工作台の休日

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国産ジェット機の系譜 橘花 その1

2021年03月15日 | 飛行機・飛行機の模型
 昭和20(1945)年8月7日、木更津の飛行場から一機の航空機が飛び立とうとしていました。その航空機には見慣れたプロペラはついておらず、左右の主翼の下に円筒形のものが取り付けてあり、これがエンジンでした。そう、日本初のジェット機、橘花が飛び立とうとしていたのです。

 写真はAZモデル1/72のキット
 今回から国産ジェット機の系譜と題して、日本の空を飛んだ国産ジェット機の話を模型と一部は実物の写真を交えてご紹介します。第一弾は当然ですが、中島飛行機の橘花です。

 さて、時計を橘花の初飛行から1年ほど戻しましょう。一隻の潜水艦が、ドイツ占領下のフランスの港を出発して極東に帰ろうとしていしました。この潜水艦は伊-29といい、昭和18年12月にシンガポールを出港し、インド洋、大西洋を経て翌、昭和19年3月にフランス・ロリアンに入港しました。これは「遣独潜水艦作戦」と呼ばれるもので、日本と同盟国のドイツの間でそれぞれが必要としている戦略的、軍事的物資を交換するために日本海軍の潜水艦をドイツに派遣しておりました。本来なら空路の方が速く、確実なのですが、日本からドイツに向かうとなると、日本との関係は中立国であり、またドイツとは交戦中のソ連上空を避けて飛ぶことはできず、周辺国を刺激しない方法で取られたのが、この洋上を使う作戦でした。
 この時の派遣は第四次にあたりました。ドイツからジェットエンジン(BMW003A)の資料、ロケットエンジンに関する資料などが積まれ、昭和19年4月に伊29はロリアンを出港し、7月にはシンガポールに入港しました。このときにドイツからの帰国便に同乗していた巌谷英一技術中佐が一足先に一部の資料を持ち帰り、残りの資料は日本に向かうこととなりました。

(伊29はアオシマ1/700の伊19のキットから加工しました。フランスでドイツ海軍の機銃を装備しており、艦橋の直後に機銃が増設されている写真を見たことがあります。また、シンガポール出港時には既に主砲が外されていたようですので、主砲の位置にも機銃をつけました。見えづらいですが艦橋の上の機銃もドイツ海軍のものです。機銃のパーツはタミヤのZ級駆逐艦からも持ってきました)
 残念ながらシンガポールからの帰途に伊29は撃沈され、日本に向かっていた大部分の資料も失われてしまいました。こうして巌谷中佐が持ち帰ったわずかな資料とともに、ジェットエンジンとそれを積んだ機体の設計を始めなければなりませんでした。

 東京でこれらの図面、資料と格闘している人物がいました。それが私の祖父でした。私の祖父は海軍省に終戦までおりましたが、これらの図面の青焼きを作る仕事に従事しました。もともとは写真にまつわる仕事などもしておりまして、竣工した艦艇の公式試運転の写真をメディア等外部に配信する前に、機関(エンジン)にあたる部分に波を書き足してぼかし、艦艇の心臓部でもある機関の大きさを諸列強に知られないようにする仕事もしていたそうです。誰もが知る艦艇の写真のうちの一枚も、私の祖父が関わっていたという話を聞いたことがあります。
 さて、持ち帰った図面と資料ですが、どれも水をかぶったように湿気を帯びていて、一枚一枚丁寧にはがして青焼きを作るのが大変だった、と生前の祖父は語っていました。「ジェット機やロケット機のものもあった」と言っていましたので、金沢工業大学で現存する唯一の図面の写真コピーも、祖父が関わっていたものかもしれません。祖父はとても寡黙な人でしたので、この話も聞くことができたのは本当に断片的なものでした。30年以上前に祖父はこの世を去っているので、聞きたかったことも聞けずじまいです。
 これらの図面、祖父は「シンガポールで破壊工作に遭って図面が水をかぶった」と伝えられていたそうです。しかし、シンガポールで触雷して沈没したのは第一次作戦の伊30であり、上述のとおりシンガポールまでは無事に航海をしていたわけですから、おそらくは艦内の劣悪な環境で、厳重に保管されていたとしても湿気を帯びてしまったと考える方が無難でしょう。遣独潜水艦作戦については、吉村昭著「深海の使者」にも詳しいのですが、これを読む限りでは敵の飛行機、艦艇に見つからないよう、浮上は必要最低限にとどめ、あとは水中を数か月も航海する潜水艦の艦内環境はかなり厳しかったことが分かります。
 さて、こうしてドイツから資料が届き、日本初のジェットエンジンを積んだ航空機の開発がスタートしました。
 次回以降はそのあたりの話もしたいと思います。


 



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