪人に甘くて示しがつくのだろうか。
こう思った一方で、考え込んでしまうことも書かれていました。というのも、さっきまで「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」とふてぶてしかったカインが一転して(13節で)「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と急転直下坂を転げ落ちたからです。ここには、弱り切っておろおろするカインしか見えませんでした。今や誰からも責められる孤独なカイン。このカインこそが自分の姿ではないか。そう綾子は考えたからです。

ところで、ここで彼女は切り札を出しています。すなわち、人間は自分の罪を一人で背負うことは出来ないという意味の切り札でした。だから、その罪を自分の代わりに背負ってくれるキリストという切り札を出してしまったのでした。たしかに、十字架のキリストによる罪のあがないは、カインの重すぎて負いきれない罪の解決となるのでしょうが、それは新約聖書を考える時に出番となるのであって、今取り組んでいるのは旧約聖書だからです。これは三浦綾子の勇み足でした。
ところで、よく誤解されがちなことは、キリストの十字架を持ち出さないと救いが語れないと考えてしまうことです。しかし、その十字架はイエスの父なる神のみ心であり、父なる神は、天地創造で人間を造った神にほかならないからです。イエスもその天地創造の神の性質を受けていますから、天地創造のことをしっかり学べば、神のみ心もイエスの心もよくわかるのが聖書だからです。
それではイエスも受けている神の性質とは何かですが、それは親しさという性質のことです。そして人間も同じ性質を受けているというのが聖書の考えなのです、ところがある日カインとアベルの兄弟殺しの事件が起きた。聖書はこのあと、神の親しさが失われてゆく人間の悲惨な歴史を描いてゆきますが、しかしそれはまた、創造の時 神が与えた性質を復活させようとする人たちの歴ともなっているのです。あの西村久蔵が、まだノンクリスチャンだった三浦綾子に「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある」と言ったことも、そのような意味だったと考えればよいと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 2月11日 主の変容
説教題:カインとアベル その2
説教者:白髭義牧師
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