例えば各藩毎の方言から共通言語としての「日本語」が普及するために「新聞」が果たした役割は大きかったし、「日本国民」としての共通意識を生み出すために「新聞」が果たした役割も大きかった。その一方で大政翼賛会を作り上げた責任の一端は「新聞」をはじめとしたマスコミにある。
これらに共通して言えることは、社会全体に対して影響力を与えるような情報を発信するためには、大きな資本が必要であり、「新聞」をはじめとした「マスコミ」にしかそれらの機能がなかったからだ。そしてそれらマスコミは、その時々で結びつきの強度は違ったとしても、時の権力と近しい関係を築きながら存続してきた。
一部の雑誌やジャーナリストから異議を唱えられてきたのも事実だけれど、多くの国民はマスコミが流す情報を「真実」だと思ってきたし、そのマスコミの流す情報が「大事な情報」だと思ってきただろう。
しかしインターネットの登場以降、そうした「幻想」は崩れてしまった。情報を発信するための障壁はぐっと下がり、地方新聞並みの読者を抱えた少人数のネットニュース企業がいくつも登場し、個人が世界を相手にニュースを流すことも可能となった。これまでであれば、マスコミの「判断」によってかき消されてきたニュースたちが一斉に広まることとなった。
しかしそのことを当のマスコミの人たちは気づいていないのかもしれない。
今日、1つの抗議行動があった。
お台場のフジテレビが韓流番組やアーティストをゴリ押ししているとして、行われた韓流反対デモだ。
【デモ速報】8.21フジテレビ韓流ゴリ押し・偏向報道抗議デモ 現地リポート速報【公式発表6000人】(ガジェット通信) - livedoor ニュース
韓流偏重「なぜ抗議されなきゃ?」 フジ、文書受取り拒否の高姿勢 : J-CASTニュース
今回、6000人から8000人が参加したと言われているフジテレビに対して行われたデモの様子は、この記事を書いている段階ではマスコミ(特にテレビ)での報道はない(少なくとも見ていない)。
しかしそうやってマスコミの側がニュースを選別すればするほど、そこに不信感が生まれている。いや、もちろん限られた紙面、限られた放送時間の中では、報道すべき「価値」のあるニュースや視聴者が「求めている」ニュース、あるいは彼らの財政を支える「スポンサーの望んでいる」内容を放送せざろうえないこともわかる。そうした基準で選んだときに、全てのニュースが流すことはできないこともわかる。
とするならば、既にコンテンツの「選択権」「編成権」がユーザーの側に移っているネット文化に慣れた視聴者にとっては、マスコミの報道というのは「期待に応えられない存在」でしかないのかもしれない。
ネットに慣れた世代は、決められた「内容」を決められた「時間」に一方的に与えられることをよしとしない。彼らは必要な情報は「検索」し、あるいはソーシャルネットを通じて「共有」する。自ら何かを求めることもあれば、特に何かを求めなかったとしても周囲が反応しているものに対して同じように反応したいと思う。その上で気に入れば気に留めるし、そうでなければ流してしまうだけだ。
「これを見ていればいいんですよ」といった押し付けは不要なのだ。
そうした中では社会全体での共通の「ニュース」や「価値」というのは不要かもしれない。誰もが関心のあるニュース、誰もが見ているドラマ、誰もが知っている歌、そういったものはもう存在しないのかもしれない。しかしそうした社会の「統合化機能」が失われつつあるというのはこれはまた別の問題、ここでは問わない。
押し付けを求めない世代。自ら興味関心のあるものにのみ反応する世代。にもかかわらず、それを押し付けてくる、特に自分たちが気に入らない「内容」のものを押し付け、ブームのように作り出そうとするマスコミの姿勢に彼らは反応する。そして必要以上の妄想がネットの中で拡大していく。
しかも「チュニジア・ジャスミン革命」ではないけれど、今回のデモの広がり方は必ずしも組織化されたものではない。ネットを通じた「集合的無意識」が現実化したといっていい。
この時代に、果たしてマスコミはどのような役割を果たすべきなのか、果たすことができるのか。単なるコンテンツ供給事業者の位置に甘んじるのか。答えは容易にはでないのだろう。
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一部の雑誌やジャーナリストから異議を唱えられてきたのも事実だけれど、多くの国民はマスコミが流す情報を「真実」だと思ってきたし、そのマスコミの流す情報が「大事な情報」だと思ってきただろう。
しかしインターネットの登場以降、そうした「幻想」は崩れてしまった。情報を発信するための障壁はぐっと下がり、地方新聞並みの読者を抱えた少人数のネットニュース企業がいくつも登場し、個人が世界を相手にニュースを流すことも可能となった。これまでであれば、マスコミの「判断」によってかき消されてきたニュースたちが一斉に広まることとなった。
しかしそのことを当のマスコミの人たちは気づいていないのかもしれない。
今日、1つの抗議行動があった。
お台場のフジテレビが韓流番組やアーティストをゴリ押ししているとして、行われた韓流反対デモだ。
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しかしそうやってマスコミの側がニュースを選別すればするほど、そこに不信感が生まれている。いや、もちろん限られた紙面、限られた放送時間の中では、報道すべき「価値」のあるニュースや視聴者が「求めている」ニュース、あるいは彼らの財政を支える「スポンサーの望んでいる」内容を放送せざろうえないこともわかる。そうした基準で選んだときに、全てのニュースが流すことはできないこともわかる。
とするならば、既にコンテンツの「選択権」「編成権」がユーザーの側に移っているネット文化に慣れた視聴者にとっては、マスコミの報道というのは「期待に応えられない存在」でしかないのかもしれない。
ネットに慣れた世代は、決められた「内容」を決められた「時間」に一方的に与えられることをよしとしない。彼らは必要な情報は「検索」し、あるいはソーシャルネットを通じて「共有」する。自ら何かを求めることもあれば、特に何かを求めなかったとしても周囲が反応しているものに対して同じように反応したいと思う。その上で気に入れば気に留めるし、そうでなければ流してしまうだけだ。
「これを見ていればいいんですよ」といった押し付けは不要なのだ。
そうした中では社会全体での共通の「ニュース」や「価値」というのは不要かもしれない。誰もが関心のあるニュース、誰もが見ているドラマ、誰もが知っている歌、そういったものはもう存在しないのかもしれない。しかしそうした社会の「統合化機能」が失われつつあるというのはこれはまた別の問題、ここでは問わない。
押し付けを求めない世代。自ら興味関心のあるものにのみ反応する世代。にもかかわらず、それを押し付けてくる、特に自分たちが気に入らない「内容」のものを押し付け、ブームのように作り出そうとするマスコミの姿勢に彼らは反応する。そして必要以上の妄想がネットの中で拡大していく。
しかも「チュニジア・ジャスミン革命」ではないけれど、今回のデモの広がり方は必ずしも組織化されたものではない。ネットを通じた「集合的無意識」が現実化したといっていい。
この時代に、果たしてマスコミはどのような役割を果たすべきなのか、果たすことができるのか。単なるコンテンツ供給事業者の位置に甘んじるのか。答えは容易にはでないのだろう。
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