「大阪都構想」を打ち出した橋下元府知事が大阪市長に当選した。橋下氏の代わりに大阪府知事選に立候補した大阪維新の会の松井氏も当選し、結果的に大阪府民/市民は「大阪都構想」を選択したことになる。
ただ感覚としては具体的な「大阪都構想」を選択したというよりも「変化」を選択したというのが正しいのだろう。
これは何となくわかる。それは大阪府/大阪市だけの問題ではなく、日本全体やあるいは先進国と言われていた国々にも共通の感覚ではないか。そしてその感覚を一言で言えば「閉塞感」という言葉に尽きるのだろう。この「閉塞感」を生み出しているものには、社会全体が大きく変化したことに対して、それに対応しきれていない社会構造があるからだ。
これまでの日本の社会構造・政治経済体制の起源というのは戦後ではなく1940年代にあるという。国家総動員体制の下、生産力向上を最重要課題とし、官主導による護送船団方式の形成や日本型経営・日本型企業(企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用など含む)の原型が創られたのだという。
もちろんそうしたあり方が今でも続いているとは言わない。競争環境の変化によって、大企業や金融機関でも安心できるものではなくなったし、終身雇用や年功序列といった制度も崩れてきている。橋本行財政改革・小泉改革の下、官公庁の統廃合や規制緩和も進んだ。しかしその一方でその変化がすべてに等しく訪れているわけではない。
僕らが感じている閉塞感とはその変化していないものに対する憤りだといえないか。
その憤りは大きく以下のように指摘できる。
1)経済成長と人口増が前提となっていた時代から低経済成長・人口縮小社会へと変化が必要にもかかわらず、以前のままの構造が続いている。
2)既存の社会制度下で既得権益者が固定化されている
3)メインストリートから外れていくことに対する危機感
1つ目はその言葉通り。これまでの社会経済体制やそのための制度とは大前提が変わったにも関わらず、組織や制度が変わっていないことに対する歪みがでてきている。年金制度なんてまさしくそうだし、官主導の景気対策・再開発の多くもそうだろう。人口減少と都市インフラの維持コストの削減を目指しコンパクトシティが叫ばれる一方で、多くの物事は「拡大」を前提とした仕組みの中でなりたっている。物を作り売り続ける。新しい街を開発し住宅を建てる。しかし現実問題として、東京や一部地域の中核となる都市以外は人も金も減っていくのだ。
2番目は、そうしたこれまでの経済社会体制の下では、メリットを享受できる既得権益層が固定化していることに対する憤りだ。年金について言えば、逃げ切り世代とそれを支える世代の世代間不公平が存在している。大企業の正社員には十分な給与と福利厚生が与えられ、同じ仕事をしながら派遣社員ではいつ契約が切られるかわからない。そこにどんな違いがあったのか。一度、組み込まれたピースはそのパズルから抜け出すことはできないのだ。
そして3つ目。これは今の日本人の誰でもが潜在的に感じていることだろう。これまでは先進国の一員として世界経済の中心にいたにもかかわらず、いつの間にかその地位は中国に取って代わられた。メインストリームにいたはずが、気がつけばどこかに置いていかれている。
これは「日本」という国の問題だけではない。例えば今回で言えば「大阪」にもそうした思いはあるだろう。東京に対して、西日本の中心都市としての「大阪」。しかし現実には東京には人もカネも情報もすべてが一極集中し、他方、大阪は停滞している。このまま置いて行かれるのではないか、そうした不安は常にあるだろう。
そうした底の見えない漠然とした恐怖が閉塞感に繋がっている。
大阪都が実現すれば全てが解決するとは思わない。しかしこのままでは何も変わらない。そうした思いが、今回の「維新」を招いたのだろう。
大阪都構想をめぐる橋下知事と平松市長の戦い - ビールを飲みながら考えてみた…
ただ感覚としては具体的な「大阪都構想」を選択したというよりも「変化」を選択したというのが正しいのだろう。
これは何となくわかる。それは大阪府/大阪市だけの問題ではなく、日本全体やあるいは先進国と言われていた国々にも共通の感覚ではないか。そしてその感覚を一言で言えば「閉塞感」という言葉に尽きるのだろう。この「閉塞感」を生み出しているものには、社会全体が大きく変化したことに対して、それに対応しきれていない社会構造があるからだ。
これまでの日本の社会構造・政治経済体制の起源というのは戦後ではなく1940年代にあるという。国家総動員体制の下、生産力向上を最重要課題とし、官主導による護送船団方式の形成や日本型経営・日本型企業(企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用など含む)の原型が創られたのだという。
もちろんそうしたあり方が今でも続いているとは言わない。競争環境の変化によって、大企業や金融機関でも安心できるものではなくなったし、終身雇用や年功序列といった制度も崩れてきている。橋本行財政改革・小泉改革の下、官公庁の統廃合や規制緩和も進んだ。しかしその一方でその変化がすべてに等しく訪れているわけではない。
僕らが感じている閉塞感とはその変化していないものに対する憤りだといえないか。
その憤りは大きく以下のように指摘できる。
1)経済成長と人口増が前提となっていた時代から低経済成長・人口縮小社会へと変化が必要にもかかわらず、以前のままの構造が続いている。
2)既存の社会制度下で既得権益者が固定化されている
3)メインストリートから外れていくことに対する危機感
1つ目はその言葉通り。これまでの社会経済体制やそのための制度とは大前提が変わったにも関わらず、組織や制度が変わっていないことに対する歪みがでてきている。年金制度なんてまさしくそうだし、官主導の景気対策・再開発の多くもそうだろう。人口減少と都市インフラの維持コストの削減を目指しコンパクトシティが叫ばれる一方で、多くの物事は「拡大」を前提とした仕組みの中でなりたっている。物を作り売り続ける。新しい街を開発し住宅を建てる。しかし現実問題として、東京や一部地域の中核となる都市以外は人も金も減っていくのだ。
2番目は、そうしたこれまでの経済社会体制の下では、メリットを享受できる既得権益層が固定化していることに対する憤りだ。年金について言えば、逃げ切り世代とそれを支える世代の世代間不公平が存在している。大企業の正社員には十分な給与と福利厚生が与えられ、同じ仕事をしながら派遣社員ではいつ契約が切られるかわからない。そこにどんな違いがあったのか。一度、組み込まれたピースはそのパズルから抜け出すことはできないのだ。
そして3つ目。これは今の日本人の誰でもが潜在的に感じていることだろう。これまでは先進国の一員として世界経済の中心にいたにもかかわらず、いつの間にかその地位は中国に取って代わられた。メインストリームにいたはずが、気がつけばどこかに置いていかれている。
これは「日本」という国の問題だけではない。例えば今回で言えば「大阪」にもそうした思いはあるだろう。東京に対して、西日本の中心都市としての「大阪」。しかし現実には東京には人もカネも情報もすべてが一極集中し、他方、大阪は停滞している。このまま置いて行かれるのではないか、そうした不安は常にあるだろう。
そうした底の見えない漠然とした恐怖が閉塞感に繋がっている。
大阪都が実現すれば全てが解決するとは思わない。しかしこのままでは何も変わらない。そうした思いが、今回の「維新」を招いたのだろう。
大阪都構想をめぐる橋下知事と平松市長の戦い - ビールを飲みながら考えてみた…
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