工作台の休日

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最強・最速マシンの光と影 フェラーリF2002

2022年08月24日 | 自動車、モータースポーツ
 三栄のGPCarStoryはこのブログで何度もご紹介していますが、最新号は2002年を文字通り席巻したフェラーリF2002を特集しています。このマシン、2002年シーズン第3戦からデビューし、最終第17戦日本GPまでに15戦14勝、1-2フィニッシュ9回、翌2003年序盤も1勝を挙げて2003年型マシンに引き継いでいます。フェラーリは1990年代後半のシューマッハ加入以降「復活」を遂げ、1999年はコンストラクターズタイトルを獲得したほか、2000年以降シューマッハが2004年まで5連覇という快挙を成し遂げています。特に2002年の強さはこの中でも群を抜いており、チームメイトのバリチェロを従えて表彰台に上がり、ドイツ国歌とイタリア国歌が流れるシーンを何度も眺めることになりました。シューマッハが7月にはタイトルを決めたというのも異例の早さで、シーズン後半の多くのレースが「消化試合」となったわけです。

 なぜこれだけの速さを獲得できたのか、ということについては本書でも詳しく触れられておりますが、マシン後部の空力追求のためにギアボックスを徹底的に小型、軽量化したこと、レース中の途中給油2回を前提とした小型の燃料タンク(当時はレース中の燃料給油が認められていました)、そしてフェラーリ専用ともいうべきブリヂストンタイヤの開発といったところがカギになっており、関係者の証言も含めて読み解くことができます。
 今号ではこのシリーズでおなじみのデザイナー、ロリー・バーンのみならず、ロス・ブラウン、ジャン・トッドといったチームの首脳陣へのインタビューも掲載されています。みな「シューマッハの加入と共に」フェラーリにやってきて、苦楽を共にした人たちです。
 こうした最速マシンの「光」の部分もよく分かったのですが、今号では2002年シーズンの前半・オーストリアGPで起きた「チームオーダー事件」についても触れています。これは決勝レース中に首位を走るバリチェロに対して僚友シューマッハを先に行かせるよう指示があったもので、バリチェロが抵抗しつつもシューマッハを先行させたのでした。2000年、2001年に連覇し、このシーズンも前半ながら既にタイトル獲得に向けて視界良好だったシューマッハをそこまでして優先させるのか、という非難が当時少なからずありました。シーズン終盤で1ポイントが大切な意味を持ってくる時ならともかく、今それをやるのか、というわけです。後にアメリカGPでシューマッハがバリチェロに勝利を「譲った」ことも話題となりました。
 これについてはチームのトップ、ジャン・トッドは当然のことだと答えていますし、ロス・ブラウンもシューマッハ加入後の数年(特に1997、1998年)などは最後の最後でタイトルをライバルに獲られており、その敗北の記憶から、徹底してシューマッハを優先させ、タイトルに近づけさせたかったようです。ちょうどこの時代が、巨大自動車メーカーが相次いでF1にコミットし始めた頃で、マクラーレンとメルセデスの関係は90年代後半以降ますます深化していましたし、BMWが復帰してウィリアムズと組み、もともとベネトンと組んでいたルノーも、ベネトンを飲み込む形で参戦、ホンダが復帰してBARやジョーダンと組み、さらには巨人トヨタがいよいよ参戦ということで、ちょっとのきっかけでシーズンの流れが変わる怖さを感じ取っていたのでしょう。ましてや当時はシーズン中のテストも青天井状態でしたから、いつ出し抜かれるかという怖さもあったことでしょう。実際、他のチーム以上にフェラーリもテストを沢山行うことで問題点をつぶし、マシンを仕上げていたようです。
 また、タイヤについてもブリヂストンだけでなくミシュランが参入、リーダーの浜島裕英氏のインタビューによれば、F2参戦時にミシュランに敗北した苦い記憶などがあり、圧勝した記憶よりプレッシャーも相当なものだったようです。もっとも、ミシュラン側がメディアに「ないことないこと言っていた」というのも頭痛の種で、そのあたりのF1特有の政治的な駆け引きというもうひとつの戦いだったようです。
 残念ながらドライバーの主役、シューマッハが長年のけがの療養で声を聴くことができないわけですが、ライバルチーム・マクラーレンに在籍していたデビッド・クルサードがシューマッハの強さについて解析しています。まだF1デビュー前にメルセデスの「特待生」としてスポーツカーのレースに出ていたことでスタミナがあり、レース全体を俯瞰して、勝負する場面を見極めるなどの能力を身につけたのではないかという指摘は、シューマッハのレースぶりを見ていると確かにその通りだなと思いました。若いころからただ速い、というのではなく勝負どころがわかっていたり、ピット戦略を巧みに使えるドライバーでしたので、良いマシンが手に入れば無敵なわけです。また、シューマッハのチームメイト、バリチェロもF2002を「最高のマシンの一つ」と言っています。バリチェロはシューマッハとは厳然とした差があり、それが容易に縮められるものではなかったわけですが、そうは言っても素晴らしい日々だったと回想しています。
 ジャン・トッドのインタビューで印象的だったのは、フェラーリ加入時に同じフランス人のアラン・プロストから「どうせうまくいかないからやめた方がいい」と忠告を受けたそうで、プロストもドライバーとしてフェラーリに在籍するものの、喧嘩別れをしたから出てきた言葉なのだと思いました。フェラーリというのは時折チーム内でゴタゴタが発生する悪い癖があり、ジャン・トッドもずっと順調だったわけでないようです。トッドはフランス、ロス・ブラウンはイギリス、シューマッハはドイツということで、首脳陣もドライバーもイタリア人ではない中で達成した偉大な記録なわけで、イタリア人はどんな思いで見つめていたのかなと、ちょっぴり思ったりもします。
 この記事を書くために当時のことを振り返ったりしていましたが、既に20年前の話であることに自分ながら驚いています。このシーズンの話はだいぶ前に佐藤琢磨とジョーダン・ホンダのマシンの記事でも触れていますが、だいぶ昔の出来事になったのだなあ、というのとシューマッハ(とフェラーリ)の全盛時代をテレビでもサーキットでも観ることができたというのは、一人のレースファンとして(特に自分がフェラーリファンというのも大きいわけですが)幸せなことであり、財産になったと思っています。余談にはなりますがあの頃の鈴鹿ではフェラーリやシューマッハのキャップを被っているファンも多かったように思います。

ミニカーはホットホイール1/43

ギアボックスを小さくし、絞り込まれたリアエンドが確認できますでしょうか。

ミニカーのケースにはしっかり「ミハエル・シューマッハコレクション」のシールが貼られています。


 
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