初の4月開催となったF1の日本GPは大いににぎわい、来年も春開催の方向だそうですが、日本でF1が春に開催されたのは初めてではありませんでした。1994(平成6)年の春、岡山県のTIサーキット英田(あいだ)(現・岡山国際サーキット)で開催されたパシフィックGPが、今回のテーマです。
もともとこのサーキット、ゴルフ場などをてがけていた田中肇氏が中心となって作られました。関東圏には富士が、中京圏には鈴鹿があるということで、近畿圏に近いところで岡山になったという経緯があるようです。自動車、モータースポーツが好きだった同氏はサーキットを自分で作ってF1を呼びたい。という夢を持っていました。人づてにF1の興行面を仕切っていたバーニー・エクレストンとも出会い、一国一開催が原則のF1グランプリで二回開催に向けて準備を進めていきます。その間、本人もシビックレースに出場して、レーシングドライバーとしての活動もしています。鈴鹿以外の開催はそれまでも九州オートポリスのアジアGPなど、構想が浮かんでは消えて、でしたのでパシフィックGPの話も私は半信半疑でしたが、正式に決まってF1をよく呼べたなあと思ったものです。TIサーキットはゴルフ場開発を得意としたオーナーらしく、会員権を持つ人がサーキットでF1マシンなどをレンタルして走行できるのが売りで、サーキットのロゴが入った中古のティレルのマシンの写真を見たことがあります。ちなみに、1周4キロ弱のモナコの次に小さなコースで、サーキットのどこにいてもコースの2/3(だったと思う)が見渡せるのが特徴でした。

(パシフィックGPのプログラム。翌年の英田で買ったんだっけ)
こうして1994年4月、岡山にF1がやってきました。第二戦でした。グランプリの週末はよく晴れたと伝わっています。予選でポールを獲ったのは二戦続けてセナでした。これは金曜日の予選初日でマークしたタイムでした。
決勝ですが、15:00からの競馬放送がある関係で、いつも日本GPは録画放送だったフジテレビも、この時は13:00の決勝スタートに合わせて生放送しました。これは私も自宅で観ていました。
決勝ではポールのセナが出遅れ、マクラーレンのハッキネンが突っ込み、さらにフェラーリのラリーニ(アレジがテストでケガをしてその代役でした)が接触ということでセナは押し出されてリタイア、日本でいいところなく終わってしまいました。これで楽になったのが2位スタートのシューマッハ(ベネトン)で、一人旅で優勝します。セナのリタイア後は何ともつまらないレースになってしまった印象があるのは、日本勢(ティレルの片山右京とアーバインの代役で急遽ジョーダンに乗った鈴木亜久里)が二台ともリタイアしたこともあるかと思います。リタイアした鈴木亜久里にピットレポーターがいつもの癖で「次(のレース)、頑張ってください」と声をかけたら「俺、次ないからさ」とスポット参戦の悲しさか、悔しそうに言っていたのを思い出します。2位はフェラーリのベルガー、3位に亜久里のチームメイト、バリチェロが入ります。完走が11台と、マシンに対して厳しいコースだったようです。トップから5周遅れ、最後尾でチェッカーとなったのは新興チーム・シムテックに乗るラッツェンバーガーでした。

(同じくプログラムより。セナを紹介するページでは、タイトルは確実?といった紹介のされ方です)
このレースで特徴的というか印象深いのは観客はすべて観光バスで輸送し、コースにバスを乗り入れさせて乗降するという前代未聞の方法をとったことでした。バスが乗り入れることでコースに何らかの支障が出たらどうするのかと大会の組織委員会が反対し、ツアーを請け負ったJTBも難色を示したそうですが、ぎりぎりのところで納得させ、レースも、それから観客の輸送も支障なくできました(翌年はコースまで入ることは無かったと思います)。なお、このような「パークアンドライド」方式は2007年富士での日本GPでも行われましたが、悪天候などが原因で「崩壊」してしまいます。
さらに、前述のF1界のボス、バーニー・エクレストンから、ヘアピンカーブの看板を自由に使うことをプレゼントされます。そこでオーナーの田中氏はサーキット建設と大会開催への支持をしてくれた岡山県への謝意から「ありがとう岡山県」という文字を入れました(翌年は県がPRの看板を設置していました)。テレビ中継でも随分と目立って映っていました。当時の岡山県知事は内務省→自治省の官僚出身で、地方自治の神様の異名をとった長野士郎氏でした(都知事を務めた鈴木俊一氏も地方自治の神様だったように記憶していますが)。プログラムにもベネトンのマシンのミニカーを手にした写真とあいさつが掲載されています。
また、チームも近隣の湯郷温泉に宿泊するなど、こちらもいつもと違う体験だったことでしょう。当時の温泉旅館ではカードが使えず、TIサーキットの従業員がカード用のプリンタを持って旅館に駆け込む、といったこともあったようです。
さて、レースの話に戻りますが、F1がつかの間の春を楽しんだのはここまででした。そこから2週間後のサンマリノGP、予選でラッツェンバーガーが、そして決勝でセナが亡くなり、F1は最大の悲劇と、そして試練と向き合うことになります。このレースが混迷のシーズンの前、最後の静けさだったことが分かったのは、だいぶ後になってからでした。
このプログラムを久しぶりに開いておりましたら、各チームのリザーブドライバーやその「候補者」たちの写真が載っていました。

左ページ下はヨス・フェルスタッペン(ベネトン)。そう、マックスのお父さんです。期待の大型新人という扱いでした。ベネトンではレートの代役でこのレースにも出場しましたが、リタイアに終わっています。このシーズンはシューマッハが目立ち、チームメイトはなかなか固定されませんでした。右上はベテランのフィリップ・アリオー、右下はパラアスリートとしても有名になったザナルディ。
さらにはこのようなページも

鈴木亜久里、ラリーニといったさまざまな経緯を持つドライバーもいれば、デ・チェザリスのような大ベテランもいます。また左上のように若手ドライバーでは有望株と当時からささやかれたクルサードがいました。
参考文献・日本の名レース100選「'94 F1パシフィックGP」三栄書房

本書には田中肇氏のインタビューも掲載されています。入手は難しいかもしれませんが、見かけられたらぜひ。
もともとこのサーキット、ゴルフ場などをてがけていた田中肇氏が中心となって作られました。関東圏には富士が、中京圏には鈴鹿があるということで、近畿圏に近いところで岡山になったという経緯があるようです。自動車、モータースポーツが好きだった同氏はサーキットを自分で作ってF1を呼びたい。という夢を持っていました。人づてにF1の興行面を仕切っていたバーニー・エクレストンとも出会い、一国一開催が原則のF1グランプリで二回開催に向けて準備を進めていきます。その間、本人もシビックレースに出場して、レーシングドライバーとしての活動もしています。鈴鹿以外の開催はそれまでも九州オートポリスのアジアGPなど、構想が浮かんでは消えて、でしたのでパシフィックGPの話も私は半信半疑でしたが、正式に決まってF1をよく呼べたなあと思ったものです。TIサーキットはゴルフ場開発を得意としたオーナーらしく、会員権を持つ人がサーキットでF1マシンなどをレンタルして走行できるのが売りで、サーキットのロゴが入った中古のティレルのマシンの写真を見たことがあります。ちなみに、1周4キロ弱のモナコの次に小さなコースで、サーキットのどこにいてもコースの2/3(だったと思う)が見渡せるのが特徴でした。

(パシフィックGPのプログラム。翌年の英田で買ったんだっけ)
こうして1994年4月、岡山にF1がやってきました。第二戦でした。グランプリの週末はよく晴れたと伝わっています。予選でポールを獲ったのは二戦続けてセナでした。これは金曜日の予選初日でマークしたタイムでした。
決勝ですが、15:00からの競馬放送がある関係で、いつも日本GPは録画放送だったフジテレビも、この時は13:00の決勝スタートに合わせて生放送しました。これは私も自宅で観ていました。
決勝ではポールのセナが出遅れ、マクラーレンのハッキネンが突っ込み、さらにフェラーリのラリーニ(アレジがテストでケガをしてその代役でした)が接触ということでセナは押し出されてリタイア、日本でいいところなく終わってしまいました。これで楽になったのが2位スタートのシューマッハ(ベネトン)で、一人旅で優勝します。セナのリタイア後は何ともつまらないレースになってしまった印象があるのは、日本勢(ティレルの片山右京とアーバインの代役で急遽ジョーダンに乗った鈴木亜久里)が二台ともリタイアしたこともあるかと思います。リタイアした鈴木亜久里にピットレポーターがいつもの癖で「次(のレース)、頑張ってください」と声をかけたら「俺、次ないからさ」とスポット参戦の悲しさか、悔しそうに言っていたのを思い出します。2位はフェラーリのベルガー、3位に亜久里のチームメイト、バリチェロが入ります。完走が11台と、マシンに対して厳しいコースだったようです。トップから5周遅れ、最後尾でチェッカーとなったのは新興チーム・シムテックに乗るラッツェンバーガーでした。

(同じくプログラムより。セナを紹介するページでは、タイトルは確実?といった紹介のされ方です)
このレースで特徴的というか印象深いのは観客はすべて観光バスで輸送し、コースにバスを乗り入れさせて乗降するという前代未聞の方法をとったことでした。バスが乗り入れることでコースに何らかの支障が出たらどうするのかと大会の組織委員会が反対し、ツアーを請け負ったJTBも難色を示したそうですが、ぎりぎりのところで納得させ、レースも、それから観客の輸送も支障なくできました(翌年はコースまで入ることは無かったと思います)。なお、このような「パークアンドライド」方式は2007年富士での日本GPでも行われましたが、悪天候などが原因で「崩壊」してしまいます。
さらに、前述のF1界のボス、バーニー・エクレストンから、ヘアピンカーブの看板を自由に使うことをプレゼントされます。そこでオーナーの田中氏はサーキット建設と大会開催への支持をしてくれた岡山県への謝意から「ありがとう岡山県」という文字を入れました(翌年は県がPRの看板を設置していました)。テレビ中継でも随分と目立って映っていました。当時の岡山県知事は内務省→自治省の官僚出身で、地方自治の神様の異名をとった長野士郎氏でした(都知事を務めた鈴木俊一氏も地方自治の神様だったように記憶していますが)。プログラムにもベネトンのマシンのミニカーを手にした写真とあいさつが掲載されています。
また、チームも近隣の湯郷温泉に宿泊するなど、こちらもいつもと違う体験だったことでしょう。当時の温泉旅館ではカードが使えず、TIサーキットの従業員がカード用のプリンタを持って旅館に駆け込む、といったこともあったようです。
さて、レースの話に戻りますが、F1がつかの間の春を楽しんだのはここまででした。そこから2週間後のサンマリノGP、予選でラッツェンバーガーが、そして決勝でセナが亡くなり、F1は最大の悲劇と、そして試練と向き合うことになります。このレースが混迷のシーズンの前、最後の静けさだったことが分かったのは、だいぶ後になってからでした。
このプログラムを久しぶりに開いておりましたら、各チームのリザーブドライバーやその「候補者」たちの写真が載っていました。

左ページ下はヨス・フェルスタッペン(ベネトン)。そう、マックスのお父さんです。期待の大型新人という扱いでした。ベネトンではレートの代役でこのレースにも出場しましたが、リタイアに終わっています。このシーズンはシューマッハが目立ち、チームメイトはなかなか固定されませんでした。右上はベテランのフィリップ・アリオー、右下はパラアスリートとしても有名になったザナルディ。
さらにはこのようなページも

鈴木亜久里、ラリーニといったさまざまな経緯を持つドライバーもいれば、デ・チェザリスのような大ベテランもいます。また左上のように若手ドライバーでは有望株と当時からささやかれたクルサードがいました。
参考文献・日本の名レース100選「'94 F1パシフィックGP」三栄書房

本書には田中肇氏のインタビューも掲載されています。入手は難しいかもしれませんが、見かけられたらぜひ。