中年俳句というジャンルがあるのかどうかは知りませんが、私がそんなお年頃なので、中年を詠った俳句には心惹かれるものがありますね。もしそんなジャンルがあるのなら、代表作はこちらでしょう。
中年や 遠くみのれる 夜の桃 西東三鬼
この句を初めて知ったのは、俳句を習いたての頃に参加していた勉強会においてでした。俳句仲間の皆さんからは、若いと言われていましたが、当方当時は「25過ぎたら一緒だよ。」と思っていたので、この句の世界も近い将来のことと感じておりました。そんな心情から「中年っていくつからなんでしょうか?」などと馬鹿丸出しな質問をして、染み入る様な笑顔を向けられたりしたものでした。
「20代から俳句しています。」と言うと、高尚な人と思われがちなのですが、実際のところこの程度の人にでも門戸が開かれているのが俳句の素晴らしいところであります。
三鬼の句に話を戻します。
この句に詠われている「夜の桃」については色々な解釈があると思いますが、ノヴァーリスの「青い花」が現実に到達しえない永遠の憧れの象徴ならば、三鬼の「夜の桃」は永遠に手の届かないところに去ってしまった何かの象徴だと思うのですよ。それが何なのかについては、何を失うのが一番痛いのかという読み手の価値観によって変わると思います。若さ、体力、健康、恋愛、性欲…中年期って色んなものが過去のものになっていきますよね。家庭や職場でのポジションも固定されますし。人生どん詰まり感があるけど、まだ諦めきれない気持ちもある。その足掻きを人間のあり方として肯定的に捉えた句だと思います。
20代の頃の私は一読して性的な匂いを感じましたけど、性的なイメージで捉えるのはけしからん的なご意見を耳にしたこともあります。別に良いんじゃないかと思いますけどね。むしろ何がいけないのか愚民にもわかるように具体的に説明していただきたいものですが…。三鬼の句には「おそるべき 君等の乳房 夏来る」のような真っ向から性と生を肯定的に詠ったものもあって、「夜の桃」もそんな生命讃歌の一つだと思いますけどね。
既に若さは過去のものとなり、人生の荷を下ろすのにはまだ早すぎる。中年って面倒臭い年頃ですね。その面倒臭さを楽しむための手段の一つとして俳句は有効だと思いますよ。
中年や 遠くみのれる 夜の桃 西東三鬼
この句を初めて知ったのは、俳句を習いたての頃に参加していた勉強会においてでした。俳句仲間の皆さんからは、若いと言われていましたが、当方当時は「25過ぎたら一緒だよ。」と思っていたので、この句の世界も近い将来のことと感じておりました。そんな心情から「中年っていくつからなんでしょうか?」などと馬鹿丸出しな質問をして、染み入る様な笑顔を向けられたりしたものでした。
「20代から俳句しています。」と言うと、高尚な人と思われがちなのですが、実際のところこの程度の人にでも門戸が開かれているのが俳句の素晴らしいところであります。
三鬼の句に話を戻します。
この句に詠われている「夜の桃」については色々な解釈があると思いますが、ノヴァーリスの「青い花」が現実に到達しえない永遠の憧れの象徴ならば、三鬼の「夜の桃」は永遠に手の届かないところに去ってしまった何かの象徴だと思うのですよ。それが何なのかについては、何を失うのが一番痛いのかという読み手の価値観によって変わると思います。若さ、体力、健康、恋愛、性欲…中年期って色んなものが過去のものになっていきますよね。家庭や職場でのポジションも固定されますし。人生どん詰まり感があるけど、まだ諦めきれない気持ちもある。その足掻きを人間のあり方として肯定的に捉えた句だと思います。
20代の頃の私は一読して性的な匂いを感じましたけど、性的なイメージで捉えるのはけしからん的なご意見を耳にしたこともあります。別に良いんじゃないかと思いますけどね。むしろ何がいけないのか愚民にもわかるように具体的に説明していただきたいものですが…。三鬼の句には「おそるべき 君等の乳房 夏来る」のような真っ向から性と生を肯定的に詠ったものもあって、「夜の桃」もそんな生命讃歌の一つだと思いますけどね。
既に若さは過去のものとなり、人生の荷を下ろすのにはまだ早すぎる。中年って面倒臭い年頃ですね。その面倒臭さを楽しむための手段の一つとして俳句は有効だと思いますよ。