『排除の現象学』は、東北学で知られる赤坂憲雄氏が1991年に発表した力作である。
あとがきで「おそらく二度と、このような事件を媒体として現代と切り結ぶ作業に手を染めることはないだろう」と語っておられるが、その方が良いかもしれない。現在では当たり障りのある内容なのだ。
本書は、「序章 さらば、寅次郎の青春」からすでに穏やかではない。
映画『男はつらいよ』は、主人公フーテンの寅さんという愛すべき道化を主人公として、濃密な人間関係の残る下町を舞台に繰り広げられる人情映画として仕組まれ、国民的な人気を博している。
ところが赤坂氏はこの国民的人情映画に対し、「嫌いではない」と断りつつも、「棺桶映画として愛好されているという事実は否定すべくもない」とさらりと述べてしまう。さらには、「寅さんは性的イムポテンツにちがいない」とまで確信している。赤坂氏によれば、寅次郎は性的不能者として生涯にわたる純愛と失恋が課せられた異人なのである。
毒のない笑いを誘う牧歌的な表層の物語の底には、もうひとつの物語=現実が隠されている。『男はつらいよ』は、フーテンの寅という異人をめぐる恐るべき「排除」の物語なのだ。
寅次郎は、「葛飾柴又、帝釈天の産湯をつかい…」と健気に、誇らしげに家郷への忠誠と愛を語りつつも、つかの間の帰還しか許されず、死ぬまで放浪の旅を続けることを宿命づけられている。その宿命に忠実である限りにおいて、家郷の人々に温かく迎えられ、受容されもする。寅次郎は自ら望んで旅立つのではない。人々の無言の期待を感じ取り、共同体の予定調和を崩さないために去って行くのだ。道化の笑みを浮かべながら…。
寅次郎には、マドンナと所帯を持ち、幸福な家庭生活を営むことは許されない。寅次郎にマトモな市民が辿る人生コースを許し、家郷に根を張らせてしまったら、下町=共同体の結束は綻び、人情喜劇は崩壊してしまうのだ。我々は、去り行く寅次郎の背中に、性的不能者の、生活破綻者の、「排除」される者の悲しみを読み取らねばならない。
少数者への「排除」が起こるとそこに一体感が生まれ、仲間意識や共同体としての絆が強められる。村八分は、現代社会でも有効なシステムとして重宝されている。村八分にされた者に道化の仮面を被せて笑う映画…この洞察に寅さんファンは耐えられるだろうか?
さらに踏み込んで、赤坂氏は、『男はつらいよ』における寅次郎とマドンナとの出会いと別れがすべて寅次郎の白昼夢であるとしたら、という仮定まで示している。所謂夢オチであるが、であるとしたらあまりにも寅次郎が可哀そうだ。そんな残酷な映画を笑い転げて観る自分に耐えられる人がいるであろうか?
まだ序章にしか触れていないが、全体について語ると一週間位その話ばかりになってしまうので、これにて終了する。第1章からは実際に起きた事件を取り扱っているので痛ましさもひとしおである。
いじめ、浮浪者、新興宗教、精神・身体障碍者…差異=スティグマを捺された者への「排除」で成り立つ社会。寅次郎は生贄の対象になったとしても、下町の人々は彼を排除するだけでなく、同時に歓待もした。寅次郎には、共同体の内部と外部を往還する異人という聖性が与えられていたのである。しかし、現実の共同体の中では、犠牲者は内部に閉じ込められたままで、外部との往還は禁じられている。排除されるだけで歓待されることはない。聖性を奪われた犠牲者はいとも簡単に死へと追いやられ、共同体の内部では新たな生贄を求めるゲームが永遠に続けられる。
現在、「排除」の対象は更に拡がり、高齢者、生活保護受給者、母子・父子家庭、子を持たぬ夫婦、独身者、被災者…様々な立場の人がスティグマを捺され「社会のお荷物=悪」として攻撃されている。強引に差異をつくり、誰かを叩かないとやっていられない閉塞感が社会に満ちている。
本書に触れて、赤坂氏がなぜ東北に強い思い入れを持っているのかが良く分かった。東北は「排除」された地域である。あからさまな蔑みを口にする人は減ったが、根っこの部分では「白河以北、一山百文」の時代から何も変わっていない。あの震災が日本の他の地域で起こったのならば、復興はここまで停滞していなかったと思うのだ。
あとがきで「おそらく二度と、このような事件を媒体として現代と切り結ぶ作業に手を染めることはないだろう」と語っておられるが、その方が良いかもしれない。現在では当たり障りのある内容なのだ。
本書は、「序章 さらば、寅次郎の青春」からすでに穏やかではない。
映画『男はつらいよ』は、主人公フーテンの寅さんという愛すべき道化を主人公として、濃密な人間関係の残る下町を舞台に繰り広げられる人情映画として仕組まれ、国民的な人気を博している。
ところが赤坂氏はこの国民的人情映画に対し、「嫌いではない」と断りつつも、「棺桶映画として愛好されているという事実は否定すべくもない」とさらりと述べてしまう。さらには、「寅さんは性的イムポテンツにちがいない」とまで確信している。赤坂氏によれば、寅次郎は性的不能者として生涯にわたる純愛と失恋が課せられた異人なのである。
毒のない笑いを誘う牧歌的な表層の物語の底には、もうひとつの物語=現実が隠されている。『男はつらいよ』は、フーテンの寅という異人をめぐる恐るべき「排除」の物語なのだ。
寅次郎は、「葛飾柴又、帝釈天の産湯をつかい…」と健気に、誇らしげに家郷への忠誠と愛を語りつつも、つかの間の帰還しか許されず、死ぬまで放浪の旅を続けることを宿命づけられている。その宿命に忠実である限りにおいて、家郷の人々に温かく迎えられ、受容されもする。寅次郎は自ら望んで旅立つのではない。人々の無言の期待を感じ取り、共同体の予定調和を崩さないために去って行くのだ。道化の笑みを浮かべながら…。
寅次郎には、マドンナと所帯を持ち、幸福な家庭生活を営むことは許されない。寅次郎にマトモな市民が辿る人生コースを許し、家郷に根を張らせてしまったら、下町=共同体の結束は綻び、人情喜劇は崩壊してしまうのだ。我々は、去り行く寅次郎の背中に、性的不能者の、生活破綻者の、「排除」される者の悲しみを読み取らねばならない。
少数者への「排除」が起こるとそこに一体感が生まれ、仲間意識や共同体としての絆が強められる。村八分は、現代社会でも有効なシステムとして重宝されている。村八分にされた者に道化の仮面を被せて笑う映画…この洞察に寅さんファンは耐えられるだろうか?
さらに踏み込んで、赤坂氏は、『男はつらいよ』における寅次郎とマドンナとの出会いと別れがすべて寅次郎の白昼夢であるとしたら、という仮定まで示している。所謂夢オチであるが、であるとしたらあまりにも寅次郎が可哀そうだ。そんな残酷な映画を笑い転げて観る自分に耐えられる人がいるであろうか?
まだ序章にしか触れていないが、全体について語ると一週間位その話ばかりになってしまうので、これにて終了する。第1章からは実際に起きた事件を取り扱っているので痛ましさもひとしおである。
いじめ、浮浪者、新興宗教、精神・身体障碍者…差異=スティグマを捺された者への「排除」で成り立つ社会。寅次郎は生贄の対象になったとしても、下町の人々は彼を排除するだけでなく、同時に歓待もした。寅次郎には、共同体の内部と外部を往還する異人という聖性が与えられていたのである。しかし、現実の共同体の中では、犠牲者は内部に閉じ込められたままで、外部との往還は禁じられている。排除されるだけで歓待されることはない。聖性を奪われた犠牲者はいとも簡単に死へと追いやられ、共同体の内部では新たな生贄を求めるゲームが永遠に続けられる。
現在、「排除」の対象は更に拡がり、高齢者、生活保護受給者、母子・父子家庭、子を持たぬ夫婦、独身者、被災者…様々な立場の人がスティグマを捺され「社会のお荷物=悪」として攻撃されている。強引に差異をつくり、誰かを叩かないとやっていられない閉塞感が社会に満ちている。
本書に触れて、赤坂氏がなぜ東北に強い思い入れを持っているのかが良く分かった。東北は「排除」された地域である。あからさまな蔑みを口にする人は減ったが、根っこの部分では「白河以北、一山百文」の時代から何も変わっていない。あの震災が日本の他の地域で起こったのならば、復興はここまで停滞していなかったと思うのだ。