前回書きましたように、橘花の誕生にはドイツからもたらされた資料が大きな役割を果たしていました。ただし、資料と図面が来たからさあ、作ろうとなったわけではありません。それまでに日本でも、ジェットエンジンの研究は続けられていました。
海軍の航空機に関する研究、開発を担っていた海軍航空技術廠(空技廠)では、大戦前からジェットエンジン(この時代はまだ「タービン・ロケットエンジン」と呼ばれていました)の研究をしている技術者たちがおりました。橘花の開発の中心人物でもあった種子島時休(たねがしま・ときやす)中佐(当時)らが研究開発に勤しんでおりましたが、自主開発は難航を極めていました。
伊29がシンガポールに着く前の昭和19年6月、空技廠でジェットエンジンの開発の様子を見学した技術者がいました。東京帝大卒業後、中島飛行機を経て陸軍で航空機エンジンの開発をしていた中村良夫中尉です。中村中尉は戦後、ホンダで四輪車の開発に携わり、第1期F1活動で監督を務めますが、それは先の話です。中村氏のエッセイによれば、空技廠に赴くにあたり「陸軍の軍服のままでは入館手続きが面倒」と言われて、借り物の背広を着て行った、とあります。当時の陸海軍の関係が分かる話ではあります。
大戦中にジェットエンジンの開発が急ピッチとなりましたが、制空権確保のためより速く、より高くという要求の中で、レシプロエンジンが既に頭打ちの状態であったこと、燃料事情が悪くなる中で、低質の燃料でも飛行可能なエンジンとして活用しようという動きがあったこと、レシプロエンジンより安価で簡単に量産できるという計算があったことなどが理由として挙げられています。
国内開発のエンジンは思うように進まず、そこに遣独潜水艦作戦で限られた資料とはいえ、既に完成したエンジンの情報がもたらされました。しばらくはそれまで自主開発していた「ネ(燃焼の意味があります)-10」、「ネ-12」エンジンを完成させることを前提にジェット機の開発を進める予定でしたが、結局ドイツからもたらされたBMW 003エンジンをもとに「ネ-20」エンジンを開発する方向となりました。
海軍は昭和19年12月に中島飛行機に対して「橘花」の計画要求書を提示しています。この時点ではまだ、どのエンジンを搭載するかも決まっていなかったといいます。また、橘花という飛行機ですが「花」がつく名称からも特別攻撃機としての性格を持たせており、爆装を前提にしていました。しかし、防弾装備もあり、通常の攻撃機として、さらには機銃を装備した戦闘機としての開発も想定していたのでは、という説もあります。
陸軍でも同じころ、ジェットエンジンとそれを装備した機体の開発がスタートしていました。先ほどの中村中尉の訪問の際には陸海軍もまた「省庁」であり、縦割り行政そのものだったわけですが、戦局が厳しい(どころか敗色が濃くなっていく)中で、陸海軍が遅まきながら協力して航空機開発に乗り出そうとしていました。陸軍も同じ「ネ」というコードを使用したネ-130エンジンを装備した「火竜」という戦闘機を計画しており、Me262に似た機体を想定していました。エンジンの開発には石川島、日立航空機が携わることになっており、石川島側の責任者は土光敏夫氏だったと中村氏のエッセイにはあります。そう、後に行革に携わった「メザシの土光さん」です。
さて、橘花の話に戻りますが、範とするBMW003エンジンやMe262に搭載のJumo004エンジンの資料があるとはいえ、材料も加工技術も限られており、ネ-20のエンジン推力などはBMW003の60%ほどの480kg程度だったと伝えられています。機体も当然Me262に比べれば小さなものになります。
模型で比較するとよくわかるのではないでしょうか。


Me262はハセガワ1/72、橘花はAZモデル1/72のキット
ネ-20エンジンに関しては本格的な設計をスタートさせてから3ヶ月程度で試作、試運転にまで持ち込むという突貫工事でした。参考になるのは不鮮明なエンジンのマイクロフィルム写真一枚で、そこから図面を起こし、ここまでたどりついた技術陣の努力には、ただただ敬服するばかりです。ネ-20エンジンに関してはBMW003の粗悪なコピー、とする向きもありますが、細かな部品の取り付け法、加工法などはエンジンの現物が無いため日本側で考えながら解決しなければならないことも多く、お手本にしながら作った、と言った方が相応しいのではないかと思います。アメリカも当初はイギリスから技術情報の提供を受けてジェットエンジンの開発をしていたくらいですから、一部の国を除けば、みなジェットエンジンに関しては「後進国」だったのです。
海軍の航空機に関する研究、開発を担っていた海軍航空技術廠(空技廠)では、大戦前からジェットエンジン(この時代はまだ「タービン・ロケットエンジン」と呼ばれていました)の研究をしている技術者たちがおりました。橘花の開発の中心人物でもあった種子島時休(たねがしま・ときやす)中佐(当時)らが研究開発に勤しんでおりましたが、自主開発は難航を極めていました。
伊29がシンガポールに着く前の昭和19年6月、空技廠でジェットエンジンの開発の様子を見学した技術者がいました。東京帝大卒業後、中島飛行機を経て陸軍で航空機エンジンの開発をしていた中村良夫中尉です。中村中尉は戦後、ホンダで四輪車の開発に携わり、第1期F1活動で監督を務めますが、それは先の話です。中村氏のエッセイによれば、空技廠に赴くにあたり「陸軍の軍服のままでは入館手続きが面倒」と言われて、借り物の背広を着て行った、とあります。当時の陸海軍の関係が分かる話ではあります。
大戦中にジェットエンジンの開発が急ピッチとなりましたが、制空権確保のためより速く、より高くという要求の中で、レシプロエンジンが既に頭打ちの状態であったこと、燃料事情が悪くなる中で、低質の燃料でも飛行可能なエンジンとして活用しようという動きがあったこと、レシプロエンジンより安価で簡単に量産できるという計算があったことなどが理由として挙げられています。
国内開発のエンジンは思うように進まず、そこに遣独潜水艦作戦で限られた資料とはいえ、既に完成したエンジンの情報がもたらされました。しばらくはそれまで自主開発していた「ネ(燃焼の意味があります)-10」、「ネ-12」エンジンを完成させることを前提にジェット機の開発を進める予定でしたが、結局ドイツからもたらされたBMW 003エンジンをもとに「ネ-20」エンジンを開発する方向となりました。
海軍は昭和19年12月に中島飛行機に対して「橘花」の計画要求書を提示しています。この時点ではまだ、どのエンジンを搭載するかも決まっていなかったといいます。また、橘花という飛行機ですが「花」がつく名称からも特別攻撃機としての性格を持たせており、爆装を前提にしていました。しかし、防弾装備もあり、通常の攻撃機として、さらには機銃を装備した戦闘機としての開発も想定していたのでは、という説もあります。
陸軍でも同じころ、ジェットエンジンとそれを装備した機体の開発がスタートしていました。先ほどの中村中尉の訪問の際には陸海軍もまた「省庁」であり、縦割り行政そのものだったわけですが、戦局が厳しい(どころか敗色が濃くなっていく)中で、陸海軍が遅まきながら協力して航空機開発に乗り出そうとしていました。陸軍も同じ「ネ」というコードを使用したネ-130エンジンを装備した「火竜」という戦闘機を計画しており、Me262に似た機体を想定していました。エンジンの開発には石川島、日立航空機が携わることになっており、石川島側の責任者は土光敏夫氏だったと中村氏のエッセイにはあります。そう、後に行革に携わった「メザシの土光さん」です。
さて、橘花の話に戻りますが、範とするBMW003エンジンやMe262に搭載のJumo004エンジンの資料があるとはいえ、材料も加工技術も限られており、ネ-20のエンジン推力などはBMW003の60%ほどの480kg程度だったと伝えられています。機体も当然Me262に比べれば小さなものになります。
模型で比較するとよくわかるのではないでしょうか。


Me262はハセガワ1/72、橘花はAZモデル1/72のキット
ネ-20エンジンに関しては本格的な設計をスタートさせてから3ヶ月程度で試作、試運転にまで持ち込むという突貫工事でした。参考になるのは不鮮明なエンジンのマイクロフィルム写真一枚で、そこから図面を起こし、ここまでたどりついた技術陣の努力には、ただただ敬服するばかりです。ネ-20エンジンに関してはBMW003の粗悪なコピー、とする向きもありますが、細かな部品の取り付け法、加工法などはエンジンの現物が無いため日本側で考えながら解決しなければならないことも多く、お手本にしながら作った、と言った方が相応しいのではないかと思います。アメリカも当初はイギリスから技術情報の提供を受けてジェットエンジンの開発をしていたくらいですから、一部の国を除けば、みなジェットエンジンに関しては「後進国」だったのです。