国際鉄道模型コンベンションのレポートの締めくくりは「クリニック」と呼ばれる講座です。こちらは第一回から欠かさず実施されており、もともとアメリカのコンベンションでこうしたクリニックもさかんに行われていることから、日本でもコンベンションを開催するにあたり、ただクラブのレイアウトを見せるだけではなく、クリニックも開催されるようになったのでしょう。アメリカの場合、コンベンションは一つの場所ではなく毎年違う州で開催されていることから、彼の地の趣味人口とモデラーの層の厚さもうかがえます。ちなみに鉄道模型以外にもコンベンションといったものがあり、以前いた職場の同僚が弦楽器のコンベンションを見るために、夏休みを取って渡米したことがあり、そのときのことを聞いたことがありましたが、クリニックなどは趣味の領域を超え、そのまま論文としてまとめられそうな出来だった、とのことでした。
本題にもどりまして、私は今年、三つのクリニックを受講しています。初日は佐々木直樹氏による「日本を走ったオリエント急行」を拝見しました。1988(昭和63)年にオリエント急行の客車がパリからシベリア鉄道を経由して来日、JRの本線上を走った話は、以前このブログでも書きました(2018年12月の「青い客車へのオマージュ」参照)。
佐々木直樹氏はこのときカメラメーカー勤務の若きビジネスマンでしたが、全国各地を走るオリエント急行を追い続けました。このクリニックでも時折コメントをはさんでいた嶋野崇文氏とともに、趣味誌でよく名前を見かけたものです。クリニックでは当時撮影した写真を元に、列車の運用や撮影の裏話などを聞きました。列車、車とあらゆる手段を使って東奔西走してその姿をカメラに収め「今だから言えるけど・・・」ということで、撮影場所等については少々ルール違反もあったということで、良い子のみんなはマネしないでくださいね、な話もありました。
それぞれの写真を拝見しますと、この編成そのものがかなり重量のある客車によって組まれていたそうですが、平地ではED75が1輌でけん引しているのが意外でした。また、JRの部内で周知される運行表の写しなども紹介され、臨時列車ではありながらただの臨時列車ではない特別な運用であったことも分かります。
そしてこの列車を日本に呼ぶことができたのは国鉄を経てJRで要職に就いていた山之内秀一郎氏とフジテレビの沼田プロデューサーの情熱によるものということで、フジテレビでは1982年にオリエント急行の特番を放映し(私も観た記憶があります)、いつか日本に持ってきたいという夢があったとか。オリエント急行の運行会社は当時二つあって、フジテレビは当初ヴェニス・シンプロン・オリエントエキスプレス(VSOE)を呼ぶつもりで話を進めており、かなりが話が進んだところでとん挫してしまい、もう一つのノスタルジー・インスタンブール・オリエントエキスプレス(NIOE)と交渉して実現したとか。実はフジテレビとNIOEが契約を結んでから1年も経たずに運行が実現しており、当時の(バブルに沸いた)日本の熱量も感じられる話です。さらに言えばシベリア鉄道横断についても当時のソ連の対外融和策があったから実現した話でしょうし、日本側についても国鉄からJRになって間もなくで、まだ国鉄時代の余裕や良さも残した現場でもあり、あの時代だからできた、ということを改めて噛みしめました。この数年後にユーゴスラビアで内戦が勃発したことから、途中、ユーゴを通るイスタンブール行のオリエント急行の運行も叶わなくなり、客車も散逸しました。今はオリエント急行というとVSOEですが、NIOEの車輌についても散逸した客車が再び集められ、他の資本で復活プロジェクトもあるという話も当日はありました。NIOEの車輌は極力製造当時の姿を内外装ともに残す、ということをポリシーとしており、そこがまた魅力でしたが、復活したとしても石炭ストーブなどはさすがに難しそうだ、という話もありました。
二日目は「時刻表ウラ話」ということでJTBの時刻表編集長を務めた経験のある木村嘉男氏のお話でした。JTBの時刻表は最近はさすがにお世話になることは減りましたが、学生時代はどんなに重くとも旅行かばんに時刻表を入れるスペースを作っておいたものです。制作については知っている話もそうでない話もあり、資料の入手もJRは紙で、民鉄ではメールでとフォーマットが異なっているほか、せっかく編集しても後から追加・訂正が誌面上出現する苦労も知ることができました。また、実際の誌面を例示しながら、乗り継ぎなど乗客の利便性を考えた時刻の表示だったり、定期列車が日付によって頻繁にダイヤが変更となる際の表示など、読みやすくするための(残念ながら読みやすさにつながらないときもあるようです)工夫が随所にあることを具体的に知ることができました。また、第三種郵便として通用させるために時刻表の冊子の重量を1kgに収めるための涙ぐましい努力もあり、上下の一部を裁断してなんとか1kgに収めた、という裏話もありました。このところはモニター画面で済まされる講師の方が多いのですが、紙のレジュメも用意され、鉄道150年と30のトピックといった資料や、遠い将来も含めた鉄道の今後の動向についても記載され、なかなか役に立つ内容でした。JTBの時刻表もそろそろ創刊100年だそうですね。
三日目は「若手が語る古典列車の魅力」と題し、いずれも平成育ちの若手趣味人・谷川雄介氏(ロコモーション号など、初期の蒸気機関車の模型で知りました)、古典客車を中心とした「IORI工房」を主宰する風間伊織氏の二人による古典列車ガイドでした。古典という定義は難しいのですが、その中で直系の子孫を持たないものというのをいれていたのはなるほど、というところです。明治の機関車はともかく、大正期に登場した9600や8620についても既に100年経っていますから、若手から見たら「古典」と映るというのも少々意外でした。個人的には明治期と大正期で分けてもいいのかなとは思います。その時代を生きたわけではないので何とも言いようがありませんが、当時の人たちの思いなどに触れるにつけ、明治と大正で大きな時代の区切りがあるのではないかと思っております。当日は若手から斯界の大ベテランまで、さまざまな方が会場を埋めていましたが、古典機に興味を持ったきっかけについて、各年代層の趣味人にアンケートを取られたそうで、年配の方ならTMS誌や機芸出版社の「陸蒸気からひかりまで」、若手では「汽車のえほん(機関車トーマス)」といったあたりで、たしかに汽車のえほん(最近の原作を破壊したアニメでは無くて私は原作原理主義者であることをここにことわっておきます)に描かれる、特にナローゲージの機関車たちはかなり癖が強く、また古い車輛たちであります。「陸蒸気~」も「汽車のえほん」も子供の頃に愛読しましたので、私は両方から古典期を知った世代にあたりますね。私も明治の機関車については保存されている実物を見に行ったりしますし、模型でもいくつか持っています。就職してからですが初めて買った16番の製品が珊瑚模型店のB6(2120)型でした。機関車についてもさることながら、客車については製品も少ない中で、IORI工房さんは簡単な公式図面や写真から製品を作られたということで、その探求心とエネルギーには敬服いたします。件のB6も後ろの客車に恵まれておらず、ここはキットを組んであげなくては、ですね。
また、興味深かったのが車輌の色についてでして、明治期の車輌についてはその多くにおいて、塗装の詳細がよく分かっていません。それ故にさまざまな解釈が可能ということで、巨大なブレーキバンをつけた後の190型の塗装についてもいくつかの説を紹介されていたほか、模型でもさまざまな色に塗って紹介していました(前回のブログの「或る列車」の上に展示されていたものです)。最近はやりのAIによる白黒写真のカラー化については、この時代のガラス乾板の写真についてはまだ正確に再現するのが難しい(青系の色が白く写るなど、独特の色合いになるようです)ということで、錦絵の色使いが近いところをついているのかも知れませんね。私自身は古典列車もさることながら、それらが走った明治期のレールにも興味があるものですから、趣味人として大いに刺激になる時間でした。
長々と書いてしまいましたが、JAMのレポートはこのあたりで。また来年、JAMの会場でお会いできますことをお祈りして。
本題にもどりまして、私は今年、三つのクリニックを受講しています。初日は佐々木直樹氏による「日本を走ったオリエント急行」を拝見しました。1988(昭和63)年にオリエント急行の客車がパリからシベリア鉄道を経由して来日、JRの本線上を走った話は、以前このブログでも書きました(2018年12月の「青い客車へのオマージュ」参照)。
佐々木直樹氏はこのときカメラメーカー勤務の若きビジネスマンでしたが、全国各地を走るオリエント急行を追い続けました。このクリニックでも時折コメントをはさんでいた嶋野崇文氏とともに、趣味誌でよく名前を見かけたものです。クリニックでは当時撮影した写真を元に、列車の運用や撮影の裏話などを聞きました。列車、車とあらゆる手段を使って東奔西走してその姿をカメラに収め「今だから言えるけど・・・」ということで、撮影場所等については少々ルール違反もあったということで、良い子のみんなはマネしないでくださいね、な話もありました。
それぞれの写真を拝見しますと、この編成そのものがかなり重量のある客車によって組まれていたそうですが、平地ではED75が1輌でけん引しているのが意外でした。また、JRの部内で周知される運行表の写しなども紹介され、臨時列車ではありながらただの臨時列車ではない特別な運用であったことも分かります。
そしてこの列車を日本に呼ぶことができたのは国鉄を経てJRで要職に就いていた山之内秀一郎氏とフジテレビの沼田プロデューサーの情熱によるものということで、フジテレビでは1982年にオリエント急行の特番を放映し(私も観た記憶があります)、いつか日本に持ってきたいという夢があったとか。オリエント急行の運行会社は当時二つあって、フジテレビは当初ヴェニス・シンプロン・オリエントエキスプレス(VSOE)を呼ぶつもりで話を進めており、かなりが話が進んだところでとん挫してしまい、もう一つのノスタルジー・インスタンブール・オリエントエキスプレス(NIOE)と交渉して実現したとか。実はフジテレビとNIOEが契約を結んでから1年も経たずに運行が実現しており、当時の(バブルに沸いた)日本の熱量も感じられる話です。さらに言えばシベリア鉄道横断についても当時のソ連の対外融和策があったから実現した話でしょうし、日本側についても国鉄からJRになって間もなくで、まだ国鉄時代の余裕や良さも残した現場でもあり、あの時代だからできた、ということを改めて噛みしめました。この数年後にユーゴスラビアで内戦が勃発したことから、途中、ユーゴを通るイスタンブール行のオリエント急行の運行も叶わなくなり、客車も散逸しました。今はオリエント急行というとVSOEですが、NIOEの車輌についても散逸した客車が再び集められ、他の資本で復活プロジェクトもあるという話も当日はありました。NIOEの車輌は極力製造当時の姿を内外装ともに残す、ということをポリシーとしており、そこがまた魅力でしたが、復活したとしても石炭ストーブなどはさすがに難しそうだ、という話もありました。
二日目は「時刻表ウラ話」ということでJTBの時刻表編集長を務めた経験のある木村嘉男氏のお話でした。JTBの時刻表は最近はさすがにお世話になることは減りましたが、学生時代はどんなに重くとも旅行かばんに時刻表を入れるスペースを作っておいたものです。制作については知っている話もそうでない話もあり、資料の入手もJRは紙で、民鉄ではメールでとフォーマットが異なっているほか、せっかく編集しても後から追加・訂正が誌面上出現する苦労も知ることができました。また、実際の誌面を例示しながら、乗り継ぎなど乗客の利便性を考えた時刻の表示だったり、定期列車が日付によって頻繁にダイヤが変更となる際の表示など、読みやすくするための(残念ながら読みやすさにつながらないときもあるようです)工夫が随所にあることを具体的に知ることができました。また、第三種郵便として通用させるために時刻表の冊子の重量を1kgに収めるための涙ぐましい努力もあり、上下の一部を裁断してなんとか1kgに収めた、という裏話もありました。このところはモニター画面で済まされる講師の方が多いのですが、紙のレジュメも用意され、鉄道150年と30のトピックといった資料や、遠い将来も含めた鉄道の今後の動向についても記載され、なかなか役に立つ内容でした。JTBの時刻表もそろそろ創刊100年だそうですね。
三日目は「若手が語る古典列車の魅力」と題し、いずれも平成育ちの若手趣味人・谷川雄介氏(ロコモーション号など、初期の蒸気機関車の模型で知りました)、古典客車を中心とした「IORI工房」を主宰する風間伊織氏の二人による古典列車ガイドでした。古典という定義は難しいのですが、その中で直系の子孫を持たないものというのをいれていたのはなるほど、というところです。明治の機関車はともかく、大正期に登場した9600や8620についても既に100年経っていますから、若手から見たら「古典」と映るというのも少々意外でした。個人的には明治期と大正期で分けてもいいのかなとは思います。その時代を生きたわけではないので何とも言いようがありませんが、当時の人たちの思いなどに触れるにつけ、明治と大正で大きな時代の区切りがあるのではないかと思っております。当日は若手から斯界の大ベテランまで、さまざまな方が会場を埋めていましたが、古典機に興味を持ったきっかけについて、各年代層の趣味人にアンケートを取られたそうで、年配の方ならTMS誌や機芸出版社の「陸蒸気からひかりまで」、若手では「汽車のえほん(機関車トーマス)」といったあたりで、たしかに汽車のえほん(最近の原作を破壊したアニメでは無くて私は原作原理主義者であることをここにことわっておきます)に描かれる、特にナローゲージの機関車たちはかなり癖が強く、また古い車輛たちであります。「陸蒸気~」も「汽車のえほん」も子供の頃に愛読しましたので、私は両方から古典期を知った世代にあたりますね。私も明治の機関車については保存されている実物を見に行ったりしますし、模型でもいくつか持っています。就職してからですが初めて買った16番の製品が珊瑚模型店のB6(2120)型でした。機関車についてもさることながら、客車については製品も少ない中で、IORI工房さんは簡単な公式図面や写真から製品を作られたということで、その探求心とエネルギーには敬服いたします。件のB6も後ろの客車に恵まれておらず、ここはキットを組んであげなくては、ですね。
また、興味深かったのが車輌の色についてでして、明治期の車輌についてはその多くにおいて、塗装の詳細がよく分かっていません。それ故にさまざまな解釈が可能ということで、巨大なブレーキバンをつけた後の190型の塗装についてもいくつかの説を紹介されていたほか、模型でもさまざまな色に塗って紹介していました(前回のブログの「或る列車」の上に展示されていたものです)。最近はやりのAIによる白黒写真のカラー化については、この時代のガラス乾板の写真についてはまだ正確に再現するのが難しい(青系の色が白く写るなど、独特の色合いになるようです)ということで、錦絵の色使いが近いところをついているのかも知れませんね。私自身は古典列車もさることながら、それらが走った明治期のレールにも興味があるものですから、趣味人として大いに刺激になる時間でした。
長々と書いてしまいましたが、JAMのレポートはこのあたりで。また来年、JAMの会場でお会いできますことをお祈りして。