使徒言行録4:5~12、ヨハネの手紙13:16~24、ルカ15:7~41:50
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二日市教会主日礼拝説教 2024年4月21日(日)
「墓に来た女たち―その4」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
先週は、マグダラのマリアのことを考えました。マグダラのマリアとは、聖書に出てくるイエスに従った女性の一人で、ガリラヤ湖畔の町、マグダラの出身でした。彼女もイエスの十字架を見とどけ、埋葬に立ち会い、翌々日の早朝その屍に香料を塗るため一番早く墓に来たところ復活のイエスに出会ったのでした。それを書いたヨハネ福音書はさらに、そのイエスが彼女に、復活の出来事を弟子たちに伝えよと命令したとまで書いていました。
従って、そこまで書かれた彼女が、イエスのグループの第一人者だったことは疑う余地がないのですが、それを快く思わない人間がいたのでした。それがペトロだったことは、色々な資料から見えてくることを先週考えたのでした。
ところで、それを裏付けてくれるのは第一コリント15章です。220頁なのですが、その3節以下で、復活のキリストに出会った人間のリストがあるからです。なおこの手紙を書いたのはパウロですが、彼はイエスの復活の時点ではキリスト教の迫害者でした。その後大転換があってイエスを信じ、伝道者になりました。彼は、自分はいちばん最後だったと言いますが、復活はあくまで信仰の事柄で、順番はどうでもかまいません。
しかし、どうでもかまわなくないこともここには書かれています。15章の5節の少し前からですが、「キリストは三日目に復活した、そしてケファに現れた。その後十二人に現れた」、つまり復活のイエスに最初に会ったのはケファ、つまりペトロだったと書かれているからです。ところが、ヨハネ福音書20章では、復活のイエスが最初に会ったのはマグダラのマリアだったと書かれているのです。
ところで話は変わりますが、イエスの死と復活を出発点に、キリスト教は大変な勢いで世界の各地に広がって行きました。使徒パウロでさえ今のトルコやバルカン半島で布教をし、かついずれはスペインまで足を伸ばす予定でした(ロマ15:24=イスパニア)。しかも、彼以外にも優秀な伝道者がたくさんいて、帝国の首都ローマ、エジプト、あるいは今のイランを含む西アジアにも行きました。だから、同じキリスト教といっても、伝道者や地域によって考えや形態に色々違いが生じていったことはやむを得ないことで、それぞれのグループを統括したのが、ペトロだったり、パウロだったり、アポロ(1コリ1:12)だったり、あるいはマグダラのマリアだったりと異なっていたことも大いにありうることでした。だから、彼女の名前を奉じるキリスト教グループも存在したことを疑う必要はないのですが、しかしそれでも、同じ聖書で「マリア説」と「ペトロ説」が相対立することはやはり問題なのです。しかし聖書はその問題を抱えたまま、今に至っているのです。
話を元に戻すと、キリスト教が世界に広まったので地域によって考えや活動形態に色々な違いが生じて行ったのですが、そのような多様性は好ましくないと考える時代が訪れました。その傾向が顕著だったのはヨーロッパの西側(西欧)で、ローマ教皇を首長とするキリスト教(ローマ・カトリック教会)でした。
さて、この時期になると「ペトロ説」が絶対に正しいとされ、教皇はそのペトロの後継者だと見なされました。そして、多様性は好ましくないという考えのもと、色々な「異端」が排除されたり弾圧されてゆきました。その流れの中で、マグダラのマリアを信奉するグループも消されていったと考えられています。
ところが、マグダラのマリアは、特定の教派とか組織を超えて、民衆の心の中に場所を占める存在になっていました。しかも、聖書をきちんと読む人は、復活のイエスが第一番目に会ったのは彼女だと知っていました。なお、日本人は、マリアと聞けばイエスの母マリアしか思い浮かばないかもしれませんが、西欧の人たちにとってのそのマリア(聖母)はもう「神の母」にされていたので、近寄りがたい存在になっていました。ところがもう一人のマリア(マグダラ)は「罪の女」であるがゆえに、かえって一般の女性たちの共感を呼びやすくしていました。
ところで、グレゴリオ聖歌で知られる教皇、グレゴリウス一世は、マグダラのマリアは娼婦だったと説教で言いました。教皇の説教は影響力が大です。また教会は画家たちが彼女の絵を描くのを歓迎しました。聖書に登場する女性ですから、宗教画扱いになりましたが、その大多数はエロチックな絵でした。しかし、こういうのは大昔の話で現代人の感覚とは大きくずれています。それに聖書に書かれていないことをさも事実のように語っても、すぐ見抜かれるのが現代なのです。
ところで、そういう彼らが必ず引き合いに出していたのはルカ7章と8章でした。そこで、その問題を見ておきたいと思います。まず7章ですが、36節以下がポイントです。そこは「罪深い女」の話になっていて、ある町に住んでいた「罪深い女」にイエスが「あなたの罪は赦された」と声をかけています。キリスト教の聖書解釈者たちはこの二千年間、この女性は娼婦だったと解説してきました。ところが聖書はそうは言っていません。昔の聖書解釈者たちは全員が男性でしたから、もしかしたら彼らは「色眼鏡」で見てきたのかもしれません。
それはともかく、ルカ7章の女がマグダラのマリアだったとは聖書のどこにも書かれていません。ところが8章になるとすぐ彼女の名前が出てくるのです(2節)。けれども7章と8章は内容的に全く無関係です。ところが、その二つを密接に関係づけてきたのが、今までのキリスト教なのでした。
さて、この矛盾点は今なら中高生でも見抜けます。しかし、西欧の民衆にはそれが通用しないのかも知れません。なぜなら、彼女の娼婦としてのイメージは、容易に引きはがせないくらい人々の心に定着しているからです。ところで、テレサ・バーガーという女性の神学者は、むしろその現実を逆手に取って彼女をヒロインにすることを提案しています。
バーガーによれば、彼女が元娼婦であることは、多くの女性たちに積極的な意味をもたらすはずなのでした。なぜなら、女性の体の性的搾取という罪悪、つまり若い女性の性的売買は今では世界的な傾向を見せている。その現実から目をそむけないのであれば、マグダラのマリアは、虐待され、搾取され、売買される彼女たちがそこから抜け出し、イエスとの出会いによって自由にされる女性のシンボルになるからである。
テレサ・バーガーは言います。マグダラのマリアは元娼婦だったのだ。虐待され搾取されていたが、その彼女が復活のイエスに真っ先に会い、ついにはイエスによって教会のリーダーに任命されたのである。私たちは、その理解で大丈夫なのだ。なぜなら、神の力は、私たちの人生の乱れた汚い部分を遠ざけたりはしないからである。それゆえその力は私たち自身のためにも引き出すことが出来るのである。
彼女のこの考えも、傾聴に値すると思いたいのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週4月28日 復活節第5主日
説教題:新約聖書の女性たち
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年4月21日(日)
「墓に来た女たち―その4」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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先週は、マグダラのマリアのことを考えました。マグダラのマリアとは、聖書に出てくるイエスに従った女性の一人で、ガリラヤ湖畔の町、マグダラの出身でした。彼女もイエスの十字架を見とどけ、埋葬に立ち会い、翌々日の早朝その屍に香料を塗るため一番早く墓に来たところ復活のイエスに出会ったのでした。それを書いたヨハネ福音書はさらに、そのイエスが彼女に、復活の出来事を弟子たちに伝えよと命令したとまで書いていました。
従って、そこまで書かれた彼女が、イエスのグループの第一人者だったことは疑う余地がないのですが、それを快く思わない人間がいたのでした。それがペトロだったことは、色々な資料から見えてくることを先週考えたのでした。
ところで、それを裏付けてくれるのは第一コリント15章です。220頁なのですが、その3節以下で、復活のキリストに出会った人間のリストがあるからです。なおこの手紙を書いたのはパウロですが、彼はイエスの復活の時点ではキリスト教の迫害者でした。その後大転換があってイエスを信じ、伝道者になりました。彼は、自分はいちばん最後だったと言いますが、復活はあくまで信仰の事柄で、順番はどうでもかまいません。
しかし、どうでもかまわなくないこともここには書かれています。15章の5節の少し前からですが、「キリストは三日目に復活した、そしてケファに現れた。その後十二人に現れた」、つまり復活のイエスに最初に会ったのはケファ、つまりペトロだったと書かれているからです。ところが、ヨハネ福音書20章では、復活のイエスが最初に会ったのはマグダラのマリアだったと書かれているのです。
ところで話は変わりますが、イエスの死と復活を出発点に、キリスト教は大変な勢いで世界の各地に広がって行きました。使徒パウロでさえ今のトルコやバルカン半島で布教をし、かついずれはスペインまで足を伸ばす予定でした(ロマ15:24=イスパニア)。しかも、彼以外にも優秀な伝道者がたくさんいて、帝国の首都ローマ、エジプト、あるいは今のイランを含む西アジアにも行きました。だから、同じキリスト教といっても、伝道者や地域によって考えや形態に色々違いが生じていったことはやむを得ないことで、それぞれのグループを統括したのが、ペトロだったり、パウロだったり、アポロ(1コリ1:12)だったり、あるいはマグダラのマリアだったりと異なっていたことも大いにありうることでした。だから、彼女の名前を奉じるキリスト教グループも存在したことを疑う必要はないのですが、しかしそれでも、同じ聖書で「マリア説」と「ペトロ説」が相対立することはやはり問題なのです。しかし聖書はその問題を抱えたまま、今に至っているのです。
話を元に戻すと、キリスト教が世界に広まったので地域によって考えや活動形態に色々な違いが生じて行ったのですが、そのような多様性は好ましくないと考える時代が訪れました。その傾向が顕著だったのはヨーロッパの西側(西欧)で、ローマ教皇を首長とするキリスト教(ローマ・カトリック教会)でした。
さて、この時期になると「ペトロ説」が絶対に正しいとされ、教皇はそのペトロの後継者だと見なされました。そして、多様性は好ましくないという考えのもと、色々な「異端」が排除されたり弾圧されてゆきました。その流れの中で、マグダラのマリアを信奉するグループも消されていったと考えられています。
ところが、マグダラのマリアは、特定の教派とか組織を超えて、民衆の心の中に場所を占める存在になっていました。しかも、聖書をきちんと読む人は、復活のイエスが第一番目に会ったのは彼女だと知っていました。なお、日本人は、マリアと聞けばイエスの母マリアしか思い浮かばないかもしれませんが、西欧の人たちにとってのそのマリア(聖母)はもう「神の母」にされていたので、近寄りがたい存在になっていました。ところがもう一人のマリア(マグダラ)は「罪の女」であるがゆえに、かえって一般の女性たちの共感を呼びやすくしていました。
ところで、グレゴリオ聖歌で知られる教皇、グレゴリウス一世は、マグダラのマリアは娼婦だったと説教で言いました。教皇の説教は影響力が大です。また教会は画家たちが彼女の絵を描くのを歓迎しました。聖書に登場する女性ですから、宗教画扱いになりましたが、その大多数はエロチックな絵でした。しかし、こういうのは大昔の話で現代人の感覚とは大きくずれています。それに聖書に書かれていないことをさも事実のように語っても、すぐ見抜かれるのが現代なのです。
ところで、そういう彼らが必ず引き合いに出していたのはルカ7章と8章でした。そこで、その問題を見ておきたいと思います。まず7章ですが、36節以下がポイントです。そこは「罪深い女」の話になっていて、ある町に住んでいた「罪深い女」にイエスが「あなたの罪は赦された」と声をかけています。キリスト教の聖書解釈者たちはこの二千年間、この女性は娼婦だったと解説してきました。ところが聖書はそうは言っていません。昔の聖書解釈者たちは全員が男性でしたから、もしかしたら彼らは「色眼鏡」で見てきたのかもしれません。
それはともかく、ルカ7章の女がマグダラのマリアだったとは聖書のどこにも書かれていません。ところが8章になるとすぐ彼女の名前が出てくるのです(2節)。けれども7章と8章は内容的に全く無関係です。ところが、その二つを密接に関係づけてきたのが、今までのキリスト教なのでした。
さて、この矛盾点は今なら中高生でも見抜けます。しかし、西欧の民衆にはそれが通用しないのかも知れません。なぜなら、彼女の娼婦としてのイメージは、容易に引きはがせないくらい人々の心に定着しているからです。ところで、テレサ・バーガーという女性の神学者は、むしろその現実を逆手に取って彼女をヒロインにすることを提案しています。
バーガーによれば、彼女が元娼婦であることは、多くの女性たちに積極的な意味をもたらすはずなのでした。なぜなら、女性の体の性的搾取という罪悪、つまり若い女性の性的売買は今では世界的な傾向を見せている。その現実から目をそむけないのであれば、マグダラのマリアは、虐待され、搾取され、売買される彼女たちがそこから抜け出し、イエスとの出会いによって自由にされる女性のシンボルになるからである。
テレサ・バーガーは言います。マグダラのマリアは元娼婦だったのだ。虐待され搾取されていたが、その彼女が復活のイエスに真っ先に会い、ついにはイエスによって教会のリーダーに任命されたのである。私たちは、その理解で大丈夫なのだ。なぜなら、神の力は、私たちの人生の乱れた汚い部分を遠ざけたりはしないからである。それゆえその力は私たち自身のためにも引き出すことが出来るのである。
彼女のこの考えも、傾聴に値すると思いたいのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週4月28日 復活節第5主日
説教題:新約聖書の女性たち
説教者:白髭義 牧師