工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

レパントの海戦に参加したサムライの話 その3

2024年04月01日 | ジオラマあれこれ
(前回よりつづく)
 1571年、ヴェネツィアを中心としたキリスト教勢力対オスマントルコ海軍の地中海最大の海戦に参加したサムライの話を書いてまいりましたが・・・


いうまでもなく、ここまで書いた話はエイプリルフールであります。モデルカステンから発売の1/35 鉄炮侍 蛭子八郎太というフィギュアのプラキットにインスピレーションを得て作りました。もともとこちらは宮崎駿先生がモデルグラフィックス誌か何かに連載する予定だった作品の主人公で、1560年頃の鉄炮侍をリアルに再現しています。中途半端に西洋風にして、さらに舞台を地中海に変えてしまうわで、宮崎駿先生とファンの皆様、原作を破壊するような行為で申し訳ありません!というところですが、よくできたキャラクターとフィギュアのキットにインスピレーションを得たということで、オリジナルには叶いませんが、ご笑覧ください。

 上半身は西洋風の鎧にして、さらに下半身を守る小札(こざね)も金属製のアーマーになっています。兜も日本風のディティールを取って東洋と西洋が融合したような形です。刀は上半身に巻かれた革のベルトのようなものに挿しているという設定です。







 このネタ、もともと昨年の国際鉄道模型コンベンションを見た帰りに、沿線在住ベテランモデラー氏と秋葉原の「ライオン」で飲んだ際に「来年のエイプリル・フールは云々」と宣言したことが発端でした。ね、酔ったときの妄言じゃなくて、ちゃんと作りましたよ。
 ヴェネツィアの海軍史博物館は文字通り海軍所有ですが、レパントの海戦は当然のことながら大きなスペースを割いています。地味な博物館ですが、インスピレーションを与えてくれる場所でもあります。ちなみにイタレリのキットでもおなじみの「マイアーレ」や「バルキーニョ」といった特殊兵器の展示もありました。
 パラッツォ・ドゥカーレには武具の展示があります。この時代の銃の展示もありますが、日本の火縄銃とも違っていて興味深いです。
 こちらは本当の話ですが、戦国時代の八王子城からヴェネツィアガラスが出土した、という記事を読んだことがあり、西国ならともかく、関東にまでそういった文物が渡来していたというのも興味深く、人間があちらに行ったらどうなっていたのか、というのをあれこれ想像を膨らませながら書きました。もしかしたら同じことを考えている諸兄がいらっしゃるかもしれませんが、これは私のオリジナルのストーリーということで、ご容赦ください。
 かつて作家の塩野七生さんは「神の代理人」という作品で教皇の秘書の日記、というのを登場させ、後に「あれは私の創作です」と断りを入れておりました。それに比べたら私のこの記事など簡単に創作と見破られてしまいますが、今回の記事には当然「海の都の物語」、「レパントの海戦」といった書物が参考になっています。
 初回に登場した書物の写真、これはフィレンツェで買った「豆本」です。さすがにわたくし、ラテン語や少々古いイタリア語、ヴェネツィア方言まではきちんと理解しておりません。人形と大きさを比較してみてください。

(こちらの王子様もマキアベッリの書物でお勉強中です。)

ちゃんと印刷されてます。


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レパントの海戦に参加したサムライの話 その2

2024年04月01日 | 日記
(前回から続く)
日本から長い時間をかけてヴェネツィアに辿り着き、蛭子十郎太から「アゴスティーノ・イルコ」と名乗るようになった青年は、ヴェネツィア人として生きていた。肌の色の違う彼を、ときに地元の人々は好奇の目で見ていたが、ヴェネツィアの言葉も、ラテン語やギリシャ語の一部、中東で話される言葉もカタコトなら解していたので、単に使用人以上の存在とみなされるようになっていった。彼もまた、活版印刷が盛んなヴェネツィアで書物を手にすることが増え、さまざまな「情報」に触れていた。ただ、イルコ自身は出自や肌の色が違う人たちに親近感があったようで、ゴンドラを漕ぐ黒人奴隷や、やはり異国からやってきた船乗り、商人たちとも言葉をよく交わしており、その行動はヴェネツィアの情報機関「十人委員会」からも監視の対象にはなっていたが、好ましからざる人物ではなかった、と当時の報告書に記載がある。
やがて、ヴェネツィアとオスマントルコの間が風雲急を告げるようになった。オスマントルコがヴェネツィア領だったキプロスを攻略、激しい攻防戦の末に陥落せしめたのだった。オスマントルコの勢力は欧州にも影を落とすどころか、16世紀にはウィーンの近くに迫ったこともあった。ここで紆余曲折はあったものの、対トルコの同盟を欧州諸国が結び、連合艦隊が組まれることとなった。そうは言っても艦船の多くは当時第一の海運・海軍国だったヴェネツィア共和国が提供した。

(海軍史博物館のレパントの海戦の部屋に展示されているガレー船の模型)
 こうして1571年10月に起きたのが、キリスト教国の艦隊とオスマントルコの艦隊が激突した「レパントの海戦」だった。アゴスティーノ・バルバリーゴも指揮官の一人としてガレー船に乗り込んでいた。そして傍らにはアゴスティーノ・イルコもいた。当初、バルバリーゴはキリスト教国の連合艦隊に異教徒のイルコを入れることには積極的ではなく、本国に置いていこうとしたが、イルコは「仕えた家に忠義を尽くすのが武士である」と譲らず、緋色の船体のガレー船に乗り込んでいた。その姿はどこか日本の武士のようにも見えたが、違うのは彼が上半身に西洋式の甲冑を身につけていたことで、銀色に鈍く光っていた。兜は一見日本のそれのように見えるが、やはり金属製で、前にはバルバリーゴ家の紋章が入っていた。両腕は鎖帷子のような装甲の上にさらに追加された装甲で覆われ、足はわらじではなく、さすがに革でできた靴だったようである。
 当時の海戦は大砲、鉄砲、弓矢といった飛び道具だけでなく、船から相手の船に乗り込んでの白兵戦もしばし行われた。バルバリーゴ率いる艦隊の左翼とて同じでトルコの有力な海賊の一人シロッコ率いる艦隊と激しい交戦となった。そんな中、バルバリーゴを一発の銃弾が襲った。それを見たイルコは、シロッコの船に飛び乗り「狙うはシロッコが首のみ」と叫び、刀を抜いて敵の中に飛び込んでいったという。シロッコはこの時の戦闘が元で、数日後に亡くなった。トルコの軍船の中には彼と同じような肌の色をした青年がいて、捕虜となったという。

(ガレアッツアと呼ばれる大砲を装備した大型のガレー軍船の模型。海軍史博物館にて)

 その後、イルコがどこに消えたのか、その行方は杳として知れない。イルコは戦闘を生き延びたと言われているが、主人のバルバリーゴが戦死したことで居づらくなったと感じたのか、ヴェネツィアの街で彼を見たものは居なかったという。彼を慕うダルマツィア出身の船乗りや、捕虜となっていた後にイルコの手引きで「解放」されたイルコと同じ肌の色の男とともに、細身のガレー船を駆り、アドリア海で交易と海賊のようなことをしていたという説もあれば、このあと10数年後に起きたアルマダの海戦でイギリス側にいた、という説もある。
 そんな話、噂やウソに決まっているではないか、とおっしゃる方もいるだろうが、ちょっと待ってほしい。ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)にある「国会議事堂」に相当する大評議会の間には、レパントの海戦を描いた大きな絵画が飾られている。その中に武士のような恰好をした兵士が描かれているのを見ることができる。また、同じ建物に16世紀頃の武具などを展示した部屋があるが、そこには日本の火縄銃(短筒)のような銃器が展示されているのである。

(右手前・ピンクの建物が元首官邸)


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レパントの海戦に参加したサムライの話 その1

2024年04月01日 | 日記
私がイタリア・ヴェネツィアをよく訪れていた30代の頃、彼の地の歴史に詳しい本屋さんに足を運んだものでした。その時に主人から「1571年のレパントの海戦で日本のサムライがヴェネツィアの船に乗って戦った話を知っているか?」と聞かれました。そんなことは初耳でしたので、どこかに出ていたのかと聞いたところ「あの時代の法王庁の大使の報告書にそんなことが書いてあるんだ」と、一冊の本を見せてくれました。しかし、1~2行で片付けられている記事には、それ以上の情報を期待するのは難しそうでした。
 本屋のご主人の伝手を頼って、私は公文書館や海軍史博物館を訪れ、もう少し調べてみようと思いました。それが、今回のテーマです。

(海軍史博物館 左側の建物)(写真はすべて筆者撮影)


 その男がどこで生まれ、育ったのか誰も知らない。男も過去を語りたがらなかったからだ。瀬戸内の水軍の血を引くという家に生まれたらしいが、戦乱か、疫病で天涯孤独となった彼は、より遠くの世界を見てみたい、と思ったようだった。刀と短筒と呼ばれる火縄銃を担ぎ、宣教師たちを乗せてきた船に潜り込み、まずマニラに向かった。まだ10代の頃だったようである。呂宋助左衛門が活躍する前の時代だったが、ここで商売を学んだ彼は、さらにインドへ、そしてオスマントルコのコンスタンティノープルに向かったようである。ただし、トルコには、異教徒の彼を奴隷として売買しようとして連れてこられた可能性があるという。
 しかし、トルコに来るまでに彼は異国の言葉をいくつも覚え、水軍のもう一つの役目、商売の才覚もあったようで、それに目を付けたのがトルコと交易をしていたヴェネツィアの商人・バルバリーゴ家の一人だった。ヴェネツィアとオスマントルコは時に戦いつつも、商売相手でもあったのだ。少年から青年になった彼を引き取った商人はヴェネツィアに連れて行くことになった。
 当時のエーゲ海、アドリア海は海賊も跋扈していたが、彼は海賊が出てきそうな海域を言い当て、本当に海賊が現れるため誰もが驚いた。多島海は彼が育った瀬戸内に似ていて、海賊の頭でものを考えることができたようだった。また戦闘に際しても囮を深追いせず、小舟の集団で襲う海賊のリーダーを見つけると、即座にリーダーを銃で倒すのだった。リーダーを失った小舟の集団は混乱に陥り、その隙に乗じて危機を脱することができた。商船は当時、船団を組むことが多かったが、一隻一隻の動きも頭に入れながら、船長に助言する様子がしばしば見られた。まるで鳥の目を持った男のようだ、とこのガレー船の船長は語った。彼を連れ帰ったバルバリーゴ家の商人も、この青年なら商人としても武人としても使える、と思ったようである。

(当時のガレー船の模型・海軍史博物館にて)
ヴェネツィアは話に聴いていたが、とても豪華な建物の並ぶ都市で、これまで見てきたどの都市とも違っていたが、彼は心を惹かれるものがあったようだった。彼はまず当主のアゴスティーノ・バルバリーゴに引き合わされた。フランス大使やヴェネツィアが本土に持つ領地を治めたことのある男で、ヴェネツィアの男らしく、ひげをたくわえていた。
青年の署名をバルバリーゴは見た「Hiruco Giurota」とあった。「お前の名はイルコ・ジュロータか?」。青年はラテン語圏特有のHの音を発音しないがために、自分の姓が「イルコ」と呼ばれることにも慣れてしまっていた。「いかにも。姓は蛭子(イルコ)、名は十郎太である」。「ジュロータは言いにくいから、今日からお前は私と同じ、アゴスティーノと名乗りなさい」と男は言った。こうして「アゴスティーノ・イルコ」が誕生した。
 彼はその後も幾度か交易の船に乗り込み、時には海賊から船団を救ったこともあった。また。バルバリーゴ家の屋敷の近くに小さな部屋を与えられ「家臣の一人」としてみなされたことが嬉しかったようである。商人でもあり、武人でもあった彼は、ここでようやく生きる場所を見つけたようだった。
(つづく)


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