ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

届く声と届かない声

2008年07月04日 | 音楽
秦基博の曲を初めて聴いた時、もったいないなと思ったことを覚えている。曲はいいし、歌い方も気持ちいい。声も柔らかで悪くない。ただ届かないのだ。

届く声と届かない声。

声の出し方にはいくつかの種類がある。それは単に声の大きさの問題ではない。例えば混雑した居酒屋で店員に声をかける際、同じ「すみません」でも店員が気付きやすい人とそうでない人がいる。声をひそめて囁いているのにやたら聞こえる声がある。こういった声があるかと思うとウィーン少年合唱団のように、その音量にも関わらず、美しい響きだけである種の「静寂」とさえ思える声がある。

声量、声質、響き。それらはもちろんではあるものの、人が人に何かを伝える・届けようとするのであれば「気持ち」「想い」をどのように打ち出すかが大きなポイントなのだ。

「想い」を自分の側に留めておけば相手に届きにくい声となり、相手にぶつける様にすれば厚かましいくらいよく届く声となる(もっともこの手のタイプはそもそも声もでかく、唾を飛ばしながら喋るタイプが多いわけだが…)。内向性と外向性と言い換えても言いかもしれない。

秦基博の声も、そういう意味で前者の、自分の側に気持ちを留めておくタイプなのだろう。彼の声は誰にも優しく心地よい代わりに、その想いは届きにくい。

しかし彼のアコギ一本で唄う姿を見たとき、その印象は大きく変わる。

もちろん急に外に向けて感情をぶつけだすというわけではない。みんなを包みこんだり、みんなのテンションをあおって会場全体の一体にするというのでもない。秦基博自身に内包されたエネルギーが、その歌声とともに拡がるのだ。あくまでも感情を内に秘めたまま、でもその想いはとどまりきらずに溢れでてしまう…そんな感じだろうか。

だからこそ心のひだに触れる。
だからこそ気がつくと涙を流している。

これから夏フェスやイベントのシーズンになるけれど、野外で秦の内向性の声がどこまで届くのか、心震わさせてくれるのか非常に楽しみなところだ。


秦基博 - 僕らをつないでいるもの live




秦基博/キミ、メグル、ボク


秦基博 / コントラスト (通常盤)




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